春秋時代263 東周敬王(三十二) 墮三都 前499~498年
今回は東周敬王二十一年と二十二年です。
敬王二十一年
前499年 壬寅
[一] 春、宋景公の同母弟・辰と仲佗、石彄、公子・地が陳から䔥(宋邑)に入って挙兵しました。
秋、宋の楽大心も曹から䔥に入りました。
䔥は宋にとって大きな憂患となります。景公が向魋を寵信したために招いた禍でした(前年参照)。
[二] 冬、魯と鄭が講和しました。魯の叔還が鄭に入って盟を結びます。
当時、晋では趙氏と范氏が国内で政権を争っており、覇業が疎かになっていました。斉・衛・鄭が晋と対立し、今回そこに魯も加わりました。晋はますます諸侯に対する威信を失っていきます。
叔還は叔弓の曾孫です(叔弓の子は定伯・閲、閲の子は西巷敬叔、その子が成子・還)。
翌年は東周敬王二十二年です。
敬王二十二年
前498年 癸卯
夏、薛が襄公を埋葬しました。
[二] 衛の公孟彄(孟縶に子がいなかったため、霊公が自分の子・彄に後を継がせました。孟縶は字を公孟といったため、子孫は公孟を氏にしました)が曹を攻めて郊(地名)を攻略しました。
御者が言いました「殿になりながら(後ろに行かず)列にいるのは、無勇というものではありませんか?」
滑羅が言いました「素厲(徒猛。意味のない勇猛)であるくらいなら、無勇であったほうがいい。」
殿は敵の追撃を防ぐ任務がありますが、滑羅は曹が追撃することはないと判断したため、わざわざ殿になって中身のない勇を見せることに反対しました。
[三] 当時の魯では公室よりも三桓が権力を握っていましたが、三桓の内部でもそれぞれの食邑の宰が大きな力を持ち、脅威になっていました。かつては南蒯が費で叛して季叔氏を苦しめ、最近は侯犯が郈で叛しました。
孔子が定公に言いました「家(大夫)は甲冑を保管せず、邑(卿大夫の邑)は百雉の城(雉は高さと長さの単位。一雉は長さ三百丈、高さ一丈。百雉の城は国君の城の規模)をもたないのが古の制度です。今の三家(三桓)は制度を越えているので、全て取り壊すべきです。」
以下、『春秋左氏伝(定公十二年)』からです。
まず叔孫州仇が兵を指揮して郈城の取り壊しを実行しました。
季孫氏も費邑を取り潰そうとします。季孫斯と仲孫何忌が費邑に兵を出しました。
当時の三桓は邑を宰に任せ、自分自身は国都で政治を行っています。叔孫氏と季孫氏が自邑の取り壊しに積極的だったのは、自分がいない間に宰に邑を乗っ取られることを恐れたからです。
費邑の取り壊しが始まろうとすると、費邑の宰・公山不狃と叔孫輒が費人を率いて逆に魯の都城を攻撃しました。
定公と三子(季孫斯、叔孫州仇、仲叔何忌)は季氏の宮室に入り、武子の台に登ります。
費人が台を攻撃しましたが、なかなか攻略できません。
費人が台下に迫って矢を射ました。矢は定公の近くを飛びます。
国人が追撃して姑蔑で費人を破り、二子(公山不狃と叔孫輒)は斉に奔りました。
その後、費城が取り潰されました。
成城を取り毀そうといた時、成の宰・公斂処父が仲叔何忌(孟孫氏)に言いました「成を潰したら斉人が北門に至り、孟氏の守りが失われます。成が無くなれば孟氏も存在できません。子(あなた)は知らないふりをしてください。私は取り潰しを実行しません。」
こうして「墮三都」が頓挫してしまいました。
[四] 秋、魯が大雩(雨乞いの儀式)を行いました。
[五] 冬十月癸亥(二十七日)、魯定公が斉景公と黄で盟を結びました。
[六] 十一月丙寅朔、日食がありました。
[七] 魯定公が黄から帰国しました。
[八] 十二月、魯定公が成を包囲しましたが、勝てずに引き上げました。成城の取り潰しは中止されます。
三桓の勢力を削って魯国君の地位を向上させる動きは失敗に終わりました。
次回に続きます。