春秋時代 孔子の周遊(3)

孔子の周遊の続きです。
 
孔子が蔡に遷って三年後、呉が陳を攻め、楚が陳を助けて城父に駐軍しました東周敬王三十一年・前489年)
楚は孔子が陳と蔡の国境に居ると知り、人を送って孔子を招きます。孔子が楚の誘いに応じようとした時、陳と蔡の大夫が謀って言いました「孔子は賢者だ。彼が指摘している内容は全て諸侯の弊害を言い当てている。彼は久しく陳と蔡の間にいたが、諸大夫の行いは仲尼の意に沿っていなかった。今回、大国の楚が孔子を招いたが、もし孔子が楚で用いられたら、陳と蔡で政治を行っている大夫の危機となるだろう。」
陳と蔡の大夫は協力して徒役を動員し、郊野で孔子を包囲しました。
孔子は動きがとれず、食糧も無くなり、弟子達も飢えのため動けなくなりました。しかし孔子は詩を詠んだり琴を弾いて動揺を見せません。子路が怒って問いました「君子も困窮することがあるのですか?」
孔子が言いました「君子も困窮する(が動揺はしない)。小人は困窮したら節度が無くなるものだ(君子固窮,小人窮斯濫矣)。」
 
子貢も顔色を変えました。それを見て孔子が問いました「賜(子貢の名)よ、汝は私が多学で博識だと思うか?」
子貢が答えました「はい。間違いですか。」
孔子が言いました「違う。私は一つの観点を貫いているだけだ(予一以貫之)。」
 
孔子は弟子達の不満が溜まっていると知り、まず子路を招いて問いました「『詩(小雅・何草不黄)』にはこうある『犀でも虎でもないのに、荒野をさまよう(匪兕匪虎,率彼曠野)』。私の道が誤っていたのだろうか。なぜ我々はこのような状況に陥っているのだろうか?」
子路が言いました「我々の仁がまだ足りないから、人々は我々を信じないのでしょう。我々の知がまだ足りないから、人々は我々を包囲して進ませないのでしょう。」
孔子が言いました「そのような事があるか?由よ、もし仁者が必ず信用されるのなら、なぜ伯夷と叔斉は死んだのだ?もし知者が困窮することがないのなら、なぜ王子・比干は殺されたのだ?」
 
子路が退席してから子貢が孔子に会いました。孔子が問いました「賜よ、『詩』にはこうある『犀でも虎でもないのに、荒野をさまよう』。私の道が誤っていたのだろうか。なぜ我々はこのような状況に陥っているのだろうか?」
子貢が言いました「夫子の道が大きすぎるので、天下が夫子を許容できないのです。夫子は少し屈したら如何でしょうか?」
孔子が言いました「賜よ、良農(優れた農民)が農業に励んだとしても、豊作になるとは限らない。良工(優れた工匠)が技巧をこらしても、必ず人々の賛同を得られるとは限らない。君子は道を修めることができ、綱(法度)によって国の規範を作り、統(系統。準則)によって国を治めるものだが(能脩其道,綱而紀之,統而理之)、人々に許容されるとは限らない。今、汝は汝の道を修めず、人々に許容されることを求めているが、賜よ、汝の志は遠くない(小さい)のではないか。」
 
子貢が退出してから顔回孔子に会いました。孔子が問いました「回よ、『詩』にはこうある『犀でも虎でもないのに、荒野をさまよう』。私の道が誤っていたのだろうか。なぜ我々はこのような状況に陥っているのだろうか?」
顔回が言いました「夫子の道が大きすぎるから、天下に許容されないのでしょう。しかしそうだとしても、夫子はそれを推し進めるべきです。許容されないことを悩む必要はありません。許容されないからこそ、君子とみなされるのです。道を修めないことこそ恥辱とするべきです。道を修めて既に大きくなり、そのために用いられないのだとしたら、それは国を擁する者の恥です。許容されないことを悩む必要はありません。許容されないからこそ、君子でいられるのです。」
喜んだ孔子は笑って言いました「その通りだ。顔氏の子よ、もし汝に豊富な財があるようなら、私は汝の宰(財を管理する者)になろう。」
 
孔子は弁舌に長けている子貢を楚に送りました。
楚昭王が兵を起こして孔子を迎え入れたため、陳・蔡の大夫による包囲が解かれました。
 
楚昭王は戸籍の登録がされている地七百里孔子に封じようとしました。しかし令尹・子西がこう問いました「王が諸侯に使者を送る時、子貢のような者がいますか?」
昭王は「いない」と答えました。
子西が問いました「王を補佐する臣下の中に、顔回のような者がいますか?」
昭王は「いない」と答えました。
子西が問いました「王の将帥で子路のような者はいますか?」
昭王は「いない」と答えました。
子西が問いました「王の官尹で宰予のような者はいますか?」
昭王は「いない」と答えました。
子西が言いました「楚の祖が周から封じられた時、子爵や男爵と同等の五十里を与えられました。今、孔丘は三五の法三皇五帝の法度)を述べ、周召の業(周公と召公の業績)を明らかにしています。王がこれを用いたとして、楚は世々代々数千里四方の地を保つことができるでしょうか。文王は豊におり、武王は鎬におり、わずか百里の君でしたが、最後は天下の王となりました。今、孔丘が(七百里もの)領土を持って拠点とし、賢才の弟子がそれを補佐したら、楚の福にはなりません。」
昭王は考えを変えました。
この秋、楚昭王が城父で死にました(東周敬王三十一年・前489年)
 
楚の狂人・接輿が歌を歌いながら孔子の傍を駆け抜けました。その歌はこうです「鳳よ、鳳よ、なぜその徳がふるわないのだ。去った事は諫められないが(取り返しがつかないが)、これからの事は追いかけられる(今までの行いを改めて隠居するべきだ)。あきらめよう、あきらめよう。今政治を行っている者は皆危険だ(鳳兮鳳兮,何徳之衰!往者不可諫兮,来者猶可追也。已而已而,今之従政者殆而)。」
孔子は接輿と話すために車から降りましたが、接輿は走り去り、話しをする機会を与えませんでした。
 
孔子は楚から衛に帰りました。

この時、孔子は六十三歳で、魯哀公六年にあたります

翌年(東周敬王三十二年・前488年)、呉と魯が繒で会見し、呉が百牢を要求しました。呉の太宰嚭が季康子(季孫肥)を招き、季康子は子貢を呉に派遣してから百牢を贈りました(本編参照)
 
孔子が言いました「魯と衛の政治は兄弟のようなものだ(魯と衛の祖である周公と康叔は兄弟で、その政治も兄弟のように友好的でした)。」
当時、衛君・輒(出公)の父・蒯聵は即位できず国外にいました。諸侯が衛出公に対して度々この状況を譴責します。
孔子の弟子の多くは衛に仕えており、衛出公も孔子に政治をさせようとしていました。
子路孔子に問いました「衛君は子(あなた)の出仕を待って政治を行わせようとしています。子は何を優先するつもりですか?」
孔子が答えました「必ず最初に名分を正さなければならない(正名)。」
子路が問いました「その必要がありますか。子は遠回りをしすぎです。なぜ名分を正す必要があるのですか(名分を正したら衛出公は父の蒯聵に位を譲らなければなりません)?」
孔子が言いました「由よ、汝は分かっていない。名分が正しくなければ言葉が適切ではなくなり、言葉が適切でなければ事は完成せず、事が完成しなければ礼楽を振興することもできず、礼楽が振興できなければ刑罰が不当になり、刑罰が不当になったら民はどうすればいいか分からなくなる(名不正則言不順,言不順則事不成,事不成則礼楽不興,礼楽不興則刑罰不中,刑罰不中則民無所錯手足矣)。だから君子の行いには必ず名分があり、言った事は必ず行わなければならない。君子の言には、いい加減なことがあってはならないのだ。」
 
翌年(『史記・衛康叔世家』は東周敬王三十五年・前485年に孔子が陳から衛に移り、その翌年に孔子が魯に帰ったとしています。『孔子世家』は東周敬王三十一年・前489年に孔子が楚から衛に入ったとしているので、『衛世家』の記述と合いません)冉有が季氏の将帥となり、郎で斉軍と戦って勝ちました(東周敬王三十六年・前484年)
季康子が問いました「子(汝)の軍旅は学んだものか、それとも天性のものか?」
冉有が言いました「孔子から学んだのです。」
季康子が「孔子とはどのような人物だ?」と問うと、冉有が答えました「孔子を用いたら名があり(原文「用之有名」。恐らく、孔子を用いたら名分が適切でなければならないという意味)、その学説は百姓の間に拡められても、諸鬼神の前に置かれても、憾(不足)とすることがありません。求めればその道に達することができ、千社(一社は二十五戸)に封じても夫子はそれを自分の利としません。」
季康子が問いました「わしは彼を招きたいと思うが、可能か?」
冉有が言いました「招きたいというのなら、小人に妨害されなければ可能です。」
 
当時、衛の卿・孔文子が太叔を攻めようとしており、孔子に策を問いましたが、孔子は回答を辞退して家に帰り、すぐ車の準備をしてこう言いました「鳥は住む木を選ぶことができるが、木は鳥を選ぶことができない(鳥は孔子、木は衛国です。衛は住むべき場所ではないという意味です。原文「鳥能擇木,木豈能擇鳥乎」)。」
孔文子が孔子を引き止めようとしましたが、季康子が公華、公賓、公林を送って孔子に礼物を贈り、帰国を促したため、孔子は魯に帰りました。
孔子が魯を去ってから十四年(または十三年、十五年)が経っていました。
 
魯哀公が政治について孔子に問いました。
孔子が答えました「政治の要は臣を選ぶことにあります。」
季康子が同じ質問をすると孔子はこう言いました「実直の者を登用して曲がった者を廃すべきです。そうすれば曲がった者も実直になります。」
季康子が盗賊を心配すると、孔子がこう言いました「子(あなた)が欲を持たなければ、たとえ賞を与えて盗みを推奨しても、人々は盗みを行わなくなります(民は上の者に感化するので、上が無欲になれば盗賊もいなくなります)。」
 
孔子は招かれて帰国しましたが、結局、魯は孔子を用いることができず、孔子も出仕を求めませんでした。