春秋時代261 東周敬王(三十) 夾谷の会 前500年(1)

今回は東周敬王二十年です。二回に分けます。
 
敬王二十年
500年 辛丑
 
紀元前五世紀最初の年になります。
前五世紀に入って二十数年で春秋時代が終わり、戦国時代が始まります。
 
[] 春三月、魯と斉が講和しました。
 
[] 夏、魯定公が斉景公と祝其で会しました。祝其は夾谷(または「頬谷」)ともいいます。
魯の孔丘孔子が相(国君の補佐)を務めることになりました。楊伯峻の『春秋左伝注』によると、魯の相は卿が務めるものでしたが、陽虎の乱がきっかけで孔丘が破格の抜擢を受けることになりました。
 
魯に仕官してからの孔子について、『孔子家語・相魯(巻第一)』に記述があります。
孔子は魯に仕えたばかりの時、中都宰に任命されました(前年参照)。養生送死の節(民が安心して生活でき、死後は葬礼を行う制度。または子が親に対して行う孝道)を定め、年齢に応じて異なる食事をさせ、能力によって職務を変え、男女が一緒に同じ道を歩くことを禁止しました。道徳が行き届いたため、道で物を拾っても着服する者はなく、器物にも余計な装飾は作らず、人が死んだら四寸の棺と五寸の槨(外棺)の規格が守られ(礼を外れた豪奢な葬礼は行わず)、丘陵に墳墓を造ったため墓陵建築のためにわざわざ土を盛ったり木を植えることもなくなりました。
孔子が政治を行って一年で西方(または「四方」)の諸侯がそれに倣うようになります。
そこで定公が孔子に問いました「子(あなた)の施政の方法を学んで魯国を治めたらどうだろう?」
孔子が答えました「天下を治めることもできます。魯国一国ならなおさらです。」
中都宰になって二年後(恐らく足掛け二年)、定公は孔子を司空に任命しました。
 
司空になった孔子は各地を土地の性質に応じて山林・川沢・丘陵・高地・沼沢の五土(五種類の地形)に分け、各種の植物をそれぞれに合った土地で育てさせました。そのおかげで植物が繁茂します。
以前、季氏は昭公を墓道の南に埋葬し、先公の墳墓と分けさせました(東周敬王十一年・509年参照)孔子は昭公の墓と他の墓を全て大きな溝で囲み、昭公の墓も諸墓の敷地内に入れてから、季孫斯(季桓子)にこう言いました「国君を貶めて自分の罪を明らかにするのは非礼です。今、墓陵の土地を一つにしたので、夫子(あなた)の不臣の罪を覆い隠すことができました。」
魯は孔子の功績を認めて司空から大司寇に抜擢しました。
その結果、孔子が刑法を作っても用いる必要が無く、国に姦民がいなくなりました。
 
祝其の会に戻ります。『春秋左氏伝(定公十年)』の記述です。
斉の犁彌(または「犂鉏」)が景公に言いました「孔丘は礼を理解していますが勇がありません。萊人に武器を持たせて魯侯を脅迫させれば、志を得ることができます。」
景公はこれに従いました。
一方の孔丘は魯定公を連れて会盟の場所から退出すると、魯兵に向かってこう言いました「士よ、武器を持て!両君が好(友好)を交わらせる場所で、裔夷(辺境の夷。東夷)の俘(捕虜。莱は斉に滅ぼされたため、俘と称しました)が武器を持って乱そうとしている。これは斉君が諸侯に命を下す態度ではない。裔(辺境)は夏(中原)を謀らず(侵さず)、夷は華を乱さず、俘は盟を侵さず、兵(武器)は好(友好)を脅かさないものだ。これらのことは神に対して不祥であり、徳において義を失い、人に対して礼を失うので、君王がやるべきことではない!」
斉景公はこれを聞いて莱人を退かせました。
 
盟を結ぶ時、斉人が載書(盟書)にこう書き加えました「斉師が国境を出る時(斉が戦をする時)(魯が)甲車(兵車)三百乗で従うことをこの盟で誓う。」
これに対し、孔丘が魯の大夫・茲無還(茲が姓、無還が名。または「茲無」が姓。「茲毋」という姓もあります)に返礼の揖(両手を胸の前で組んで上半身を傾ける礼)をさせてから、こう誓いました「斉が我が汶陽の田(地)を返還しないのに、我が国が命に従ったら、咎を受けることを誓う(斉が汶陽の田を返還したら、我が国はそれによって斉の命に応じることを誓う)。」
 
斉景公が魯定公のために享礼(宴の一種)を設けてもてなそうとしました。しかし孔丘が梁丘據に言いました「斉と魯の旧典を吾子(あなた)は聞いたことがないのですか。既に事が成立したのに、また享礼を設けたら、執事(執政者)を煩わせることになります。そもそも、犧・象(どちらも酒器)は門(国の門)を出ず、嘉楽(鐘・磬)は野で合奏しないものなので、饗礼(享礼)を設けてこれらをそろえたら、礼を棄てたことになります。しかし逆にこれらがそろっていなければ、秕・稗(実が成らない穀物穀物に似た草)と同じです(酒器も楽器もそろっていない享礼は秕・稗のように中身がないものです)。秕・稗を用いるのは(そのような享礼を行うのは)、国君を辱めることであり、礼を棄てたら名声を悪くします。子(あなた)はなぜこれらの事を考えないのですか。享礼とは徳を明らかにするために行うのです。徳を明らかにできないのなら中止するべきです。」
梁丘據が定公に進言したため、享礼は中止になりました。
 
定公が夾谷から帰国しました。
 
夾谷の会に関しては『史記孔子世家』に少し異なる記述があります。また、『資治通鑑外紀』は『孔子家語』等から孔子に関する故事を紹介しています。別の場所で書きます。
[] 晋の趙鞅が衛を包囲しました。夷儀の役(前年)の報復です。
 
かつて衛霊公が晋の邯鄲午(邯鄲大夫・午)を寒氏(五氏)で撃ち、城の西北を攻め落として守備兵を置きました。その夜、邯鄲午の兵が壊滅しました。
今回、晋軍が衛を包囲すると、邯鄲午が徒兵(歩兵)七十人を率いて衛の西門を攻めました。衛は邯鄲午を恐れていないため、敢えて城門を開けて迎え入れます。邯鄲午は門内で衛人を殺して「寒氏の役に報復した!」と宣言しました。
この様子を見ていた晋の涉佗が言いました「夫子(彼。邯鄲午)は確かに勇敢だ。しかしわしが行けば、(衛人はわしを畏れているから)門を開けようともしないはずだ。」
涉佗も徒兵七十人を率いて早朝から衛の城門に迫りました。七十人は門の左右に並んで立ちます。
衛人は涉佗を畏れて正午になっても門を開けようとしません。涉佗は満足して引き返しました。
 
晋は兵を還してから衛に背反の理由を問いました。衛は「涉佗と成何に原因があります(東周敬王十八年・前502年参照)」と答えます。
晋は涉佗を捕えて衛と講和しようとしましたが、衛は拒否しました。晋は涉佗を処刑し、成何は燕に出奔しました。
 
『説苑・権謀(巻十三)』にこの時の子貢孔子の弟子)の言葉が紹介されています。
子貢はこう言いました「王孫商は善謀(謀を善くすること)といえる。人を憎んだらその人を害すことができ、憂患があればその憂患を解決し、民を用いようと思ったら民を帰心させることができた。今回の一挙でこの三者が全てそろったのだから、善謀と称すのに充分だ。」
 
[] 斉が鄆、讙、亀陰の地(三邑とも汶陽の地)を魯に返還しました。
 
 
 
次回に続きます。