春秋時代 孔子の周遊(1)
衛霊公が孔子に魯にいた時の俸禄を問いました。
霊公も粟六万を孔子に与えることにしました。
孔子は衛で罪を得ることを恐れ、十カ月後に衛を去りました。
陽虎はかつて匡人に対して暴虐を行いました。
匡の人々は孔子の一行を陽虎の一行だと思いました。孔子の容貌が陽虎に似ていたようです。あるいは顔刻の「孔から城に入ったことがある」という言葉を聞いていたのかもしれません。匡人は孔子一行を五日間にわたって包囲しました。
匡人がますます包囲を固めたため、弟子達が恐れ始めました。すると孔子が言いました「文王は既に没したが、文(礼楽の制度)はここにあるではないか。天が文を滅ぼすつもりなら、文王より後から死ぬ者(孔子)に文を委ねる必要もなかったはずだ。(天が文を孔子に委ねたのだから)天が文を滅ぼすつもりはない。匡人に何ができるというのだ。」
甯氏が孔子を守って陽虎ではないことを証明したため、匡人は包囲を解きました。
孔子は匡を去って蒲の地に来ました。
しかし一月余で衛に帰り、蘧伯玉の家に寄宿します。
孔子は辞退しましたが、断りきれずやむなく謁見に行きました。
孔子は霊公を嫌って衛を去り、曹に行きました。
この年、魯定公が死にました(東周敬王二十五年・前495年)。
孔子は曹を去って宋に向かいました。
弟子達と共に大樹の下で礼について学びます。
この時、宋の司馬・桓魋が孔子を殺そうとして大樹を伐り倒しました。
ある鄭人が子貢に言いました「東門に人がおり、その顙(額)は堯のようで、その項(首)は皋陶のようで、その肩は子産のようでした。しかし要(腰)より下は禹より三寸短く、憔悴した様子(纍纍)は家を失った狗(または喪に服している家の犬。原文は「喪家之狗」)のようでした。」
孔子が陳に入って一年余して、呉王・夫差が陳を攻めて三邑を取りました。
また、晋の趙鞅が朝歌を討伐し、楚が蔡を包囲して蔡は呉に遷り、呉が越王・句践を会稽で破りました(東周敬王二十六年・前494年)。
陳湣公が使者を送って孔子に意見を求めると、孔子はこう言いました「この隼は遠くから来たものです。刺さっているのは粛慎氏(北夷の国)の矢です。昔、武王が商に勝ち、九夷・百蛮との道を開いた時、各地に方貢(各地の特産物)を納めさせました。それぞれの職業(職責)を忘れさせないためです。その時、粛慎氏が納めたのが楛矢で、石砮は一尺一咫ありました。先王(武王)はその令徳(美徳)を遠方にまで示し、後人に伝え、永遠にそれが残るようにするため、栝(矢の後ろの部分。羽がある場所)に『粛慎氏之貢矢』と銘しました。その矢は大姫(太姫。武王の長女)に与えられ、大姫は矢を持って虞胡公(陳国の祖)に嫁ぎ、封地の陳に入りました。古は、同姓の諸侯には珍玉を与えて親情を示し、異姓の諸侯には遠方から送られた職貢(貢物)を分けて天子への服従を忘れさせないようにしました。だから陳(周は姫姓、陳は嬀姓です)には粛慎氏の貢物が贈られたのです。」
陳湣公が古い府庫を探してみると、孔子が語った粛慎氏の矢を見つけることができました。
孔子は陳に三年滞在しました。
その間に晋と楚が争って交互に陳を攻め、呉も陳を侵しました。陳は常に外敵の攻撃を受けていたため、孔子はこう言いました「帰ろう、帰ろう。我が党(故郷。魯)の弟子達は、志向は大きいが行動は粗略だ。彼等は向上心があり、初志を忘れることがない(帰與帰與。吾党之小子狂簡,進取不忘其初)。」
孔子は陳を去りました。
この時、弟子の公良孺が自分の車五乗を率いて孔子に従っていました。公良孺は背が高く、賢能と勇力を持っています。
公良孺が激しく抵抗したため、蒲人は恐れて孔子に言いました「衛に行かないようなら逃がしてやろう。」
孔子は蒲人と盟を結んで東門から出て行きます。
衛霊公は孔子が来たと聞いて喜び、郊外まで出迎えに行きました。
霊公が聞きました「蒲は討伐することができるか?」
孔子が答えました「できます。」
霊公が言いました「我が大夫達は討伐するべきではないと言っている。蒲は衛にとって晋・楚に対抗する要地だ。衛がそれを討つのは、相応しくないのではないか?」
霊公は「善し」と言いましたが、蒲を討伐しませんでした。
霊公は年老いていたため、政治を怠り、孔子を用いることもありませんでした。
孔子は衛を去りました。
次回に続きます。