春秋時代 孔子の周遊(2)

孔子の周遊の続きです。
 
当時、晋の佛肸が中牟(趙氏の邑)の宰(長)を勤めていました。
趙鞅(趙簡子)が范氏と中行氏を討伐した時、中牟は趙氏に背きました。佛肸は使者を送って孔子を招きます。
孔子が招きに応じようとすると、子路が言いました「かつて夫子(先生)は『自ら不善を行う者がいたら、君子はそこに行かない(其身親為不善者,君子不入也)』と言いました。今、佛肸は自ら中牟で謀反しました。子(先生)がそこに行こうとするのはなぜですか?」
孔子が言いました「確かにそう言った。しかし『堅い物は磨いても薄くならず、白い物は染めても黒くならない(堅乎,磨而不磷。白乎,涅而不淄)』とも言う(君子は悪人がいる場所に居ても自分が姦悪になることはない)。私は匏瓜(瓢箪)ではない。壁や柱に掛けておくだけで食べないというわけにはいかないのだ(飾りにつかわれる瓢箪とは異なるので、実際に能力を発揮しなければ意味がないという比喩です)。」
 
ある日、孔子が磬(打楽器)を打ちました。蕢(草で作った篭)を背負った者が門の前を通ってその音を聞き、こう言いました「心に想うものがあるようだ。この磬の音には焦りがある(硜硜乎)。しかし、自分を理解する者がいないのも、仕方がないではないか(自分を信じるだけで充分だ。焦っても意味はない)。」
 
孔子が師襄子に琴を習いましたが、十日経っても新しい曲を習おうとしませんでした。
師襄子が言いました「新しい曲を習ってもよい。」
孔子が答えました「丘(私)はこの曲を習いましたが、まだ数(技巧)を習得していません。」
暫くして師襄子が言いました「既に数を習得した。新しい曲を習ってもよい。」
孔子が言いました「丘はまだその志(心意。含蓄)を習得していません。」
暫くして師襄子が言いました「既に志を習得した。新しい曲を習ってもよい。」
孔子が言いました「丘はまだその人(曲を作った人)を体得していません。」
暫くの間、孔子は静かに深思していましたが、やっと満足した様子で顔を挙げ、遠志を得て言いました「丘はその人を体得することができました。彼は色が黒く、身長が高く、眼は遠くを望み、四方を治める王のようです。文王でなければこの曲を作ることはできないでしょう。」
師襄子は席を離れて再拝し、こう言いました「我が師はこの曲を『文王操(現在は伝わっていません)』とよんでいました。」
 
孔子は衛に用いられなかったため、西に向かって晋の趙鞅に会うことにしました(結局、中牟の招きには応じなかったようです)
しかし、孔子黄河に至った時、竇鳴犢と舜華の死を知りました。孔子黄河を眺め、嘆息して言いました「悠々と流れる黄河は壮大だ(美哉水,洋洋乎)。丘(私)がここを渡ることができないのも命(天命)だ。」
子貢が小走りで進み出てその理由を問うと、孔子が答えました「竇鳴犢と舜華は晋国の賢大夫だ。趙簡子は、志を得る前にはこの二人に意見を聞いて政治を行った。しかし志を得たら、二人を殺して政治を行うようになった。『子を孕んだ動物を割いて幼獣を殺したら麒麟が郊外に現れなくなり、沢の水を干して魚を獲ったら蛟龍が陰陽に符合しなくなり、巣を倒して卵を割ったら鳳凰が飛ばなくなる刳胎殺夭則麒麟不至郊,竭沢涸漁則蛟龍不合陰陽,覆巣毀卵則鳳皇不翔)』という。これはなぜだ?君子は同類を傷つけないからだ。鳥獣でも不義の行為があったら避けるのだから、私はなおさらそうしなければならない。」
孔子は故郷の陬郷に戻って休み、『陬操(琴の曲)』を作って竇鳴犢と舜華を追悼しました。
後にまた衛に行き、蘧伯玉の家に住みました
 
後日、衛霊公が孔子に軍の陣形について問いました。しかし孔子はこう答えました「俎豆の事(俎豆は食器。ここでは祭祀の礼の意味)については聞いたことがありますが、軍旅の事は学んだことがありません。」
翌日、霊公が再び孔子と話しましたが、霊公は空を飛ぶ雁を眺めており、孔子の言葉に集中していませんでした。
孔子は衛を離れて陳に行きました。
 
夏、衛霊公が死に、孫の輒が即位しました。衛出公です(東周敬王二十七年・前493年)
六月、趙鞅が亡命していた衛の太子・蒯聵を衛に入れることにしました。
陽虎が太子・蒯聵に絻(喪服)を着せ、部下の八人にも衰絰(喪服)を着せて衛から蒯聵を出迎えに来たように見せます。蒯聵は哀哭しながら八人に従って衛に入り、戚を拠点にしました(本編参照)
冬、蔡が州来に遷りました。
 
魯哀公三年東周敬王二十八年・前492年)孔子が六十歳になりました。
斉が衛を助けて戚を包囲しました。衛の太子・蒯聵が戚にいたためです。
 
夏、魯の桓公と釐公(僖公)の廟で火災があり、南宮敬叔が消火のために働きました。
陳にいた孔子は魯で火災があったと知り、「災は桓・釐の廟であったのではないか」と言い当てました。
桓公と釐公の廟は宗廟の規格から外れており、非礼とされていたためです。
 
秋、季孫斯(季桓子)が病にかかりました。ある日、季孫斯が輦に乗って魯城を眺め、嘆息して言いました「かつてこの国は振興しようとしていたのに、わしが孔子の罪を得たため、振興しなくなってしまった。」
季孫斯が後嗣の季孫肥(康子)を顧みて言いました「わしが死んだら汝が必ず魯国の相となる。魯国の相となったら必ず仲尼を呼び戻せ。」
数日後、季孫斯が死に、季孫肥が後を継ぎました。
葬儀が終わり、季孫肥が孔子を招こうとすると、公之魚が言いました「かつて我が先君(魯定公)が彼を用いようとして用いることができず、諸侯の笑い者になりました。今また用いても、結局用いることができなかったら、再び諸侯の笑い者になります。」
季孫肥が「それでは誰を招くべきか?」と問うと、公之魚は「冉求孔子の弟子)を招くべきです」と言いました。
季孫肥は使者を送って冉求を招きます。
冉求が出発しようとした時、孔子が言いました「魯人が求を招いたが、小さく用いるのではなく、きっと大用(重用)するだろう。」
この日、孔子が言いました「帰ろう、帰ろう。我が故郷の弟子は、志向が大きいが行動は粗略だ。文才に富んでいるが、私は彼等をどうやって教育すればいいのか分からない(帰乎,帰乎。吾党之小子狂簡,斐然成章,吾不知所以裁之)。」
子贛(子貢)孔子が魯に帰りたいと思っていることを知り、冉求を送り出す時、こう諭しました「もし魯に用いられたら、子(先生)を招くように働きかけよ。」
 
冉求が去った翌年、孔子は陳から蔡に遷りました。
この頃、蔡昭公が呉に招かれました。以前、昭公は群臣を欺いて州来に遷都しました。今回、呉に朝見することになり、大夫達はまた遷都するのではないかと恐れ、公孫翩が昭公を殺してしまいました。
楚が蔡を攻めました(東周敬王二十九年・前491年)
秋、斉景公が死にました(東周敬王三十年・前490年)
 
翌年、孔子が蔡から葉(楚の邑)に入りました。葉公・諸梁(楚の大夫)が政治について問うと、孔子はこう言いました「政治の秘訣は、遠くの賢人を招いて近くの者を帰服させることにあります(政在来遠附邇)。」
後日、葉公が孔子について子路に問いました。しかし子路はどう答えればいいか分からず、何も話しませんでした。
後にそれを知った孔子子路に言いました「由子路の名)よ。汝はなぜ『あの人は道を学んで飽きることなく、人に教えて厭うことなく、学問に発奮したら食事も忘れ、楽しい時は憂いを忘れ、老いが迫っていることも知らないほどだ』と言わないのだ。」
 
孔子は葉を去って蔡に戻りました。
途中で長沮と桀溺が肩を並べて田を耕しています。孔子は二人が隠者(世に出ない賢者)だと思い、子路を送って津(渡し場)への道を問いました。
長沮が問いました「あの輿(車)の手綱を挽いているのは誰ですか?」
子路が答えました「孔丘です。」
長沮が問いました「魯の孔丘ですか?」
子路が答えました「そうです。」
長沮が言いました「それならば津を知っているはずだ孔子は各地を転々としているからです)。」
桀溺が子路に問いました「子(あなた)は誰ですか?」
子路が答えました「仲由です。」
桀溺が子路に問いました「子は孔丘の弟子ですか?」
子路が答えました「そうです。」
桀溺が言いました「天下の誰もが動乱の中、不安定でいます。しかしそれを誰に変えることができるのでしょう。人を避ける士(暴君乱臣を避けて各地を転々としている孔子に従うよりも、世を避ける士(隠者。長沮と桀溺)に従った方がいいのではありませんか(悠悠者天下皆是也,而誰以易之。且與其従辟人之士,豈若従辟世之士哉)。」
二人は津の場所を教えず、農耕を続けました。
戻った子路孔子に話すと、孔子は失望して言いました「我々は鳥獣と群を成すことはできない。もし天下に道があるのなら、丘も各地を転々とする必要はない。」
 
後日、子路が一人で道を進んでいると、蓧(竹で編んだ農具)を背負った老人に会いました。子路が「子(あなた)は夫子(先生)を見ませんでしたか?」と問うと、老人はこう言いました「四体(四肢)を働かせず、五穀もよく知らないのに、誰が夫子だ。」
老人は言い終わると杖を持って草を刈り始めます。
子路孔子に会ってこの事を話すと、孔子は「彼は隠者だ」と言いました
子路が老人を探しに行きましたが、既にいませんでした。
 
 
 
次回に続きます。