春秋時代 夾谷の会と孔子

魯と斉が夾谷で盟を結びました。
本編では『春秋左氏伝』の内容を書きましたが、ここでは『孔子世家』を中心に『史記』の記述を紹介します。
 
定公十年(東周敬王二十年・前500年)、魯が斉と和を結びました。
、斉の大夫黎鉏景公に言いました「魯孔丘を用いています。これは斉にとって脅威となります。」
『斉太公世家』では、黎鉏の言葉はこうなっています「孔丘は礼を知っていますが臆病です而怯。莱に音楽を演奏させ、その隙に魯君を捕えれば、を得ることができます。」
 
景公は黎鉏の言に同意し、使者をに送って修好の会を開く約束をしました。両国は夾谷祝其で会見します
魯定公が通常のに乗って夾谷に向かおうとすると、相(国君の補佐)を勤める孔子が言いました「文事を行う者には必ず武備があり、武事を行うは必ず文備があるといいます古の諸侯(国境)を出る時は、必ず充分な員を随行させました。左右司馬(軍官)を従えるべきです。」
定公わかったと言って左右司馬にも同行を命じました
 
魯定公と斉景公が夾谷で会見しました。会見の場には三層のが築かれています。両君が会の礼(簡略した礼)を行って挨拶し、揖讓して壇に登りました
(お互いに酒を勧める礼)が終わってから、斉の有司(官員)が小走りで進み出て言いました「四方の楽を奏でさせてください。」
景公が楽舞を許可すると、旗を先頭にした莱人が・剣・大盾等の武器を持ち、太鼓の音に会わせて両君に迫ってきました。
それを見た孔子は小走りで壇に近づき、階段をとばして登ると両君の手前で止まり、袖を揮ってこう言いました我が両は修好のために会した。夷狄の楽が何故ここに必要あるのだ!有司は退くように命じよ!」
有司は莱人達に壇から降りるように命じました。ところが莱人達は命令を無視します。
孔子左右晏子景公を睨みました。景公は慙愧し、莱人達をさがらせました
 
暫くして斉の有司が進言しました「宮中の楽を奏でさせてください。」
景公「諾」と言うと、優倡侏儒(役者・芸人)が両君の前に現れて戯れます。
すると孔子が進み出て壇に登り、最後の一段を登る前に言いました「匹夫の身でありながら諸侯を惑わそうとするの罪は殺に値するよ、命を下せ!」
有司優倡侏儒を処刑しました(原文「手足異処」。直訳は「手足が別々になる」ですが、処刑を意味します)
 
畏れた景公は自分の陰謀にがないことを知り、帰国してから群臣にこう言いました「魯君子によってそのを補佐している。しかし(汝等)夷狄によって寡人を教導している。そのおかげで魯君の罪を得ることになってしまった。
有司が言いました「君子が過ちを犯したら(実際の行動)で謝罪し、小人が過ちを犯したら(巧言)で謝罪するといいます主公が後悔しているのなら、実(実際の行動)によって謝罪するべきでしょう。」
景公はから奪った鄆、汶陽、(地)を返還して過失を謝りました。
史記』の注正義によると、魯は亀に城を築いて孔子の功績を宣揚し、謝城命名しました
 
 
資治通鑑外紀』は『孔子家語』等から孔子に関する故事を紹介しています。
 
まずは『孔子家語・始誅(第二)』からです。
孔子が魯の司寇を勤めていた時、ある父子が互いに相手を訴えました。孔子は両者を逮捕しましたが、三カ月経っても判決を下そうとしません。
やがて、父が子の釈放を求めたため、孔子は二人を釈放しました。
これを聞いた季孫(恐らく季孫斯)が不快になって言いました「司寇はわしを騙した。彼はかつてわしにこう言った『国家を治めるには孝道が最も大切だ。』今回、わしは一人の不孝(父を訴えた子)を殺して民に孝を教えるつもりだったのに、彼は釈放した。これはなぜだ?」
冉有(冉求)がこれを孔子に伝えると、孔子は深く嘆息して言いました「上が道を失っているのに下を殺すのは非理だ。民に孝を教えていないのに不幸を裁くのは、不辜(無罪)を殺すことだ。三軍が大敗したとしても、全員を殺してはならない。獄犴(訴訟)をうまく治めることができないのに、刑を行ってはならない。上の教えが行われていないようなら、民には罪がないからだ。嫚令謹誅(法令が緩んでいるのに誅殺すること)は賊(民を害す行為)である。時を無視して税を徴収するのは暴である。教育を行っていないのに成功を要求するのは虐である。政治にこの三者(賊・暴・虐)がなくなったら、始めて刑を行うことができる。『書尚書・康誥)』にこうある『罰則も死刑も義(道理)を用いず、汝の心によって行うようでは、慎重に刑を行ったとはいえない(義刑義殺勿庸,以即汝心,惟曰未有慎事)。』これは必ず教育をしてから刑を行えと言っているのだ。まず道徳を述べて敬服させ、それでだめなら賢人を使って善行を勧めさせ、それでもだめなら教導を廃し、それでもだめなら威をもって恐れさせる。このようにして三年が経てば、百姓の行いは正される。それでもまだ邪民がいて従わないようなら、始めて刑罰を用いてもいい。こうすれば全ての民が罪を知ることができる。『詩詩経・小雅・節南山)』にはこうある『天子を補佐して民を迷わせない(天子是毗,俾民不迷)。』このような状態(民が惑わされず、悪事を行わない状態)になったら、威厲(威厳。厳格な態度)も刑罰も必要なくなる。しかし今の世はそうではない。教えは乱れ、刑罰は多く、民を惑わして罪に陥れ、官吏は更に刑を増やして民を制しようとしている。だからますます刑が細かくなり、盗(困窮した民)も尽きないのだ。たった三尺の限(恐らく門の下にある横木)があるだけで、空の車でも登ることができなくなる。それはなぜか?障害が高いからである。しかし百仞の山(高山。仞は長さの単位)でも、重い荷物を載せた車で登ることができる。それはなぜか?陵遅(凌遅。ここでは山に阪があること。低いところからゆっくり高くなっていること)のおかげである。今の世俗は陵遅(この陵遅は衰退、崩壊の意味)して久しいので、たとえ刑法があっても、民がそれを犯さないはずがない(だからこそ刑を用いる前にまず教育が必要である)。」
これとほぼ同じ話が『荀子・宥坐(第二十八)』にも収録されています。
 
 
次は『国語・魯語下』から、孔子の博識を伝える話です。
季桓子(季孫斯)が井戸を掘った時、土の缶のような物を手に入れ、その中に羊がいました。
季桓子は人を送って仲尼孔子に問います「わしは井戸を掘って狗を得た。これは何だ?」
季桓子は博識な孔子を試すため、わざと羊を犬と言い換えました。
孔子が答えました「丘(私)が知るところによれば、それは羊でしょう。木石(山中)の怪は夔や罔閬といい、水の怪は龍や罔象といい、土の怪は(または「墳羊」)といいます
 
 
次は『孔叢子・記義(第三)』からです。
季桓子が粟千鍾(鐘は容量の単位)孔子に贈りました。孔子は辞退することなく受け取り、門前で貧しい者に分け与えます。それを知って子貢が言いました「季孫は夫子(あなた)が貧しいと思ったから粟を贈ったのではないのですか。夫子はそれを受け取ってから、更に貧しい人に譲りました。これは季孫の意図することではないでしょう。」
孔子が「季孫は何を意図しているのだ?」と問うと、子貢は「季孫はこれを恩恵としたいのです」と答えました。
孔子が言いました「その通りだ。だからわしは千鍾を辞退することなく受け取った。これは季孫の恩恵を寵(栄誉。大切なこと)としたからだ。しかし人の財を受け取って富を成してはならない。季孫の恩恵を一人だけが受け取るより、数百の人に恩恵をもたらした方が良いではないか。」