春秋時代260 東周敬王(二十九) 夷儀・中牟の戦い 前501年(2)

今回は東周敬王十九年の続きです。
 
[] 『史記孔子世家』によると、陽虎に仕えていた公山不狃も陽虎が出奔した頃に挙兵しました。但し、『春秋左氏伝』は公山不狃の挙兵を三年後(東周敬王二十二年・前498年)に書いているので、『孔子世家』が誤りで、実際は三年後の事かもしれません。
公山不狃は費邑で季氏に叛してから、人を送って孔子を招きました。
当時、孔子は治世の道を求めて久しいのに(『史記孔子世家』によると既に五十歳以上です)、国に用いられることなく、才能を発揮する機会がありませんでした。そこで孔子はこう言いました「周の文王と武王は豊・鎬から興隆して王になった。費は小さいが、似たようなものだろう。」
孔子が公山不狃の招きに応じようとしたため、子路が不快になって止めました。すると孔子はこう言いました「私を招くのだから、意味なく招くはずがない(彼等が私を招いたことが無駄になるはずがない)。私を用いる者がいるのなら、周道を東方で復興させよう。」
しかし結局、孔子公山不狃に会いに行きませんでした。
 
これとほぼ同じ話が『論語・陽貨篇(第十七)』にもあります。
公山弗攘公山不狃)が費で叛し、孔子を招きました。孔子が会いに行こうとすると、子路が不快になって言いました「行く必要はありません(「末之也已」。または「末之也,已」と読み、「行く場所がなくても、それでいいではありませんか」)。なぜ公山氏に会いにいかなけれなならないのですか?」
孔子が言いました「私を招くのだから、意味なく招くはずがない。私を用いる者がいるのなら、周道を東方で復興させよう。」
 
史記孔子世家』によると公山不狃に仕えるのを止めた孔子は魯の朝廷に仕え、中都宰に任命されました。その結果、一年四方(または「四方」ではなく「西方」で、魯の西に位置する諸国)孔子の政治を真似するようになったため、中都宰から司空司空から大司寇になりました(翌年に再述します)
 
[] 秋、斉景公が衛のために晋の夷儀を攻撃しました。
 
戦いの前に斉人・敝無存の父が敝無存に妻を娶らせようとしました。しかし敝無存は弟に譲ってこう言いました「この役で死なずに還ったら、高氏か国氏を妻としよう。」
高氏と国氏は斉の貴族です。戦いで功を挙げて卿相と婚姻関係を結びたいと思っていたため、父の紹介を断りました。
 
戦いが始まると、敝無存は真っ先に城壁を登って門から出ようとしましたが、城門の霤(檐)の下で戦死しました。
 
東郭書が先を争って城壁を登りました。犁彌王猛)が後に続いて言いました「子(あなた)は登ってから左に行ってください。私は右に行きます。城壁を登った者が集まってから下に降りましょう。」
東郭書は信じて左に向かいましたが、犁彌は先に城壁を降りて城内に先行しました
 
戦いが終わって東郭書と犁彌が休んでいる時、犁彌が言いました「私が先に城壁を登りました。」
東郭書は甲冑を脱いで犁彌と争う姿を見せ、こう言いました「先ほども難をなし(私を困らせ)、今もまた難をなすのか。」
先ほどの難は東郭書を騙して城壁の左に行かせ、その間に犁彌が城壁を降りて先行したことです。今の難は東郭書に功績を自慢していることです。
犁彌が笑って言いました「私が(あなた)に従うのは、(兵車の左右の馬。間の二頭は「服」といいます)に靳(二頭の服の背につけられた「游環」。驂の綱は服の游環を通って御者の手にまとめられます)があるようなものです。」
驂は犁彌で服は東郭書です。東郭書がいるから戦功を立てることができたという意味です。
 
『春秋左氏伝』にはありませんが、『春秋』経文に「斉侯と衛侯が五氏(地名)に駐軍する」とあるので、斉景公と衛霊公が五氏で合流したようです。
 
晋の兵車千乗が中牟に駐軍しました。
衛霊公は五氏に入った時、中牟に向かうべきかを卜いました。しかし卜の亀が焼け焦げて兆が出ません。
霊公が言いました「問題ない。衛車は敵の半分に相当し、寡人が半分に相当するから、対抗できる。」
衛の兵車は五百乗ですが、衛霊公自身が五百乗に値するから晋の千乗と戦うことができるという意味です。
衛霊公は中牟に向かいました。
 
中牟人(中牟の晋軍)が衛軍を攻撃しようとしましたが、衛から中牟に逃亡した褚師圃がこう言いました「衛は小国ですが、国君がいるので勝てません。斉師は城(夷儀)を占領して驕っており、その帥(誰かは分かりません。一説では東郭書です)も賎(身分が低い)なので、遭遇したら必ず勝てます。斉師を攻めるべきです。」
晋軍は斉軍を攻撃して破りました。斉軍は兵車五百乗を失います。
 
斉景公は晋と対立している衛に感謝するために、媚、杏(三邑とも斉の西境)を衛に譲りました。
 
斉景公が犁彌を賞しようとしましたが、犁彌は辞退してこう言いました「先に登った者がおり、臣はそれに従っただけです。彼は晳幘(白い頭巾)をかぶり、狸製(貍の皮の外衣)を着ていました。」
犁彌は「東郭書」と明言せず、服装の特徴を語りました。これを見ると、二人は元々知り合いではなかったようです。
景公が東郭書を召すと、犁彌は「夫子(彼)です」と言い、東郭書に「子(あなた)に譲りましょう」と言いました。
しかし東郭書も辞退して景公に「彼は賓旅です」と言いました。
「賓旅」というのは他国出身の臣下です。東郭書は犁彌を客として優先させました。
景公は犁彌を賞しました。
 
斉軍が夷儀にいる時、斉景公が夷儀の人々に宣言しました「敝無存を見つけた者は、五家を与えて役を免除する。」
やがて敝無存の死体が届けられます。
景公は三襚(三回死者の衣服を替えること)して犀軒(犀の皮で装飾した貴人の車)と直蓋(高い傘)を副葬品にし、霊柩を先に斉に還しました。
霊柩が出発する時、全軍が哀哭しました。霊柩を載せた車を牽く者も悲しみを表して座りこみます。景公自ら三回車を押しました。
 
[] 秦哀公が在位三十六年で死にました。太子は夷公とよばれていますが、早逝したためは即位していません。夷公の子が即位しました。これを恵公といいます。
 
冬、秦が哀公を埋葬しました。
 
[] 『資治通鑑前編』によると、この年、魯で閔損が産まれました。孔子の弟子になる人物です。
しかし『史記・仲尼弟子列伝』には「閔損は字を子騫といい、孔子より十五歳年下」とあります。
孔子が産まれたのは東周霊王二十一年(前551年)頃のはずなので、閔損が十五歳下だとしたら、産まれたのは景王九年(前536年)頃のはずです。
孔子家語・七十二弟子解』には閔損の歳が書かれていません。
 
 
 
次回に続きます。