春秋時代267 東周敬王(三十六) 魯定公の死 前495年

今回は東周敬王二十五年です。
 
敬王二十五年
495年 丙午
 
[] 春正月,邾隠公が魯に来朝しました。
魯の子貢(端木賜。孔子の弟子)が邾隠公の様子を見ると、邾子は玉を持って高く挙げ、顔を上に向けていました。逆に魯定公は恭しく玉を受け取り、下を向いていました。入朝した者が主人に玉を贈るのは当時の礼です。
子貢が言いました「礼に基づいてこの事を観ると、二君には死亡(死と亡命)が訪れるだろう(魯定公は本年五月に死に、邾隠公は東周敬王三十二年・前488年に出奔します)。礼とは死生存亡の体(主体)である。左右周旋も、進退俯仰も、礼に基づいている。朝祀喪戎(朝会・祭祀・喪事・戦争)もそこから観察することができる。今回、正月の朝見を行ったが、双方とも度(制度。礼)に合わなかった。これは心が既に亡んでいるからだ。嘉事(喜ばしい事。朝会)が礼に合っていないのに久しく存続できるはずがない。高く仰ぎ見るのは驕(驕慢。傲慢)である。卑しく伏せるのは替(怠惰。衰退)である。驕ならば乱に近づき、替ならば疾(病)に近づく。我が国君は主人なので先に死ぬだろう。」
 
[] 魯で鼷鼠(鼠)が郊牛(郊祭で使う牛)を齧り、牛が死んでしまいました。郊牛を選ぶために改めて卜が行われました。
 
[] 呉が楚に進攻した時(東周敬王十四年・前506年)、胡子(胡国の主)・豹が胡国周辺の楚邑に住む者を捕えました。
楚が安定してからも胡子・豹は楚に仕えず、こう言っていました「存亡には命がある(天命によって決められている)。楚に仕えて何になるか。出費が増えるだけだ。」
二月辛丑(十九日)、楚昭王が胡を攻めて滅ぼし、胡子・豹を連れて帰りました。
 
史記・楚世家』は前年に胡を滅ぼしたとしていますが、恐らく誤りです。『十二諸侯年表』も本年の事としています。
 
[] 夏五月辛亥朔、魯が郊祭を行いました。
 
[] 壬申(二十二日)、魯定公が高寝(宮殿の名)で死にました。在位年数は十五年です。
仲尼孔子が言いました「賜(端木賜。子貢)の言が不幸にも的中してしまった。この事が賜を多言の者(口が多い者)とするだろう。」
 
定公の子・蒋(または「将」)が継ぎました。哀公といいます。
 
[] 宋の公子・地は䔥で挙兵しましたが(東周敬王二十一年・前499年参照)、その後、鄭に奔ったようです。鄭は公子・地が住む場所を得るために、罕達に宋を攻めさせました。
罕辰は老丘で宋軍を破りました。
 
[] 斉侯(景公)と衛侯(霊公)が渠(または「」「蘧挐」)に駐軍しました宋を救うためです。
 
[] 邾子が自ら魯に来て定公の葬礼に参加しました。
 
[] 秋七月壬申(二十三日)、魯の姒氏(または「弋氏」。定姒。定公夫人、哀公の母)が死にました。
 
[] 八月庚辰朔、日食がありました。
 
[十一] 九月、魯定公の葬送に参加するため、滕子が魯に来ました。
丁巳(初九日)、魯定公を埋葬する予定でしたが、雨のため延期されました。
戊午(初十日)、夕方になってやっと埋葬できました。
 
冬十月辛巳(初三日)、定姒を埋葬しました。
 
[十二] 秋、魯が漆に城を築きました。しかし秋は農業が忙しく、本来は築城をするべき時ではありません。そこで冬になってから宗廟に報告しました。
『春秋』経文には「冬,城漆(冬、漆に築城した)」とあり、『春秋左氏伝(定公十五年)』は「不時告也(時をずらして報告した)」と解説しています。
 
[十三] 『史記・呉太伯世家』に「呉王・夫差元年(本年)、大夫・伯嚭を太宰に任命した」とあります。しかし伯嚭は呉王・闔廬の時代に太宰になったはずです(東周敬王十四年・前506年参照)。『史記』の誤りか、あるいは即位したばかりの夫差が改めて伯嚭を太宰に任命したのかもしれません。
呉は兵を訓練し、越に対する報復の志を忘れませんでした。
 
 
 
次回に続きます。