春秋時代256 東周敬王(二十五) 周の内乱 前504~503年

今回は東周敬王十六年と十七年です。
 
敬王十六年
504 丁酉
 
[] 春正月癸亥(十八日)、鄭の游速(または「游遬」)が軍を率いて許を滅ぼし、許男・斯を捕えて帰国しました。楚が呉に敗れて影響力が弱くなっていたため、鄭はその隙を衝きました。
当時の許都は容城にありましたが(東周敬王十四年・506年参照)、鄭がその地を併吞しました。
しかし東周敬王二十六年(前494年)には「許男」が再び登場します。楊伯峻の『春秋左伝注』によると、楚が属国として許を再封したようです。
 
[] 以前(いつの事かははっきりしません)、周の儋翩(王子朝の余党。簡王の子孫)が王子朝の徒を統率し、鄭人の援けを借りて周で乱を起こしました。
鄭がその機に乗じて周の邑である馮、滑、胥靡、負黍、狐人、闕外(伊闕外)を攻撃します。
それを見た晋が鄭を譴責し、魯が晋のために出兵することになりました。
 
二月、魯定公が鄭を討伐し、匡を取りました。
 
魯軍は鄭討伐に行く時には衛を通りませんでした。しかし、帰還する時は陽虎が季孫斯(季桓子)と仲孫何忌(孟懿子)に勧めたため、魯軍は衛の南門から入って東門を出た後、豚沢(東門外の地名)に駐留しました。
衛霊公は魯が勝手に衛内を行軍したことを怒り、寵臣の彌子瑕に魯軍追撃を命じました。
それを聞いた公叔発(公叔文子。貞恵文子)は、既に告老(引退)していましたが、輦に乗って霊公に会い、こう言いました「人を怨みながらその人のやり方に倣うのは礼ではありません(小人を相手にしたら自分も小人になります。陽虎を小人とみなしており、衛内の行軍は魯君や正卿の本意ではないので、小人に構う必要はないという主旨です)。魯で昭公が難を受けた時、国君は(衛)文公の舒鼎(鼎の一種)、成公の昭兆宝亀、定公の鞶鑑(装飾された鏡)を賞とし、(昭公を)国に入れることができた者には(魯昭公を助けて魯に帰国させることができた者には)この中から一つを選んで与えると約束しました。また、公子や二三臣(卿大夫)の子は、諸侯が(魯昭公のために)憂いるのなら質(人質)になってもいい(諸侯が魯昭公を助けるのなら、代わりに自分が人質として諸侯に行ってもいい)と言っていました。これは群臣も聞いたことであり、皆知っています。それなのに今、小忿(小さい怨み)によって旧徳を覆うのは相応しくありません。大姒(文王の妃)の子では周公(魯の祖)と康叔(衛の祖)が睦まじくしていました。小人(陽虎)のためにそれを棄てたら、小人に騙されたことになります。天は陽虎の罪を増やして倒そうとしています。国君はしばらく様子を見るべきです。」
衛は出兵を中止しました。
 
[] 魯定公が鄭討伐から還りました。
 
[] 夏、魯の季孫斯と仲孫何忌が晋に行きました。鄭俘(鄭から奪った捕虜)を献上するためです。
陽虎が仲孫何忌に強く勧めて、晋定公夫人にも幣(財礼)を贈らせました。晋の歓心を買うためです。
 
晋は季孫斯と仲孫何忌を享礼でもてなしました。仲孫何忌が部屋の外に立って士鞅(范献子)に言いました「陽虎は(専横に限りがないので、やがて)魯国に住めなくなります。その時は職責を棄てて晋に頼るつもりです。彼が晋で中軍司馬(大夫の最高位)になることを先君に誓いましょう。」
士鞅が言いました「寡君には寡君の官がおり、相応しい人材を選んで用いています。鞅が知るところではありません。」
その後、士鞅が趙鞅(趙簡子)に言いました「魯人は陽虎を憂いとしています。孟孫は覚(予兆)を得たので、将来、陽虎が晋に逃げるために(誓いまで立てて)強く受け入れを請いました。」
仲孫何忌の予言は的中し、後に陽虎は晋に出奔することになります。
 
[] 四月己丑(十五日)、呉の太子・終累が楚の舟師を破って潘子臣、小惟子(どちらも舟師の帥)および大夫七人を捕えました。
楚国は驚き、亡国を恐れます。
楚の子期も陵師(陸軍)を率いて繁揚で戦いましたが、敗れました。
以上は『春秋左氏伝定公六年)』の記述です。『史記・楚世家』には「呉が再び楚を攻めて番を取る」とあり、『呉太伯世家』には「呉王が太子・夫差に楚を討たせて番を取る」とあります。
まず、『春秋左氏伝』の「太子・終累」が『史記』では「太子・夫差」になっています。終累は夫差の兄という説と、夫差と同一人物という説があります。もし夫差の兄だとしたら、呉王・闔廬の後は夫差が継ぐので、終累は庶兄は早逝したことになります。
また、『春秋左氏伝』に「番」という地名は出てきません。『史記・呉太伯世家』の注釈(索隠)をみると、「番」の音は「潘」と同じで、『春秋左氏伝』の潘子臣が潘(番)邑大夫だったようです。呉は潘邑大夫を捕えてその地を占領したと考えられます。
 
『春秋左氏伝』に戻ります。
楚軍の敗報を聞いた令尹・子西は喜んでこう言いました「今なら為すことができる(国を正しく治めることができる)。」
子西の発言は、「大国の驕りを棄てて畏怖を知らなければ、国を治めることはできない」という道理を意味しています。
楚は郢から鄀(北鄀)に遷都し、政治を正して国を安定させました
 
[] 六月、晋の閻没が兵を率いて周を守り、胥靡に築城しました。
 
[] 秋八月、宋の楽祁(楽祁犂)が景公に言いました「諸侯の中で我が国だけが晋に仕えています(楊伯峻『春秋左伝注』によると、城濮の戦い以来、宋は晋に対して最も良く仕えています)。しかし最近、使者を送っていないので、晋の怨みを買うでしょう。」
楽祁はこの事を宰臣の陳寅にも話しました。すると陳寅は「子(あなた)が派遣されることになるでしょう」と言いました。
後日、景公が楽祁に言いました「寡人だけが子の言に興味をもった。子が使者として行くべきだ(他の者では務まらない)。」
退出した楽祁に陳寅が言いました「後継ぎを立ててから出発するべきです。そうすれば我々の室(家)が亡ぶことなく、国君も我々が困難を知りながら使者になったことが分かるでしょう。」
この言葉と下の内容を見ると、楽祁と陳寅が使者になったようです。晋は各卿が権力を争って混乱しているため、陳寅は使者にも禍が及ぶと判断しました。
楽祁は子の楽溷を後継者に選び、景公に謁見させて楽氏を継がせることを報告しました。
その後、楽祁は行人(外交官。正使)として晋に向かいました。
 
晋の趙鞅(趙簡子)が楽祁を出迎え、緜上で宴を開きました。楽祁は六十の楊楯(楊木の盾)を趙鞅に献上します。陳寅が楽祁に言いました「昔、我が主は范氏に仕えましたが、今、子(あなた)は趙氏に仕え、礼物を納めました。この楊楯によって禍を買うことになるでしょう。しかし仕方がありません。子(あなた)が晋国で死ねば、その子孫は必ず宋で志を得ることができます。」
 
士鞅(范献子)は楽祁が趙氏と親しくしたことが不快だったため、晋定公にこう言いました「君命を受けて使者となり、国境を越えたのに、使者の任を果たす前に個人的に酒を飲みました。これは二君(宋景公と晋定公)に対して不敬なことです。彼を討つべきです。」
晋は楽祁を捕えました。
 
[] 魯の陽虎が定公および三桓(季孫氏・孟孫氏・叔孫氏)と周社(国社。周公の社)で盟を結び、亳社商王朝の社。魯は商奄の地にあたり、商王朝の遺民が集まっていたため、商の社がありました)で国人と盟を結び、五父の衢(曲阜の大通りの名)で詛を行いました。
 
[] 冬、魯が中城(内城)を築きました。
 
[] 魯の季孫斯と仲孫何忌が鄆を包囲しました。鄆が斉と通じていたためのようです。
 
[十一] 十二月、天王(周敬王)が姑蕕(周地)に住みました。儋翩の乱を避けるためです。
これは『春秋左氏伝(定公六年)』の記述です。『史記・周本紀』は敬王が晋に奔ったとしています。
晋は亡命して来た敬王を助けて姑蕕に住ませたのかもしれません。
 
 
 
翌年は東周敬王十七年です。
 
敬王十七年
503年 戊戌
 
[] 春二月、周の儋翩が儀栗(周の邑)に入って挙兵しました。
 
[] 斉が鄆と陽関を魯に返しました。
魯の陽虎がそこに住んで政治を行うようになりました。
 
[] 夏四月、周の単武公(穆公の子)と劉桓公(文公の子)が窮谷で尹氏を破りました。尹氏は儋翩と共に謀反したようです。
 
[] 秋、斉侯(景公)と鄭伯(献公)が鹹で盟を結びました。
斉は衛も会盟に招きました。
この頃、衛霊公は晋に背いて斉・鄭に附こうとしていましたが、諸大夫が反対しました。そこで北宮結を斉に派遣してから、秘かに斉景公にこう伝えました「結を捕えて我が国を侵してください。」
衛の諸大夫を脅して斉との会盟に同意させるためです。
斉は衛の行人・北宮結を捕えて衛を侵しました。
 
衛侯(霊公)が斉侯(景公)と沙(または「瑣」「沙沢」)で盟を結びました。

[] 魯が大雩(雨乞いの儀式)を行いました。
 
[] 斉の国夏(国佐の孫)が晋に背いて魯(晋の同盟国)の西境を侵しました。
 
魯軍は夜間に斉軍を攻撃する計画を立てました。下の内容を見ると陽虎が計を立てたようです。
陽虎が季孫斯(季桓子)の御者に、公斂処父(公斂陽。公斂が氏。孟氏の家臣。成邑の宰)が仲孫何忌(孟懿子)の御者になりました。
この情報を得た斉軍はわざと防備を除き、伏兵を配置して魯軍を待ちます。
 
公斂処父が陽虎に言いました「禍を考慮しないようなら(斉の伏兵を考慮せず夜襲を行うなら)、あなたは必ず死にます。」
苫夷(季孫氏の家臣)も言いました「虎(陽虎)は二子(季孫氏と孟孫氏)を難に陥れようとしている。有司(軍法を掌る官員)を待つ必要はない。私が汝を殺そう。」
陽虎が恐れて撤退したため、魯軍は敗戦を免れました。
 
[] 九月、魯が再び大雩を行いました。干害に襲われていたようです。
 
[] 冬十一月戊午(二十三日)、周の単子と劉子が慶氏(姑蕕を守る大夫)の家で周敬王を迎え入れました。
晋の籍秦が敬王を守ります。
十二月己巳(初五日)、敬王が王城に入り、公族の党氏(周の大夫)の家に住みました。
その後、荘宮(荘王廟)を拝しました。荘宮を拝したのは、荘王が王子克と周公・黒肩の陰謀を防いで王位を固めることができたからだと思われます(東周荘王三年・694年参照)
 
[] 『史記・管蔡世家』によると、この年(蔡昭侯十六年)、楚の令尹・子常が民のために泣き、蔡に対する報復を考えました。蔡が呉に協力して楚を攻撃し、一時は楚を亡国の危機に追い込んだからです。
それを聞いた蔡昭侯は恐れを抱きました。
史記・楚世家』にはこれに関する記述がなく、『十二諸侯年表』は翌年に「子西が民のために泣き、民も泣く 蔡昭侯が恐れる」と書いています。
 
 
 
次回に続きます。