春秋時代 孔子の周遊(1)

東周敬王二十四年496年)に『資治通鑑外紀』を元に孔子が魯を去ったことを書きました。
孔子が魯を出てから帰国するまでの足取りは諸説があります。ここでは『史記孔子世家』の内容を紹介します。
 
魯の政治に失望した孔子は衛に行き、子路の妻の兄・顔濁鄒の家に寄宿しました。
衛霊公が孔子に魯にいた時の俸禄を問いました。
孔子は「粟六万(恐らく六万斗)です」と答えます。
霊公も粟六万を孔子に与えることにしました。
しかし暫くしてある人が衛霊公に孔子の讒言をしました。霊公は公孫余假に兵を率いて孔子を監視させます。
孔子は衛で罪を得ることを恐れ、十カ月後に衛を去りました。
 
孔子は陳に向かおうとして匡の地を通りました。僕(御者)を勤める顔刻が鞭で匡城を指して言いました「以前、私はこの城に入ったことがあります。あそこに孔があります。」
史記』の注釈(索隠)によると、陽貨(陽虎。貨は字)も城壁の孔から匡に入ったことがあるようです。
陽虎はかつて匡人に対して暴虐を行いました。
匡の人々は孔子の一行を陽虎の一行だと思いました。孔子の容貌が陽虎に似ていたようです。あるいは顔刻の「孔から城に入ったことがある」という言葉を聞いていたのかもしれません。匡人は孔子一行を五日間にわたって包囲しました。
顔回(字が子淵なので顔淵ともいいます)が遅れて駆けつけました。孔子が言いました「汝は既に死んだかと思っていた。」
顔回が言いました「子(先生)がいるのです。回は死ねません。」
匡人がますます包囲を固めたため、弟子達が恐れ始めました。すると孔子が言いました「文王は既に没したが、文(礼楽の制度)はここにあるではないか。天が文を滅ぼすつもりなら、文王より後から死ぬ者孔子に文を委ねる必要もなかったはずだ。(天が文を孔子に委ねたのだから)天が文を滅ぼすつもりはない。匡人に何ができるというのだ。」
孔子は従者を衛の大夫・甯兪(甯武子)の家に送り、孔子自ら臣と称しました。
甯氏が孔子を守って陽虎ではないことを証明したため、匡人は包囲を解きました。
 
孔子は匡を去って蒲の地に来ました。
しかし一月余で衛に帰り、蘧伯玉の家に寄宿します。
霊公夫人・南子が人を送って孔子に伝えました「四方の君子で寡君と兄弟の交わりを持とうとする者は、必ず寡小君(私)に会いに来ます。また、寡小君もあなたに会ってみたいと思います。」
孔子は辞退しましたが、断りきれずやむなく謁見に行きました。
夫人は絺帷(葛の帳)の中にいます。門を入った孔子は北面して稽首しました。夫人も帷の中で再拝します。南子の環珮玉がぶつかり合って音を響かせました。
退席してから孔子が言いました「私は本来、会うつもりではなかったが、会った以上は礼を用いて応答しなければならなかった(会いたくない相手にも屈しなければならなかった)
子路は淫蕩な噂が絶えない南子に会いに行った孔子に対して不満を抱きました。そこで孔子は天に誓って言いました「私の行いが誤っているようなら、天が私を罰するだろう(予所不者,天厭之。天厭之)。」
 
衛に一カ月余滞在したある日、霊公が南子と同じ車に乗り、宦者・雍渠が参乗(同乗者)になりました。一行が公宮を出ると、孔子を後の馬車に乗せて市中を遊行します。
孔子が言いました「好徳(徳を愛すこと)の者がこのように好色だったという話は聞いたことがない。」
孔子は霊公を嫌って衛を去り、曹に行きました。
この年、魯定公が死にました(東周敬王二十五年・前495年)
 
孔子は曹を去って宋に向かいました。
弟子達と共に大樹の下で礼について学びます。
この時、宋の司馬・桓魋が孔子を殺そうとして大樹を伐り倒しました。
孔子は宋を去ります。弟子達が「速く行くべきです」と言いましたが、孔子は「天が予に徳性を与えたのだ。桓魋に何ができるというのだ」と答えました。
 
孔子は鄭に行きましたが、弟子達とはぐれてしまいました。孔子は一人で郭(外城)の東門に立っています。
ある鄭人が子貢に言いました「東門に人がおり、その顙(額)は堯のようで、その項(首)は皋陶のようで、その肩は子産のようでした。しかし(腰)より下は禹より三寸短く、憔悴した様子(纍纍)は家を失った狗(または喪に服している家の犬。原文は「喪家之狗」のようでした。」
孔子と合流した子貢がこの話を孔子に告げると、孔子は喜んで笑い、こう言いました「容貌については完全ではない。しかし家を失った犬というのは、全くその通りだ然哉。然哉)。」
 
孔子は陳に行き、司城・貞子の家に寄宿しました。『史記・陳杞世家』は陳湣公六年(東周敬王二十四・前496年)孔子が陳に来たとしています。しかし陳湣公六年は魯定公が死ぬ前なので時間が合いません。
孔子が陳に入って一年余して、呉王・夫差が陳を攻めて三邑を取りました。
また、晋の趙鞅が朝歌を討伐し、楚が蔡を包囲して蔡は呉に遷り、呉が越王・句践を会稽で破りました(東周敬王二十六年・前494年)
 
孔子が陳に居る時、隼が陳侯の宮殿の庭に落ちて死にました。楛矢(楛は木の名)が刺さっており、石砮(鏃)は一尺一咫咫は八寸)ありました
陳湣公が使者を送って孔子に意見を求めると、孔子はこう言いました「この隼は遠くから来たものです。刺さっているのは粛慎氏(北夷の国)の矢です。昔、武王が商に勝ち、九夷・百蛮との道を開いた時、各地に方貢(各地の特産物)を納めさせました。それぞれの職業(職責)を忘れさせないためです。その時、粛慎氏が納めたのが楛矢で、石砮は一尺一咫ありました。先王(武王)はその令徳(美徳)を遠方にまで示し、後人に伝え、永遠にそれが残るようにするため、栝(矢の後ろの部分。羽がある場所)に『粛慎氏之貢矢』と銘しました。その矢は大姫(太姫。武王の長女)に与えられ、大姫は矢を持って虞胡公(陳国の祖)に嫁ぎ、封地の陳に入りました。古は、同姓の諸侯には珍玉を与えて親情を示し、異姓の諸侯には遠方から送られた職貢(貢物)を分けて天子への服従を忘れさせないようにしました。だから陳(周は姫姓、陳は嬀姓です)には粛慎氏の貢物が贈られたのです。」
陳湣公が古い府庫を探してみると、孔子が語った粛慎氏の矢を見つけることができました
 
孔子は陳に三年滞在しました。
その間に晋と楚が争って交互に陳を攻め、呉も陳を侵しました。陳は常に外敵の攻撃を受けていたため、孔子はこう言いました「帰ろう、帰ろう。我が党(故郷。魯)の弟子達は、志向は大きいが行動は粗略だ。彼等は向上心があり、初志を忘れることがない(帰與帰與。吾党之小子狂簡,進取不忘其初)。」
孔子は陳を去りました
 
孔子が蒲に来た時、衛の公叔氏が蒲で叛しました。蒲人は孔子を拘留します。
この時、弟子の公良孺が自分の車五乗を率いて孔子に従っていました。公良孺は背が高く、賢能と勇力を持っています。
公良孺が孔子に言いました「以前、夫子(先生)に従って匡で難に遭い、今またここで難に遭いました。これは命(天命)です。私と夫子は再び難に遭ったので(これも天命なので)、戦って死んでもかまいません。」
公良孺が激しく抵抗したため、蒲人は恐れて孔子に言いました「衛に行かないようなら逃がしてやろう。」
孔子は蒲人と盟を結んで東門から出て行きます。
ところが孔子は衛に向かいました。子貢が「盟に背いてもいいのですか?」と聞くと、孔子は「脅迫された盟を神が聞くことはない」と答えました。
 
衛霊公は孔子が来たと聞いて喜び、郊外まで出迎えに行きました。
霊公が聞きました「蒲は討伐することができるか?」
孔子が答えました「できます。」
霊公が言いました「我が大夫達は討伐するべきではないと言っている。蒲は衛にとって晋・楚に対抗する要地だ。衛がそれを討つのは、相応しくないのではないか?」
孔子が答えました「蒲の男子は死の志(命をかけて忠義を守る心)があり、婦人は西河(衛)を守る志があります。私が討伐するというのは、四五人に過ぎません。」
霊公は「善し」と言いましたが、蒲を討伐しませんでした。
 
霊公は年老いていたため、政治を怠り、孔子を用いることもありませんでした。
孔子が嘆息して言いました「本気で私を用いる者がいたら、期月(一年)だけで三年の成果を挙げることができるのだが。」
孔子は衛を去りました。
 
 
 
次回に続きます。