春秋時代266 東周敬王(三十五) 孔子の周遊 前496年(2)

今回は東周敬王二十四年の続きです。
 
[十六] 『資治通鑑外紀』は『史記』等の記述から、孔子の事を書いています。
まずは『史記孔子世家』からです。
魯定公十四年(本年)、五十六歳の孔子は大司寇のまま行攝相事(国相を補佐する官。宰相代理)になりました。
孔子が喜色を見せたため、門人が言いました「『君子は禍が訪れても恐れず、福が訪れても喜ばない(禍至不俱,福至不喜)』といいます。」
孔子が言いました「確かにそういう言葉もある。しかし『身分が高くなっても身分が低い者に対して謙虚に接するのは楽しいことだ(楽其以貴下人)』とも言うではないか。」
 
政治を行うようになった孔子は魯の大夫で政治を乱していると見なした少正卯(恐らく少正が氏。あるいは官名)を殺しました。少正卯が具体的にどのようなことをしていたのかは明らかではありません。
 
孔子が国政を掌るようになって三カ月で、豚や羊を売る商人は価格を妄りに上げることがなく、男女は別々に歩き、道に落ちている物を拾っても着服する者がいなくなりました。また、各地の賓客が魯に来ても有司(官員)に賄賂を贈る必要がなくなり、皆、自分の家に帰ってきたように満足できました。
 
呂氏春秋・先識覧』からです。
孔子が魯で政治を始めたばかりの時、人々は孔子を怨んで歌を作りました「鹿の毛皮を着て韠(服の前につける装飾)をつけた者孔子を指します)、彼を棄てても関係ない。彼を棄てても罪はない(麛裘而韠,投之無戻。韠而麛裘,投之無郵)。」
しかし孔子が政治を行って三年(『史記』は三カ月としています)で、男は道の右を歩き、女は左を歩くようになりました。財物を失う者がいても、誰も着服しません。孔子のような大智を用いる時は、人に理解されるのが難しいものです
 
清代に編纂された『古詩源・古逸(巻一)』には孔子が政治を行って暫くしてから民が作ったという歌が収録されています。
「兗衣章甫(礼服礼冠)の者孔子です)。彼が我々に利益をもたらした。彼は無欲で恩恵をもたらした衣章甫,実獲我所。章甫兗衣,恵我無私)。」
 
呂氏春秋・先識覧』の「麛裘而韠,投之無戻。韠而麛裘,投之無郵」とこの「衣章甫,実獲我所。章甫兗衣,恵我無私」を合わせて『孔子誦』といいます。
 
史記孔子世家』に戻ります。
孔子が魯で政治を行って成果をあげたため、斉景公が恐れて言いました「孔子が政治を行ったら必ず霸を称えることができる。魯が霸を称えたら、我が地は近いから最初に併合されるだろう。先に土地を譲るべきではないか。」
黎鉏が言いました「まずは妨害してみましょう。失敗してから土地を譲っても遅くはありません。」
斉は国中から美女八十人を選び、美しい服を着せて『康楽』の舞を教え、文馬(模様がついた馬)三十駟(百二十頭)と一緒に魯に贈りました。女楽と文馬が魯城南の高門の外に並べられます。
季桓子(季孫斯)が微服(平服)を着て再三見に行き、美女達を受け入れることにしました。
季桓子は魯定公を誘って巡行を口実に毎日外出し、南門で美女や馬を観て遊びます。魯の政治が疎かになりました。
 
子路孔子に言いました「夫子(先生)、魯を去るべきです。」
孔子が言いました「魯は郊祭の日が迫っている。礼に則って膰(祭肉)が大夫に配られるようなら、まだここに留まろう。」
しかし斉の女楽を受け入れた季桓子は三日間政治を行わず、郊祭の日になっても膰を大夫に配りませんでした。
失望した孔子は魯を去ります。
 
孔子一行が屯(地名)に泊まった時、師己(楽師)孔子を送って言いました「夫子(あなた)に罪はありません(なぜ国を出るのですか)。」
孔子は「歌を歌わせてください」と言ってから、こう歌いました「あれらの婦人の口が、大臣を国から追い出すことができる。あれらの婦人の謁見が、死敗をもたらすことができる。(不遇をかこった私は)悠遊と遊んで年を過ごすだけだ(彼婦之口,可以出走。彼婦之謁,可以死敗。蓋優哉游哉,維以卒歳)
魯都に戻った師己に季桓子が「孔子は何と言った?」と聞くと、師己は全てを報告しました。
桓子が嘆息して言いました「夫子孔子は私が群婢(婢女の群れ。斉の楽女)を受け入れたことを罪としているのだ。
 
孔子は衛に行きました。
史記孔子世家』は衛に行ってからの足取りも詳しく書いていますが、別の場所で紹介します。
 
資治通鑑前編』は、斉が魯に女楽を送り、孔子が衛に移った出来事を前年魯定公十三年・東周敬王二十三年・前497年)に書いています。
史記』の『魯周公世家』は孔子が去った年を二年前の魯定公十二年(東周敬王二十二年・前498年)としており、『十二諸侯年表』は魯定公十二年(二年前)孔子が魯を去り、定公十三年(前年)に衛に入ったとしています。
史記・衛康叔世家』も前年の衛霊公三十八年(魯定公十三年・前497年)孔子が衛に来て魯と同じ禄を与えたとしています。
 
史記・陳杞世家』は本年(陳湣公六年・東周敬王二十四年・前496年)孔子が陳に来たとしています。
また、同年、呉王・夫差が陳を攻め、三邑を取って還ったと書いています。
しかし『史記孔子世家』には孔子が陳に来て一年余してから、呉王・夫差が陳を攻めて三邑を取ったとあります。
 
 
 
次回に続きます。