春秋時代264 東周敬王(三十三) 晋の内争 前497年

今回は東周敬王二十三年です。
 
敬王二十三年
497年 甲辰
 
[] 春、斉侯(景公)と衛侯(霊公)が垂葭(または「垂瑕」)に駐軍しました。垂葭は氏ともいいます。
斉が衛と共に晋を攻撃するため、黄河を渡ろうとしましたが、諸大夫が反対しました。しかし斉の大夫・邴意茲がこう言いました「大丈夫です。鋭師が河内を攻めたとしても、伝(駅車)が絳(晋都)に至るのに数日かかり、(戦の準備をして出征した兵が)絳から河に至るにも三カ月はかかります。その時には、我々は既に河を渡って(還って)います。」
斉と衛は河内を攻めました。
斉景公は諸大夫が渡河に反対したため、軒(車)を片づけさせ、邴意茲だけ軒に乗ることを許可しました。
 
斉景公は自分の勇を示したいと思いました。そこで衛霊公を宴に誘い、同時に乗広(車の名)に馬をつなげて甲士を乗せ、すぐに動けるようにしておきました。宴の途中で景公は部下に「晋師が来ました!」と報告させます。
斉景公が衛霊公に言いました「貴君の車が準備できるまで、寡人が御をとりましょう。」
衛霊公は宴に参加した時、馬車から馬を解いて御者にも休憩させていました。それを知っている斉景公は甲冑を身につけると衛霊公を自分の車に乗せて前進し、晋軍を畏れない姿を見せて武勇を示しました。
暫くして「晋師はいませんでした」という報告が入ったため、車を引き返しました。
 
[] 夏、魯が蛇淵囿を築きました。
 
[] 魯が比蒲で大蒐(狩猟。閲兵)を行いました。
 
[] 衛の公孟彄が曹を攻撃しました。
 
[] 晋の趙鞅(趙孟)が邯鄲午に言いました「衛が進貢した五百家を返せ。わしはその五百家を晋陽(趙鞅の邑)に置く。」
東周敬王二十年(前500年)、趙鞅が衛を攻めた時、衛は畏れて五百家を譲りました。趙鞅はそれを邯鄲午に与えたようです。今回、趙鞅は五百家を返すように要求しました。
趙鞅と邯鄲午は同族です。趙衰が趙盾を産み、趙盾が趙朔を産み、趙朔が趙武を産み、趙武が趙成を産み、趙成が趙鞅を産みました。これが趙氏です。趙衰には趙夙という兄がおり、その孫を趙穿といいます。趙穿は趙旃を産み、趙旃は趙勝を産み、趙勝が趙午を産みました。この家系を耿氏といい、趙穿が邯鄲に封じられたため、邯鄲も氏になりました。
邯鄲午は趙鞅の要求に同意しましたが、帰って父兄(邯鄲の長老)に報告すると父兄は皆、「いけません。衛は邯鄲のために譲ったのです。それを晋陽に置いたら、衛との道(関係)を絶つことになります。斉を侵して解決の方法を謀るべきです」と言って反対しました。
衛から得た五百戸を勝手に晋陽に送ったら衛の怨みを買うことになります。そこでまず斉を攻撃し、斉が報復のために邯鄲を攻撃してから、それを口実に五百戸を晋陽に遷せば、衛の怨みを買わずにすみます。
邯鄲午は父兄の意見に従ってまず斉を攻撃し、その後、晋陽に五百戸を遷しました。
 
怒った趙鞅は邯鄲午を招き、晋陽に幽閉しました。趙鞅が怒った理由が、邯鄲午が勝手に斉を攻撃したためか、五百戸を還すのが遅くなったためか、『春秋左氏伝』からではよくわかりません。
史記・趙世家』は「邯鄲の父兄が五百戸を遷すことに反対したため、邯鄲午が約束を破った」としており、晋陽に五百戸を遷したという記述はありません。
 
趙鞅が邯鄲にいる邯鄲午の従者に剣を解いて出頭するように命じました。しかし邯鄲午の家臣・涉賓が命令を拒否します。邯鄲が趙鞅に背いたことになります。
趙鞅が邯鄲に使者を送って伝えました「わしは私人として午を討つ。二三子(汝等)は好きなように後継者を立てよ。」
趙鞅は邯鄲午を殺しました。
趙稷(邯鄲午の子)と涉賓が邯鄲で叛しました。
 
夏六月、晋の上軍司馬・籍秦が邯鄲を包囲しました。
 
邯鄲午は荀寅の甥で、荀寅は范吉射(士吉射。范昭子と婚姻関係にあったため(荀寅の子が范吉射の娘を娶りました)、それぞれ親交がありました。そのため、荀寅と范吉射は邯鄲討伐に参加せず、逆に乱を謀りました。
史記・趙世家』には前年に范氏と中行氏(荀氏)が乱を起こしたとありますが、恐らく誤りです。
 
荀寅と范吉射の謀反の動きを聞いた董安于(または「董閼于」)が、趙鞅に報告して「先に準備をしますか」と問いました。
趙鞅が答えました「晋国には命政令があり、先に禍乱を起こした者が死ぬ。後に動けばいい。」
董安于が言いました「民を危うくするくらいなら、私一人が死んだ方がましです。私を口実に使ってください(邯鄲や荀氏、范氏が先に攻撃して来たら民が殺されるので、先に動くべきです。譴責を受けたら私の責任としてください)。」
趙鞅は同意しませんでした。
 
秋七月、范氏(士吉射。范昭子と中行氏(荀寅。中行文子が趙氏の宮室を攻撃しました。
趙鞅は晋陽に奔り、晋人が追撃して晋陽を包囲しました。
 
范皋夷(または「」。『国語・晋語九』によると「亟治」または「函冶」を食邑にしました)は范吉射の側室の子でしたが、寵愛を得ることがなかったため、乱を起こそうとしていました。
大夫・梁嬰父は荀躒(知文子)に気に入られており、荀躒が梁嬰父を卿に立てようとしていました。
韓不信(簡子)と荀寅は対立しており、魏曼多(または「魏侈」「魏哆」。襄子。魏舒の孫)は士吉射(范吉射)と対立していました。『史記・趙世家』ではここで「魏襄」という人物が登場しますが、恐らく魏襄子(魏曼多)を指します。
この五子(范皋夷、梁嬰父、荀躒、韓不信、魏曼多)は互いに協力し、荀寅を駆逐して梁嬰父に代え、范吉射を駆逐して范皋夷に代える計画を立てました。
そこで荀躒が晋定公に言いました「かつて国君が大臣に命を降し、禍乱を起こした者を死刑にすると定め、その載書(盟書)を河黄河に沈めて誓いました。今、三臣が禍乱を起こしましたが、趙鞅だけが駆逐されました。これでは刑が公平とはいえません。全て駆逐するべきです。」
冬十一月、荀躒、韓不信、魏曼多が定公を奉じて范氏と中行氏を討伐しましたが、勝てませんでした。
 
范氏と中行氏が逆に定公を攻撃しようとしました。
斉から出奔した高彊(東周景王十三年・前532年には魯にいました。その後、晋に移ったようです)が二氏を諫めて言いました「『三回腕を折れば優れた医術を知ることができる(「三折肱知為良医」。何回も手術をすれば立派な医者になれる。久しく病が治らなければ病に詳しくなるので良い医者になれる)』といいますが、国君を討つことだけはやってはなりません。民が協力しないからです。私は国君を討ったためにここにいます(斉で乱を起こしたため晋に亡命することになりました)。今なら三家(知氏・韓氏・魏氏)がまだ和していないので全て滅ぼすことができます。三家を破ったら国君は誰と一緒になりますか(三家を滅ぼせば国君は自然に范氏・中行氏と共にいるようになります)。もし先に国君を討ったら、彼等を和睦させることになります。」
范氏と中行氏は諫言を聞かず、定公を攻撃しました。
しかし国人が定公を援けたため、二氏が敗北します。三家(知氏・韓氏・魏氏)范氏と中行氏を討伐しました
丁未(十八日)、荀寅と士吉射が朝歌に奔りました。
 
韓氏と魏氏が趙氏の罪を許すように請いました。
十二月辛未(十二日)、趙鞅が晋都・絳に入り、公宮で盟を結びました。
 
『国語』『呂氏春秋』等に董安于に関する記述がありますが、別の場所で紹介します。
 
[] 薛が国君・比を殺しました。
これは『春秋』経文の内容です。比は無道だったようですが、『春秋左氏伝』に記述が無いので、詳細は分かりません。
恵公・夷が即位しました。
 
[] 『資治通鑑外紀』はこの年に越の允常が死んで子の句践が立ち、始めて王を称したと書いています。しかし『史記・越王句践世家』の注釈(正義)には允常の時代から王を称したとあります。
以下、『史記・越王句践世家』の記述です。
越王・句践は禹夏王朝創始者の苗裔(後裔)で、夏后帝・少康の庶子が会稽(越都)に封じられて禹の祭祀を守ったのが越の始めです。身体に刺青をし、髪を切って短くし(冠をかぶらず)、未開の地を開いて邑を造りました。その二十余世後に允常の時代となり、呉王・闔廬と戦って互いに憎しみあうようになりました。允常が死んで子の句践が立ちました。これが越王です
 
次は『史記・正義』の記述です。
越侯は三十余世に渡って国を伝え、殷商王朝を経て周敬王の時代に至り、越侯・夫譚という者が現れました。その子を允常といい、領土を広げて始めて強大になり、王を称しました。
 
[] 『史記・衛康叔世家』によると、この年、孔子が衛に来ました。衛は魯と同じ禄を孔子に与えました。
翌年に改めて書きます。
 
 
 
次回に続きます。