春秋時代259 東周敬王(二十八) 陽虎出奔 前501年(1)

今回は東周敬王十九年です。二回に分けます。
 
敬王十九年
501年 庚子
 
[] 春、宋景公が桐門右師・楽大心を派遣して晋と盟を結ぼうとしました。楽祁(子梁。前年参照)の死体を取り戻すためです。しかし楽大心は病と称して辞退しました。
景公は向巣を晋に送り、盟を結んでから楽祁の死体を宋に運びました。
向巣は向戌の孫です。向戌は東隣叔子・超を産み、超は左師・眇を産みました。左師・眇が向巣になります。ただし、一説では向戌の曾孫ともいわれています。
 
楽祁の霊柩が国境まで来ましたが、楽子明。楽祁の子)喪中のため、国外に出ることができません。そこで溷は楽大心に霊柩を迎え入れさせようとし、こう言いました「私が衰絰(喪服)を着ているのに、子(あなた)が鐘を撃っているのはなぜですか。」
鐘を撃つというのは遊んでいるという意味です。病と称して晋に行くことを拒否した楽大心を非難し、霊柩を迎えに行くように促しています。
楽大心はこう答えました「喪(霊柩)がここにないからだ(死体が晋にあるから喪に服していないのだ)。」
後に楽大心が知人にこう言いました「彼自身は衰絰を着ながら(喪中でありながら)子を産んだ(この頃、楽溷に子ができたようです)。余がなぜ鐘を捨てなければならないのだ(楽祁の子の楽溷でも喪中なのに子を作ったのだ。親戚のわしが遊んでいてなぜ悪い)。」
これを聞いた楽溷は怒って景公にこう言いました「右師(楽大心)は戴氏(宋国)に対して不利をもたらそうとしているから、晋への使いを拒否しました。もうすぐ乱を起こすはずです。そうでなければ病と称する必要はありません。」
翌年、景公が楽大心を放逐します。
 
[] 鄭の駟(子然)が鄧析を殺しましたが、鄧析が作った『竹刑(竹簡に記された刑律)』を採用しました。
君子(知識人)は「子然は不忠である。国に対して利をもたらすことができる者は、他人の邪の部分を棄てるべきだ(短所に対して寛大であるべきだ)子然は賢能の人材を励ますことができない」と批難しました。
 
[] 夏四月戊申(二十二日)、鄭献公が在位十三年で死に、子の声公・勝が継ぎました。
史記・鄭世家』によると、声公の時代、晋で権力を拡大している六卿が鄭をしばしば侵したため、鄭は衰弱していきました。
 
[] 陽虎が魯に宝玉と大弓を返しました。
 
[] 六月、鄭が献公を埋葬しました。
 
[] 魯が陽関(陽虎)を討伐しました。
陽虎が萊門(邑門)に火を放つと、驚いた魯軍に隙が生まれました。その機に乗じて陽虎は包囲を突破し、斉に奔りました。
 
陽虎が斉景公に魯攻撃を求めて「三回魯を攻めれば、必ず取ることができます」と言いました。
景公は同意しましたが、老臣の鮑国(鮑文子)が諫めて言いました「臣はかつて施氏(魯の大夫)に仕えていたので、魯はまだ取れないということを知っています。上下が和し、衆庶(民衆)が睦み、大国(晋)によく仕え、天菑(天災)もありません。なぜ取ることができるのですか。陽虎は斉師を動かしたいだけです。斉師が疲弊し、多くの大臣が死ねば、彼はここで詐謀(陰謀)を成すことができます。陽虎は季氏に寵信されていたのに、季孫を殺して魯国に不利益をもたらそうと企んでいるので、他者の歓心が必要なのです。彼は富を愛して仁を愛しません。国君は彼をどう用いるのですか?国君は季氏よりも富み、斉国は魯国より大きいので、陽虎は傾覆(斉国の乗っ取り)を考えるはずです。魯は既に陽虎の禍から免れました。主公が彼を収めたら、必ず主公の害になります。」
 
納得した斉景公は陽虎を捕えて斉国の東部に拘留しようとしました。
陽虎は元々西の晋に逃げたいと思っていたため、わざと逆の東方に拘留されることを願い出ます。景公は陽虎に企みがあると思い、その希望を退けて西境に送りました。
陽虎は邑人から全ての車を借りると、車軸に深い溝を彫り、麻布を巻きつけて返しました。陽虎が逃走したら斉人は邑の車を使って陽虎を追うはずです。車軸に溝を彫ったのは、折れやすくして追撃を止めさせるためです。
 
陽虎は葱霊(衣服を運ぶ車)に潜り込み、衣服で姿を隠して逃走しました。しかし斉の追手に捕まり、斉都に幽閉されます。
ところが陽虎は再び脱出し、葱霊に乗って宋に奔りました。その後、晋に行って趙氏に仕えます。
史記・趙世家』によると、趙簡子(趙鞅)は陽虎から賄賂を受け取ったため、陽虎を受け入れて厚く遇しました。
 
『春秋左氏伝(定公九年)』は「仲尼孔子が『趙氏は代々乱を招くことになるだろう』と言った」と書いています。
 
『説苑・復恩(巻六)』に陽虎に関する故事があります。『説宛』は陽虎が衛から晋に入ったとしています。
陽虎は衛で罪を得たため、北に向かって晋の趙簡子に会い、こう言いました「今後、私は人を育てようとは思いません(不復樹人矣)。」
趙簡子がその理由を問うと、陽虎はこう答えました「堂上の人(大臣)で臣が育てた者は半数を越えます。朝廷の吏(官員)も、臣が立てた者は半数を越えます。辺境の士も、臣が立てた者は半数を越えます。しかし今、堂上の人は自ら国君の前で臣を讒言し、朝廷の吏は自ら大衆の中で臣に危険を及ぼし、辺境の士は自ら兵(武器)を用いて臣を脅かしています。」
趙簡子が言いました「賢者だけが恩に報いることができる。不肖の者にはできないのだ。桃李を育てた者は、夏は木陰で休むことができ、秋はその実を食べることができる。しかし蒺藜(棘をもつ植物)を育てた者は、夏は木陰で休むことができず、秋にはその棘に刺されることになる。子(汝)が育てた者は蒺藜だったのだ。今後は人を選んで育てるべきであり、育ててから選べきではない。」
 
韓非子・外儲説左下』にも陽虎の故事があります。
陽虎は以前からこう言っていました「主が賢明なら心を尽くして仕えるが、不肖ならば奸を飾って試すものだ(自分の邪心を隠して隙を窺うものだ)。」
後に陽虎は魯を逐われ、斉で疑われ、晋の趙氏を頼りました。
趙簡子は陽虎を歓迎し、趙氏の相に任命します。すると近臣が趙簡子に言いました「陽虎は人から国政を奪う能力に長けています。なぜ相にするのですか?」
趙簡子が言いました「陽虎が権力を取ることに努めるのなら、私はそれを守ることに努めるまでだ。」
趙簡子が権術によって陽虎を御したため、陽虎は謀反を企むことなく簡子に仕えました。その結果、趙簡子は権勢を拡大し、覇者に匹敵する地位に登ることができました。
 
 
 
次回に続きます。