春秋時代265 東周敬王(三十四) 檇李の戦い 前496年(1)

今回は東周敬王二十四年です。二回に分けます。
 
敬王二十四年
496年 乙巳
 
[] 以前、衛の公叔発(文子)が上朝(臣下が朝廷で国君に謁見し、政事の報告をしたり命を聞くこと)してから霊公を享宴に誘いました。
公叔発は献公の孫です。献公が成子・当を産み、当が文子・発(または「抜」)を産みました。発の子は戍(または「朱」)といい、公叔氏を名乗りました。
朝廷から退いた公叔発が史鰌(史魚)に会って霊公を宴に誘ったことを話すと、史鰌はこう言いました「子(あなた)は必ず禍を招きます。子は富裕で国君は貪婪です。禍が子に及びます。」
公叔発が言いました「その通りだ。私が子(あなた)に先に話さなかったのは、私の過ちだ(私は先に子に話すべきだった)。しかし国君は既に私の誘いに同意してしまった。どうすればいいだろう。」
史鰌が言いました「子が臣として礼を尽くせば、害から免れられます。富裕な者でも臣の礼を守れば難から逃れることができます。これは上下とも(尊貴な者も卑賎な者も)同じです。しかし戍(公叔発の子)は驕慢なので亡命することになるでしょう。富裕でありながら驕慢にならない者は珍しく、私は子(あなた)しか見たことがありません。逆に驕慢なのに亡ばなかった者は、今まで存在したことがありません。戍はその一人になるでしょう。」
後に公叔発が死ぬと、霊公は富を持つ公叔戍を嫌うようになりました。
それに気がついていない公叔戍は、霊公夫人(南子)の党を除こうとしたため、夫人が霊公に「戍は乱を起こすつもりです」と訴えました。
 
春、衛霊公が公叔戍とその党を駆逐しました。公叔戍は魯に、趙陽(衛の大夫)は宋に出奔します。
趙陽は公叔戍の党人で、衛の大夫・趙黶の孫です。趙黶(懿子・兼)が昭子・挙を産み、挙が趙陽を産みました。
 
[] 晋の梁嬰父は趙氏に仕える董安于を嫌っていたため、荀躒(知文子。知伯)にこう言いました「安于を殺さなければ彼が趙氏で政事を行い、趙氏が晋国を得ることになります。なぜ先に難(前年の内乱)を発した罪を趙氏に問わないのですか?」
納得した荀躒は趙鞅に使者を送ってこう伝えました「確かに乱を起こしたのは范氏と中行氏ですが、乱を誘ったのは安于です。よって安于も二氏と共に乱を謀ったことになります。晋国には、禍を始めた者は死刑にするという命があります。二子は既に罪に服しました。敢えてこの事をお伝えします。」
趙鞅が悩んで心配すると、董安于が言いました「私の死によって晋国が安寧になり、趙氏が安定するのなら、私が生きる必要はありません。人は誰でも死にます。私が死ぬのは遅いくらいです(董安于は老齢だったようです)。」
こうして董安于は首を吊って死にました。
趙鞅はその死体を市に晒し、知氏(荀躒)にこう伝えました「主(あなた)が罪人・安于を処刑するように命じたので、その罪に服させたことを報告します。」
荀躒は趙鞅と盟を結んで協力を誓い、この後、趙氏は安定しました。
趙鞅は董安于を宗廟で祭りました。
 
[] 頓子(頓国の国君)・牂(または「」)が晋に仕えようとし、楚に背いて陳とも友好関係を絶ちました。
二月辛巳(二十三日)、楚の公子・結と陳の公孫(または「公子」)・佗人が兵を率いて頓を滅ぼし、頓子・牂を捕えて兵を還しました。
 
[] 夏、衛の北宮結が魯に出奔しました。公叔戍が魯に出奔したためです。
 
[] 五月、呉が於越)を攻撃しました。越子(越王)・句践が呉軍を防ぎます。
史記・越王句践世家』によると、越の主・允常が死に、句践が即位したばかりだったため、句践元年、允常の死を知った呉王・闔廬が越に進攻しました。
越の国君が允常の時代から王を名乗っていたのか、句践が即位して王を名乗ったのか、はっきりしません(前年参照)
 
越軍は檇李(または「酔李」。越地)に陣を構えました。
句践は整然とした呉の陣形を見て不安になり、死士(決死の士卒。または死刑囚)に急襲させて前列の呉兵を捕えました。しかし呉軍は全く動じません。
そこで句践は陣頭に罪人を三列に並べ、剣を首においてこう言わせました「二君が軍を治め(会戦し)、臣(私)は旗鼓を犯した(軍令を犯した)。国君の隊列の前で不敏(無能。不明)を示したので、刑から逃げず死に帰そう。」
言い終わると囚人達は次々に自刎していきます。
呉の将兵は異様な光景に驚き、目を奪われました。その隙に句践が呉軍を急襲したため、呉軍は大敗します。
越の大夫・霊姑浮が戈で呉王・闔廬を撃ち、闔廬は足の将指(親指。手の将指なら中指)を負傷しました。霊姑浮が闔廬の片方の履物を奪います。
 
呉軍は兵を還しましたが、檇李から七里離れた陘という場所で闔廬が死にました。
闔廬の子・夫差が王位に即きます。
即位した夫差は庭に人を立たせ、自分が出入りする度に「夫差よ、越王が汝の父を殺したことを忘れたか」と問わせました。その都度、夫差は「忘れることはない!」と答え、復讐の念を強めました。
後に夫差は越に報復し、越は滅亡の危機に瀕すことになります。
 
以上は『春秋左氏伝定公十四年)』の内容です。『史記・呉太伯世家』の記述は若干異なり、「呉軍は姑蘇で敗れ、呉闔廬を負傷して七里退却したが、怪我が原因で死んだ。闔廬太子夫差を国王に立て、『汝は践がを殺したことを忘れたか』と聞いた。夫差は『忘れることはありません不敢』と答えた」と書いています。
史記』が敗戦の場所を「姑蘇」としているのは恐らく誤りです。
夫差に質問するのが『左伝』では夫差の部下、『史記』では闔廬本人となっているところにも違いがあります。
 
史記・越王句践世家』では、闔廬が死ぬ時に夫差に対して「越(の仇)を忘れてはならない」と命じています。
 
『楚世家』によると、この後、呉は越を憎むようになり、西の楚を攻撃することがなくなりました。尚、『楚世家』は闔閭(闔廬)の死を翌年の事としていますが、恐らく誤りです。
 
[] 晋が朝歌を包囲しました。
魯公(定公)と斉侯(景公)、衛侯(霊公)が牽(または「堅」。脾と上梁の間)で会し、范氏と中行氏を援ける策を謀ります。
 
范氏と中行氏に与する大夫・析成鮒と小王桃甲(析成と小王が氏。析成鮒は士鮒ともいい、士吉射の一族)が兵を率いて晋軍を襲い、絳中で戦いましたが、勝てずに引き返しました。
析成鮒は周に奔り、小王桃甲は朝歌に入りました。
 
史記・秦本紀』はこの年(秦恵公五年・東周敬王二十四年・前496年)に「晋の卿・中行氏と范氏が晋に背いたため、晋は智氏(荀氏)と趙簡子(趙鞅)に攻撃させた。范氏と中行氏は斉に出奔した」と書いていますが、実際に二氏が斉に入るのは東周敬王二十九年(前491年)のことです。
 
[] 魯定公が牽の会から帰国しました。
 
[] 秋、斉侯(景公)と宋公(景公)が洮(曹地)で会しました。范氏と中行氏を援けるためです。
 
[] 天王(周敬王)が石尚(周の士)を魯に派遣して脤(祭社の肉)を下賜しました。
 
[] 衛霊公が夫人・南子の希望を聞いて、洮の会見に宋朝を招きました。南子は宋女で、霊公の寵愛を受けています。宋朝は宋の公子で、かつて南子と姦通していました。東周景王二十三年(前522年)にも宣姜(霊公の母)と私通した公子・朝という人物が登場しましたが、恐らく別人です。
 
衛は盂邑を斉に譲ることにし、霊公の太子・蒯聵(恐らく南子の子ではありません)を斉に派遣しました。蒯聵は宋の野(郊外)を通ります。すると野人(城外に住む民)が歌って言いました「既定爾婁豬,盍帰吾艾豭。」
「婁豬」は牝豚で南子を指します。「艾豭」の「艾」は美貌、「豭」は牡豚で宋朝です。この歌は「宋は汝の母豚(南子)を衛に嫁がせ、母豚は寵愛を受けて居場所が定まった。それなのになぜ美しい牡豚宋朝を還さないのだ」という意味です。宋朝は衛に留まって南子との関係を続けていたようです。
これを聞いた蒯聵は南子を恥と思い、帰国してから太子の家臣・戲陽速(または「戲陽遬」)にこう言いました「私に従って少君(夫人)に朝見せよ。少君が私を接見してから、私が振り返ったら汝が少君を殺せ。」
戲陽速は「わかりました(諾)」と言い、蒯聵と共に夫人に会いに行きました。
南子が蒯聵を接見すると、蒯聵は三回振り返って合図を送りました。しかし戲陽速は暗殺に同意したことを後悔して動こうとしません。南子は蒯聵の様子から異常に気付き、泣いて逃げながら「蒯聵が余を殺そうとしています」と言いました。それを聞いた霊公が南子の手をとって高台に登りました。
蒯聵は禍を恐れて宋に出奔し、その党は全て駆逐されました。公孟彄は鄭に奔り、やがて斉に遷りました。
蒯聵は後に晋に移って趙氏を頼りました。
 
蒯聵がある人に言いました「戲陽速が余に禍をもたらした。」
しかし戲陽速も知人にこう言いました「太子が私に禍をもたらした。太子は無道なので、私にその母を殺させようとした。私が拒否したら、私は太子に殺されていただろう。しかしもし私が夫人を殺していたら、太子は罪を私に着せて自分は逃れただろう。だから同意したものの実行せず、目前の死から逃れたのだ。諺に『民は信によって保つ(民保於信)』とある。私は義によって信を作ったのだ(言によって信を作る必要はない。義のためなら偽ることがあっても仕方がない)。」
 
資治通鑑外紀』は『呂氏春秋』等を元に衛霊公の故事を紹介しています。別の場所で紹介します。
 
[十一] 宋景公の同母弟・辰が䔥から魯に出奔しました。
 
[十二] 魯が比浦で大蒐(狩猟。閲兵)を行いました。
邾子が比浦に来て魯定公と会しました。
 
[十三] 魯は晋に背いたため、莒父と霄に城を築いて守りを固めました。
 
[十四] 冬十二月、晋が范氏と中行氏の軍を潞で破り、籍秦と高彊を捕えました。
また、鄭軍と范氏の軍を百泉で破りました。
 
[十五] 『史記・鄭世家』によると、この年、鄭の相・子産が死にました。全ての鄭人哭泣し、自分の親戚を失ったように悲しみました。
産は鄭成公少子です。仁愛で、国に対して忠厚でしたかつて孔子を通った時、産と兄弟のように親しみました。産が死んだと聞いた孔子は泣いて「古遺愛(遺風)だったと評しました。
 
 
 
次回に続きます。