春秋時代268 東周敬王(三十七) 会稽の戦い 前494年(1)

今回は東周敬王二十六年です。二回に分けます。
 
敬王二十六年
494年 丁未
 
[] 春正月、魯哀公が即位しました。
 
[] 楚子(昭王)、陳侯(閔公)、隨侯、許男(許国は一度滅ぼされています。いつ復国したのかは分かりません。東周敬王十六年・504年参照)が蔡を包囲しました。柏挙の役(東周敬王十四年・前506年)の報復です。
蔡城から一里の場所に栽(堡塁)を築きました。壁の幅は一丈、高さは二丈に及びます。夫(兵。役夫)が昼夜九日間作業を続け、子西が立てた計画通りに完成させました。
 
蔡は縛った男女(奴婢)を分けて並べ、城を出て楚に投降しました。
楚昭王は蔡を長江の北、汝水の南に遷して帰還します。
しかし楚軍が去ると蔡は楚に背き、呉に遷ることを請いました
 
[] 呉王・夫差が夫椒(越地)で越軍を破りました。檇李の役(東周敬王二十四年・前496年)の報復です。
呉軍が勝ちに乗じて越国に進攻したため、越王・句践は甲楯(甲冑を着て盾を持つ兵)五千を率いて会稽山を守りました。
句践は大夫・文種(字は禽)を派遣し、呉の大宰(太宰)・伯嚭を通して講和を求めました。呉王・夫差が同意しようとしましたが、伍員伍子胥が言いました「いけません。『徳を建てる時は途絶えることなく、害を除く時は徹底して除く(樹徳莫如滋,去疾莫如尽)』といいます。昔、有過氏の澆(夏代、羿を殺した寒浞の子)が斟灌を殺して斟鄩を討ち、夏后・相(夏王・相)を滅ぼしました。この時、后緡(夏王・相の妻)は妊娠しており、竇(城壁の水を流す孔)から脱出して有仍氏を頼りました。こうして生まれたのが少康です。少康は有仍氏の牧正(牧畜を管理する官)となり、澆を憎んで警戒を強めました。暫くして、澆が臣下の椒を派遣して少康を探したため、少康は有虞氏に逃げて庖正(飲食を管理する官)となり、害から免れることができました。虞思(有虞の長)は少康に二姚(姚姓の女性二人。姚は有虞の姓)を娶らせて綸邑に封じました。少康は田一成(十里四方)と衆一旅(五百人)を擁すようになります。その後、少康は徳を広め、復国の計画を練り、夏の遺民を集め、官職(官員)を慰撫して安定させました。また、臣下の女艾を間諜として澆の下に送り、子の季杼に澆の弟)を誘い出させました。その結果、過澆の国)と戈の国)を滅ぼし、禹の功績を恢復し、夏の祖先を天に配して祭り、旧物を失うことがなかったのです(天下を元の姿に戻すことができたのです)。今、呉は過国に及ばず、越が少康よりも大きいのは、天が越を豊大にしようとしているのでしょう。(もし越と講和したら、越がますます大きくなってしまうので)呉の難になります。また、句践は他者と親しくし、施しに務め、その施しは平等に行き届き、功労がある者を大切にしています。越は我が国と隣接しており、代々仇讎の関係にあります。それなのにせっかく越に勝っても取らず、再び存続させたら、天に背いて寇讎を助長することになり、後から悔いても手遅れになるでしょう。姫姓(呉国)が衰えるのは時間の問題です。蛮夷の間(楚と越の間)にいながら寇讎を援けたら、伯(覇権)を求めても成功しません。」
呉王・夫差は諫言を聞かず、越と講和することにしました。
呉子胥が退出して言いました「越は十年で聚(蓄え)を生み、十年で教訓(民の教育と兵の訓練)し、二十年後に呉は沼と化すだろう(呉の都が廃墟になるだろう)。」
 
三月、越と呉が講和しました。
 
以上は『春秋左氏伝(哀公元年)』の記述です。『史記』『国語』にも詳しく書かれていますが、別の場所で紹介します。

淮南子・人間訓』から呉に屈した越の様子です。
越王・勾践(句践)は呉王・夫差の前で自分を屈し、自ら夫差の臣となり、妻を夫差の妾にしました。四時(四季)祭祀に供物を贈り、春秋の貢物も献上します。越の社稷(国政)は夫差に委ね、越の民にも呉のために尽力させました。勾践は普段は目立たないように姿を隠し、戦になったら進んで先鋒になります。夫差に対して恭敬な礼をとり、言葉も従順だったため、離反の心は全く見えませんでした。
しかし、後に甲卒三千人(兵数には諸説あります)を率いて姑胥(姑蘇)で夫差を捕えました。

呉に屈した越王・句践は帰国後に臥薪嘗胆して復讐を果たします(句践が帰国するのは三年後の東周敬王二十九年・前491年です)。
臥薪嘗胆については改めて書きます。

[] この頃の出来事として、『国語・魯語下』に孔子の博識を伝える話があります。
呉が越を攻めて会稽で大勝した時、大きな骨を発見しました。骨の一節だけで車を満たすことができるほどです。
呉王・夫差は魯との関係を強化するために使者を送り、同時に骨について孔子に問うことにしました(実際には、この頃、孔子が魯にいたかどうかははっきりしません)。夫差は使者に「わしの命を用いてはならない(原文「無以吾命」。恐らく、呉王の名を出してはならない、呉王が質問していると覚られてはならない、という意味です)」と命じます。
呉の使者が魯に到着すると宴が開かれました。使者が諸大夫に幣礼を贈ります。孔子の番になると、孔子は爵(杯)で酒を勧めて答礼しました。
酒を献上する礼が終わって食事が始まりました。暫くすると、呉の使者が料理の骨を持って孔子に問いました「何の骨が最も大きいのでしょう?」
孔子が言いました「昔、禹が会稽の山に群神(各地の諸侯。諸侯は山川の神の主なので群神といいます)を集めた時、防風氏(汪芒氏の主)が遅れて来たため、禹はそれを殺してみせしめにしました。その骨は一節が車を満たしたといいます。これが最も大きいものでしょう。」
使者が問いました「誰が天下を守って神(主)となるのでしょうか?」
孔子が答えました「山川の霊は天下の紀綱となるのに足りるので、天下は山川の霊によって守られています。社稷を守るのは公侯(封国の主。諸侯)です。しかしそれらは全て王の下に属します。」
使者が問いました「防風は何を守っていましたか(主宰していましたか)?」
孔子が言いました「彼は汪芒汪罔氏の君であり、封山や嵎山を守っていました。漆が姓(または「釐姓」)です。虞(舜)・夏・商の時代は汪芒氏といい、周代になって長狄長翟になり(周代に北に遷りました)、今は大人(国)とよばれています。」
使者が問いました「人の身長の限度はどうでしょう?」
孔子が言いました「僥氏西南夷は身長が三尺しかありません。低さの限界です。背が高い者もそれ(三尺)の十倍を越えることはありません防風氏です)。これが大小の限界です。」
『国語』にはありませんが、『史記孔子世家』では呉の使者が孔子を「素晴らしい。聖人だ」と称賛しています。
 
 
 
次回に続きます。