春秋時代258 東周敬王(二十七) 陽虎の乱 前502年(2)

今回は東周敬王十八年の続きです。
 
[十一] 秋七月戊辰(初七日)、陳懐公が在位四年で死にました。
史記・陳杞世家』によると、懐公元年(東周敬王十五年・前505年)、呉が楚を破って郢に入った時、呉が陳侯(懐公)を招きました。陳侯は郢に行こうとしましたが、大夫がこう言いました「呉は意を得たばかりです。楚王は亡命したとはいえ、陳とは古くから関係があるので、裏切ってはなりません。」
懐公は病と称して呉の招きを辞退しました。
四年(本年)、呉が再び懐公を招きました。懐公は恐れて呉に行きます。呉は懐公が前回招きに応じなかったことを譴責し、呉に拘留しました。懐公は呉で死にました。
陳は懐公の子・越(または「同」)を立てました。これを湣公(閔公)といいます
 
[十二] 秋、晋の士鞅が周の卿士・成桓公と共に鄭を侵し、蟲牢を包囲しました。二年前に鄭が伊闕を攻めたためです。
その後、衛を攻撃しました。
 
[十三] 曹が靖公を埋葬しました。
 
[十四] 九月、陳が懐公を埋葬しました。
『春秋左氏伝』には陳懐公が呉で死んだとは書かれていません。『史記』の記述が正しいとしたら、七月から九月の間に懐公の霊柩が還されたようです。
 
[十五] 魯の季孫斯と仲孫何忌が晋のために衛を攻めました。
 
[十六] 冬、衛侯(霊公)と鄭伯(献公)が曲濮(衛地)で盟を結びました。
 
[十七] 魯の季寤(子言)、公鉏極、公山不狃は季氏に仕えていましたが、志を得ることができませんでした。季寤は季孫意如の子で、季孫斯の弟です。
公鉏極は公彌(公鉏。季孫宿の子。東周霊王二十二年・前550年参照)の曾孫です。公彌が頃伯を産み、頃伯が隠侯伯を産み、隠侯伯が公鉏極を産みました。公鉏は公彌の子孫が用いた氏です。
叔孫氏の庶子・叔孫輒は叔孫氏において寵愛を受けることなく、叔仲志は魯国で志を得ることができずにいました。叔仲志は叔仲帯(昭伯)の孫です。
不満を抱えているこの五人(季寤、公鉏極、公山不狃、叔孫輒、叔仲志)は陽虎を頼るようになりました。
そこで、陽虎は三桓(季孫氏・孟孫氏・叔孫氏)を除き、季寤を季氏(季孫斯)に、叔孫輒を叔孫氏(叔孫州仇。叔孫不敢の子)に代え、自ら孟氏(仲孫何忌)の代わりになろうとしました。
 
冬十月、陽虎が先公(閔公・釐公)を祀って祈祷しました。
辛卯(初二日)、僖公(釐公)廟で禘祭を行いました。
壬辰(初三日)、蒲圃で享礼の準備をしました。季氏を誘い出して暗殺するためです。陽虎は都車(都邑の車兵)に「癸巳(初四日)に参集せよ」と伝えました。
 
陽虎の軍命を知った成邑の宰・公斂処父が仲孫何忌(孟孫懿子)に問いました「季氏が都車に参集の命を出しましたが(実際は陽虎の命ですが、陽虎は季氏に仕えているため、季氏の命になります)、なぜでしょう?」
仲孫何忌が言いました「そのような命は聞いていない。」
公斂処父が言いました「それなら乱を起こすつもりでしょう。乱は子(あなた)にも及びます。先に備えるべきです。」
公斂処父は壬辰(初三日)中に兵を出して孟孫氏を援けることを約束しました。
 
陽虎が蒲圃に入りました。享礼に誘われた季孫斯も蒲圃に向かいます。林楚が車を御し、虞人(山川や苑囿を管理する官)が鈹(刃が長い武器)と盾を持って季孫斯を囲み、陽越(陽虎の従弟)が殿しんがりになりました。
蒲圃に入ろうとした時、季孫斯が突然、林楚に言いました「汝の先人は皆、季氏の良臣だった。汝もそれを継げ。」
林楚が言いました「その命を聞くのが遅すぎました。今は陽虎が政治を行っており、魯国が彼に服しています。陽虎に背いたら死を招き、死んだら主にも益がありません。」
季孫斯が言いました「遅いことはない。汝はわしを孟氏の家に送ることができるか?」
林楚が言いました「私が命を惜しむつもりはありません。主が(陽虎の誘いを拒否することで)禍から逃れられなくなることを恐れるのです。」
季孫斯は「行け」と命じました。
 
この時、孟氏は圉人(奴隷)の中から壮健な者三百人を選び、門の外に公期(仲孫何忌の子)の家を建てていました。
林楚は馬を駆けさせて衢(大通り)に至り、孟氏の門に入ります。
季孫斯の後を追っていた陽越が矢を射ましたが中りませんでした。
家を建てていた圉人が門を閉め、中の者が門の間から矢を射て陽越を殺しました。
 
陽虎は定公と叔孫州仇(武叔)を擁して孟氏を討伐しようとしました。
そこに成の兵を率いた公斂処父が到着し、上東門(魯東城の北門)から入って南門の中で陽虎と戦いました。
公斂処父は南門では勝てませんでしたが、再び棘下(城内の地名)で戦って陽氏勢力を破りました。
 
陽虎は甲冑を脱いで公宮に入ると、宝玉(夏后氏の璜)と大弓(封父の繁弱)を奪い、外に出て五父の衢(地名)に住みました。
陽虎は一眠りしてから部下に食事の準備をさせます。徒(徒党)が言いました「追手が来ます。」
陽虎が言いました「魯人(季氏)は余が出て行ったと知り、自分の死を遅らせることができたと喜んでいる。追手を差し向ける余裕はない。」
しかし従者が言いました「速く車を出すべきです。公斂陽(処父)がいます。」
 
一方の公斂処父は陽虎追撃を申し出ましたが、陽虎を恐れる仲孫何忌が許可しませんでした。
公斂処父は乱の原因となった季孫斯を殺して孟氏の権力を拡大しようと考えました。それを知った仲孫何忌は季孫斯を季氏の家に帰しました。
 
季寤が季氏の廟で酒を注いで祭ってから逃走しました。
陽虎は讙と陽関に入って叛しました。
 
[十八] 鄭で駟(子然。駟乞の子子太叔を継いで政治を行うことになりました
 
[十九] 『資治通鑑前編』によると、この年、魯で宓不斉が産まれました。後に孔子の弟子となる人物です。
史記・仲尼弟子列伝』には「字は子賎。孔子より三十歳年下」とありますが、『孔子家語・七十二弟子解』は「孔子より四十九歳年下」としています。
 
 
 
次回に続きます。