春秋時代269 東周敬王(三十八) 呉楚の関係 前494年(2)

今回は東周敬王二十六年の続きです。
 
[] 魯で鼷鼠(鼠)が郊牛(郊祭で使う牛)を齧ったため、改めて卜をして牛を選び直しました。
夏四月辛巳(初六日)、郊祭を行いました。
 
[] 斉景公と衛霊公が邯鄲(趙稷)を援けるために五鹿(晋邑)を攻めました。
 
[] 呉が楚に進攻した時、陳懐公を招きました。懐公は国人の意見を求めて言いました「楚に与したい者は右に並べ。呉に与したい者は左に並べ。」
田がある陳人は自分の田の場所によって楚に附くか呉に附くかを決めました。田が西にあれば楚に近いので右(南を向いて座っている懐公から見て右です)、田が東にあれば呉に近いので左です。田がない者は親族や徒党の意見に従いました。
しかし逢滑だけは左右を選ばず、懐公の正面に立って言いました「国の振興は福によって成り、亡は禍によって招かれるといいます。今、呉にはまだ福がなく、楚にはまだ禍がありません。楚を棄ててはならず、呉に従ってはなりません。晋は盟主です。晋を口実に呉の誘いを断ったら如何でしょうか?」
懐公が言いました「呉国が勝って楚君は亡命した。これが禍でなくて何だというのだ?」
逢滑が答えました「このような状況を招いた国は多数あります。なぜ(楚だけが)回復できないのですか。小国でも回復できるのですから、大国ならなおさらです。国を振興させる時には、民を負傷者のように大切にすれば(視民如傷)福となり、国が亡ぶ時には、民を土草のように扱ったら(以民為土芥)禍になるといいます。楚には徳がありませんが、妄りに民を殺してはいません。呉は日々兵を動かして疲弊し、草叢に白骨を晒しており、まだ徳が見られません。天は楚に教訓を与えているのでしょう。(楚は亡ぶことなく)禍は呉に訪れます。それは時間の問題です。」
陳懐公は逢滑の言に従いました。
 
しかし呉王・夫差が越を破り、先君(闔廬。越に殺されました)の怨みを晴らしました。
夫差は陳に対する怨み(闔廬の誘いに断ったこと)も晴らそうとします。
 
秋八月、呉が陳を攻撃しました。
 
[] 斉侯(景公)と衛侯(霊公)が乾侯で会しました。晋で叛した范氏を援けるためです。
斉景公、衛霊公、衛の孔圉に魯軍と鮮虞人も合流し、共に晋を攻めて棘蒲を取りました。
 
[] 呉軍が陳に駐軍しました。
 
楚の大夫達が恐れて言いました「闔廬はその民をうまく使い、柏挙で我が軍を破った。その嗣(跡継ぎ。夫差)は闔廬よりもすごいという。どうすればいいだろう。」
子西が言いました「二三子(諸大夫)は互いに和睦(協力)できないことを心配するべきです。呉を憂いる必要はありません。昔、闔廬は二味(二つ以上の料理)を食べず、坐る時は席(座布団)を重ねず、室(家)は壇の上に造らず(古代の貴族は土を盛って壇を造ってから家を建てましたが、夫差は平地にそのまま家を建てました)、器物に彤鏤(赤い漆や細かい彫刻)を施さず、宮室には観(楼台)がなく、舟車には装飾がなく、衣服や財用(用具)は実用性を求めて浪費しませんでした。国内では、天が菑癘(天災・疫病)を降すと自ら孤寡(身寄りがない者)を巡視し、貧困を救済しました。軍においては、士卒に熱を通した食べ物(料理)を行き届かせてから自分の分を食べ、自分が食べる物(珍味)は士卒にも分け与えました。努めて民を慈しみ、労逸(辛労と安息)を共にしました。だから民は疲弊することなく、死んでもそれを無駄なことだとは思わなかったのです。しかし我々の先大夫・子常はこの逆でした。そのため、楚は敗れました。今、夫差の次(住む場所)には台榭(楼台)や陂池(池)があり、宿(寝室)には妃嬙・嬪御(妃妾・女官)がおり、一日外に出たら、欲したことを必ず成し遂げ、気に入った玩賞の物を必ず携帯しているといいます。珍異を集め、享楽に務め、民を讎(仇)のようにあつかって日々新しい労役に従事させています。これでは自ら失敗を招くので、我々に勝てるはずがありません。」
 
以上は『春秋左氏伝(哀公元年)』を元にしました。『国語・楚語下』にも書かれていますが、若干異なります。
ある日、子西が朝廷で嘆息したのを見て、藍尹・亹が言いました「君子とは先人の興亡を想う時や、殯喪(葬儀)で哀しむ時には嘆息しますが、その他の時には嘆息しないものだといいます。君子は政に臨んだら義(公義)を想い、飲食の時は礼を想い、人と宴を共にしたら楽(楽しみ)を想い、楽しい時は善を思うものなので、嘆息することはありません。しかし今、吾子(あなた)は政に臨んで嘆息しました。それはなぜですか?」
子西が言いました「闔廬はかつて我が師を破った。その闔廬が世を去ったが、闔廬の嗣(夫差)は父を越えると聞いた。だから嘆息したのだ。」
藍尹・亹が言いました「子(あなた)は政治において徳を修められないことを憂いるべきであり、呉を憂いる必要はありません。かつて闔廬は、口は嘉味を貪らず、耳は逸声(淫音。礼から外れた音楽)を楽しまず、目は美色を好まず、身は安逸に浸ることなく、朝から夜まで勤志(志のために努力すること)し、民の苦難を憐れみ、善言を一つ聞いたら驚き、一士を得たら賞し、過ちがあれば改め、不善があれば恐れました。だから民を得て志を達成できたのです。しかし夫差について聞いたところでは、私欲のために民力を疲弊させ、過ちを放置して諫言を拒み、外に宿泊する時はたとえ一晩でも台(楼台)・陂池(池沼)を準備させ(遊行のためです)、六畜(珍獣)や玩好(玩具。宝物)を従えさせているといいます。夫差は自滅を招いています。どうして人を破ることができるでしょう。子が徳を修めて呉の変化を待てば、呉は必ず倒れます
 
[] 冬、魯の仲孫何忌が邾を攻撃しました。邾は前年、魯に入朝したばかりです。なぜ魯が攻撃したのかはわかりません。
 
[十一] 十一月、晋の趙鞅が朝歌(范氏・中行氏)を攻撃しました。
史記・趙世家』はこの時、中行文子荀寅邯鄲に奔ったとしていますが、実際は二年後の事です。
 
[十二] 『竹書紀年(今本・古本)』には、この年、晋で青い虹が見えたという記述があります。
 
 
 
次回に続きます。