春秋時代262 東周敬王(三十一) 侯犯の乱 前500年(2)

今回は東周敬王二十年の続きです。
 
[] 以前、魯の叔孫不敢(叔孫成子)は叔孫州仇(武叔)を後継者に立てようとしました。公若藐(叔孫氏の一族)が強く反対しましたが、叔孫不敢は叔孫州仇を後嗣に立ててから死にます。
後に公南(叔孫氏の家臣。州仇の党)が賊を使って公若を射殺しようとしましたが、失敗しました。
公南は馬正となり、公若は郈(叔孫氏の邑)宰に任命されました。
 
叔孫州仇の地位が安定すると、郈の馬正・侯犯に公若を殺すよう命じましたが、また失敗しました。
圉人(馬を管理する者)が侯犯に言いました「私が剣を持って郈の朝廷に行けば、公若は必ず誰の剣か知ろうとします。私が子(あなた)の物だと告げれば、(公若は)必ず剣を見ようとします。その時、私が礼を知らないふりをして剣の先を彼に向ければ(本来、剣を渡す時は柄を相手に向けますが、礼を知らないふりをして刃を相手に向けて渡せば)、殺すことができます。」
侯犯は圉人を派遣しました。
 
圉人が公若に剣を見せ、油断した公若に剣先を向けると、公若は死を悟って「汝はわしを呉(僚)にするつもりか」と言いました。圉人は公若を刺し殺しました。
 
宰がいなくなったため、侯犯が郈を占拠して挙兵しました。
叔孫州仇と仲叔何忌(孟懿子)が郈を包囲しましたが、勝てませんでした。
 
秋、叔孫州仇と仲叔何忌が斉軍と共に再び郈を包囲しましたが、やはり攻略できませんでした。
 
叔孫州仇が郈の工師(工匠を管理する官)・駟赤に問いました「郈は叔孫氏の憂いだけではなく、社稷(国)の患でもある。あなたはどうするつもりだ?」
駟赤が答えました「臣の業は『揚水詩経・唐風・揚之水)』末章の四言(四文字)です。」
これは『揚水』の「我聞有命(命を聞きます)」を指します。
叔孫州仇は駟赤に稽首しました。
 
駟赤が侯犯に言いました「斉と魯の間にいながらどちらにも仕えないのはよくありません。斉に仕えて民を治めるべきです。そうしなければ民が離反するでしょう。」
侯犯はこれに従いました。
斉の使者が郈に来ると、駟赤とその部下達が民衆にこう言いました「侯犯は郈の地を斉に与え、斉人は郈の民を遷そうとしている。」
人々は移住を嫌い、斉を恐れました。
そこで駟赤が侯犯に言いました「大衆の意見は子(あなた)と異なります。(民衆の乱に遭って)死ぬくらいなら、この地を斉に与えて他の邑と換えるべきです。他の邑も郈と同じですし、禍を鎮めることもできます。郈にこだわる必要はありません。斉人は魯を威圧するためにこの地を欲しているので、必ず倍の地を子に与えるでしょう。また、甲(甲冑)を門において不虞(不測に事態)に備えるべきです。」
侯犯は「わかった(諾)」と言うと、まず多数の甲冑を門に置き、それから斉に使者を送って土地の交換を請いました。斉は有司(官員)を送って郈を視察することにしました。
 
斉の官員が来ると、駟赤が城中に人を送って「斉師が来た!」と叫ばせました。
驚いた郈人は斉軍に対抗するために門に置かれた甲冑を身に着け、侯犯を囲みます。駟赤は侯犯を守るふりをして郈人に向けて弓を構えました。しかし侯犯が止めて言いました「私が禍から逃れる方法を考えてくれ。」
侯犯が郈人との戦いを避けて城から出ることを請うと、郈の人々は同意しました。駟赤が先に宿(斉の邑)に入り、侯犯が殿しんがりになります。一つの門を出る度に郈人は門を閉じました。侯犯が帰ってくるのを畏れたからです。
郭門(外城の門)まで来ると、人々が侯犯を止めていいました「子(あなた)が叔孫氏の甲を着て出たら、有司(官員)(叔孫氏の甲冑が無くなったことを)譴責するかもしれません。群臣は死を畏れます。」
駟赤が言いました「叔孫氏の甲には標示がある。我々は持ち出していない。」
しかし侯犯は駟赤にこう言いました「子(汝)は留まって彼等と共に数を確認せよ。」
駟赤は郈に残り、魯人を迎え入れました。
 
侯犯は斉に出奔し、郈の地図や戸籍等を譲りました。郈が斉領になります。しかし斉はすぐに郈を魯に返還しました。
 
[] 宋の楽大心(または「楽世心」)が曹に出奔しました(前年参照)
 
[] 冬、斉侯(景公)、衛侯(霊公)と鄭の游速が安甫(または「」)で会しました
 
[] 魯の叔孫州仇(武叔)が斉を聘問しました。郈地返還を謝すためです。
斉景公が享礼でもてなして言いました「子叔孫よ、郈が魯君の他境になったとしても、寡人には知ることができない(他国が郈を奪うかもしれないが、斉が予測することはできない。郈は斉とは関係ない場所だ)。しかし郈は敝邑(斉)との境にあるから、魯君を援けて憂いを除いたのだ。」
景公は魯に恩を着せるため、わざわざ魯のために郈を取り戻したと言いました。
叔孫州仇が応えました「それは寡君の望みではありません。我が国が貴君に仕えるのは、封疆(国境)社稷の安全のためです。家隸(家臣。侯犯)のために貴君の執事(斉の執政官)を煩わせることがあるでしょうか(家臣・侯犯が起こした乱に斉も関わっていたため、暗に非難しています)。不令(不善)の臣は天下が憎むべきです。貴君は(悪を討伐したのであり)寡君に恩恵を与えたのではありません。」
 
[] 宋の公子・地(または「池」。宋景公の庶母弟)は蘧富獵を寵信していたため、家財を十一分して五分を蘧富獵に譲ることにしました。
公子・地は四頭の白馬を飼っていました。宋景公が寵信している向魋(桓魋)がその白馬を欲したため、景公は白馬の尾と鬣(首の上の長い毛)に朱を塗って向魋に与えました。
公子・地は怒って徒衆を送り、向魋を殴って馬を奪い返します。向魋は畏れて逃走しようとしました。しかし景公が門を閉ざし、目が腫れるほど泣いて向魋を止めました。
 
景公の同母弟・辰(公子・地の弟)が公子・地に言いました「子(あなた)は家財を分けて(自分の寵臣の)獵に与えたのに、(国君の寵臣の)魋を卑しめています。これは公平ではありません。子はいつも礼をもって国君に仕えているので、(今回の件を反省して亡命したとしても)国境を越える前に国君が子を引き止めるはずです。」
公子・地は納得し、禍を避けるために陳に奔りました。ところが景公は公子・地を止めようとせず、公子・辰が頼んでも聞き入れませんでした。
公子・辰が言いました「私が兄を騙すことになってしまった。私も国人重臣を連れて出たら、国君は誰と共にいるつもりだろう。」
 
冬、公子・辰が仲佗(仲幾の子)、石彄(褚師段の子)と共に陳に出奔しました。仲佗と石彄は宋の卿で声望がありました。
 
[十一] この年(斉景公四十八年)、斉の晏嬰が死にました。
晏嬰に関しては別の場所でも紹介します。
 

 
次回に続きます。