春秋時代 衛霊公

資治通鑑外紀』が東周敬王二十四年496年)呂氏春秋』等を元に衛霊公の故事を紹介しています。
本編では書けなかったのでここで紹介します。
 
まずは『呂氏春秋・似順論』からです。
ある冬の寒い時に衛霊公が池を掘らせようとしたため、宛春が諫めていいました「天が寒い時に労役を命じたら、民を害すことになります。」
霊公が問いました「今は天が寒いのか?」
宛春が答えました「主公は狐裘(狐の毛皮で作った服)を着て熊席(熊の皮の座席)に座っており、部屋の隅には竃(かまど)があるので寒くないのです。しかし民は衣服が破れても補うことができず、履物が壊れても直すことができません。主公は寒くなくても民は寒いのです。」
霊公は納得して労役を中止しました。
霊公の近臣が言いました「主公が池を掘ろうとしたのは天が寒いことを知らなかったからです。しかし春はそれを知っており、春によって命令が廃止されました。これでは福(善)は宛春に帰し、怨みが主公に集まることになります。」
霊公が言いました「そうではない。宛春は魯国の匹夫(平民)に過ぎず、わしによって用いられたが民はまだ彼を理解していない。今回の件によって民に彼のことを知らせることができたのだ。また、宛春が善行を行うのは寡人が行うのと同じだ。宛春の善は寡人の善ではないか。」
 
 
唐代に編纂された『芸文類聚・人部八(巻二十四)』にも衛霊公に関する記述があります。
霊公が重華の台で遊びました。従う侍御(侍女)は数百人に及び、随珠(姫妾がつける宝玉)が輝き、羅衣(絹の服)が風になびいています。
仲叔敖が諫めて言いました「昔、桀・紂がこのような行いをして滅亡しました。今、四方の隣国が国境を侵し、諸侯が兵を加え(衛を攻撃し)、土地は日々削られ、百姓は乖離しています。それなのに主公は内寵(姫妾)が多すぎるのではありませんか。」
霊公は再拝してこう言いました「寡人の過ちだ。子(汝)の言が無かったら社稷が傾くことになっただろう。」
霊公は御幸を与えていない宮女数百人を家に帰しました。それを知って国民が大いに喜びました。
 
『太平御覧・居処部五(巻百七十七)』にもほぼ同じ内容があり、最後に孔子の弟子・子貢が「諫言を受け入れることができるとはこういうことだ」と評価しています。
 
 
『列女伝・仁智伝・衛霊夫人(巻之三)』に霊公夫人の故事があります。この夫人が南子かどうかはわかりません。
ある夜、霊公が夫人と一緒に座っている時、轔轔(リンリン)という車の音が聞こえてきました。車が宮闕に至った時、音が無くなり、宮闕を過ぎるとまた音が響きます。
霊公が夫人に問いました「あれが誰か分かるか?」
夫人が答えました「蘧伯玉に違いありません。」
霊公がその理由を問うと、夫人はこう言いました「公門に至ったら車から降り、路馬(国君の馬)を見たら敬礼する(下公門,式路馬)のがきまりです。これは広敬(国君を尊重すること)のための礼です。忠臣と孝子は明るいから(人が見ているから)といって節を守るのではなく、暗いから(人が見ていないから)といって礼を疎かにすることもありません。蘧伯玉は衛の賢大夫です。仁があり智もあり、主公を敬っているので、夜の闇の中でも礼を棄てることはありません。だから彼だと分かったのです。」
霊公が見に行くと果たして蘧伯玉でした。しかし部屋に戻った霊公は夫人に戯れて「違った」と言いました。
すると夫人は霊公に酒を勧めて祝賀します。霊公が問いました「子(汝)はなぜ寡人を祝うのだ?」
夫人が言いました「妾(私)は衛の賢人は蘧伯玉しかいないと思っていましたが、今、衛には彼に並ぶ者がいると分かりました。主公には二人の賢臣がいます。国に賢臣が多いのは国の福です。だから妾は主公を祝賀するのです。」
霊公は驚いて「すばらしい(善哉)」と言い、本当の事を夫人に話しました。