春秋時代266 東周敬王(三十五) 孔子の周遊 前496年(2)
今回は東周敬王二十四年の続きです。
孔子が国政を掌るようになって三カ月で、豚や羊を売る商人は価格を妄りに上げることがなく、男女は別々に歩き、道に落ちている物を拾っても着服する者がいなくなりました。また、各地の賓客が魯に来ても有司(官員)に賄賂を贈る必要がなくなり、皆、自分の家に帰ってきたように満足できました。
『呂氏春秋・先識覧』からです。
孔子が魯で政治を始めたばかりの時、人々は孔子を怨んで歌を作りました「鹿の毛皮を着て韠(服の前につける装飾)をつけた者(孔子を指します)、彼を棄てても関係ない。彼を棄てても罪はない(麛裘而韠,投之無戻。韠而麛裘,投之無郵)。」
しかし孔子が政治を行って三年(『史記』は三カ月としています)で、男は道の右を歩き、女は左を歩くようになりました。財物を失う者がいても、誰も着服しません。孔子のような大智を用いる時は、人に理解されるのが難しいものです。
孔子が魯で政治を行って成果をあげたため、斉景公が恐れて言いました「孔子が政治を行ったら必ず霸を称えることができる。魯が霸を称えたら、我が地は近いから最初に併合されるだろう。先に土地を譲るべきではないか。」
黎鉏が言いました「まずは妨害してみましょう。失敗してから土地を譲っても遅くはありません。」
斉は国中から美女八十人を選び、美しい服を着せて『康楽』の舞を教え、文馬(模様がついた馬)三十駟(百二十頭)と一緒に魯に贈りました。女楽と文馬が魯城南の高門の外に並べられます。
季桓子(季孫斯)が微服(平服)を着て再三見に行き、美女達を受け入れることにしました。
季桓子は魯定公を誘って巡行を口実に毎日外出し、南門で美女や馬を観て遊びます。魯の政治が疎かになりました。
しかし斉の女楽を受け入れた季桓子は三日間政治を行わず、郊祭の日になっても膰を大夫に配りませんでした。
失望した孔子は魯を去ります。
孔子は「歌を歌わせてください」と言ってから、こう歌いました「あれらの婦人の口が、大臣を国から追い出すことができる。あれらの婦人の謁見が、死敗をもたらすことができる。(不遇をかこった私は)悠遊と遊んで年を過ごすだけだ(彼婦之口,可以出走。彼婦之謁,可以死敗。蓋優哉游哉,維以卒歳)。」
魯都に戻った師己に季桓子が「孔子は何と言った?」と聞くと、師己は全てを報告しました。
孔子は衛に行きました。
『史記』の『魯周公世家』は孔子が去った年を二年前の魯定公十二年(東周敬王二十二年・前498年)としており、『十二諸侯年表』は魯定公十二年(二年前)に孔子が魯を去り、定公十三年(前年)に衛に入ったとしています。
また、同年、呉王・夫差が陳を攻め、三邑を取って還ったと書いています。
次回に続きます。