春秋時代 会稽の戦い 『史記』の記述

東周敬王二十六年494年)に呉が越に報復し、会稽山で句践を包囲しました。
ここでは史記』から会稽の戦いに関する記述を紹介します。
 
まずは『史記・呉太伯世家』です。
呉王夫差元年、呉が大夫・伯嚭を太宰に任命し、兵を訓練して越に対する報復の志を忘れないようにしました。
二年、呉王が精兵を総動員して越を討ち、夫椒(越地)で破りました。姑蘇の役の報復です。
越王・句践は甲兵五千人を率いて会稽山にこもりました。
句践は大夫・種姓は文、名が種。字は子禽)を派遣し、呉の太宰嚭を通して講和を求めました。越国を呉に譲り、越王と王后が自ら呉の臣妾になることを願い出ます。呉王が同意しようとしましたが、伍子胥が諫めて言いました「昔、有過氏寒浞の子が封じられた国)が斟灌氏を殺して斟尋氏を攻撃し斟灌と斟尋はどちらも夏王と同姓の国)、夏后帝(夏王)・相を滅ぼしました。その時、帝相の妃・后緡は妊娠しており、有仍氏(后緡の実家)に逃げて少康を産みました。少康は有仍の牧正(牧官の長)になります。その後、有過氏がまた少康を殺そうとしたので、少康は有虞氏(帝舜の子孫の国)に奔りました。有虞氏は夏の徳を想い、二人の娘を嫁がせて綸の邑に住ませ、田一成(十里四方で一成)と衆一旅(五百人で一旅)を与えました。後に少康は夏の衆を集めて官職を整理し、人を送って有過氏を誘い出し、ついに滅ぼしました。こうして禹の業績を回復させ、夏祖(禹の父・鯀)を天に配して祀り、旧物(旧職。禹が建てた国)を失わずにすんだのです。今、呉は有過の強盛に及ばず、句践は少康よりも大きいのに、この機に滅ぼすことなく赦したら、後の難となるでしょう。そもそも句践は辛苦に堪えることができる人物です。今滅ぼさなかったら必ず後悔します。」
呉王は諫言を聞かず、太宰嚭の言を採用して越と和平しました。
呉は越と盟を結んで兵を還します
 
 
次は『史記・越王句践世家』からです。
越王句践三年、句践は呉王・夫差が日夜兵を鍛えて越に報復しようとしていると知り、先手を打って呉を攻撃しようとしました(越が先に攻めたという記述は『春秋左氏伝』と異なります)
范蠡(字は少伯。越の上将軍)が諫めて言いました「いけません。兵(兵器)は凶器であり、戦は逆徳であり、争は事の末(最後に行うこと)であるといいます。逆徳を謀り、凶器を好んで用い、末の事を自ら試したら、上帝がこれに反対するので行った者の不利となります。」
しかし越王は「既に決めたことだ」と言って兵を起こしました。
越の出兵を知った呉は精兵を総動員して迎え討ち、夫椒で越軍を破りました。
越王は残った兵五千を率いて会稽山を守り、呉王がそれを追撃して包囲しました。
 
越王が范蠡に言いました「子(汝)の諫言を聞かなかったため、このようなことになってしまった。どうすればいいだろう?」
范蠡が言いました「満たされても溢れることがない者は天道と共にいるので天から与えられ(持満者與天)、人に対して恭しく接して自分を下にできる者は人道と共にいるので人から与えられ(定傾者與人)、節度を守って万物を適切に使うことができる者は地道と共にいるので地から与えられるものです(節事者以地)。辞を低くして厚い礼物を贈っても呉が赦さないようなら、自らの身を持って相手の利とするべきです(辞を低くして礼物を贈るのは人道、自分の身をうまく使うのは地道です)。」
句践は「わかった(諾)」と言い、大夫・種に命じて呉に講和を求めさせました。
 
呉王・夫差に謁見した大夫・種は膝で前に進み、叩頭して言いました「君王(呉王)の亡臣・句践が陪臣・種を派遣して、下執事(呉の官員)に敢えて報告させました。句践が自ら臣となり、その妻が妾になることをお許しください。」
呉王が同意しようとすると、伍子胥が呉王に言いました「天が越を呉に与えようとしているのです。許してはなりません。」
大夫・種は戻って句践に報告しました。
そこで句践は妻子を殺し、宝器を焼き棄てて、最後の決戦を挑もうとします。
しかし大夫・種が句践を止めて言いました「呉の太宰・嚭は貪欲なので、利によって誘うことができます。秘かに会って話をしましょう。」
句践は美女や宝器を準備し、大夫・種を派遣して太宰嚭に献上させました。太宰嚭はこれを受け取り、大夫・種を改めて呉王に会わせます。
大夫・種が叩頭して言いました「大王が句践の罪を赦すのなら、全ての宝器を献上します。不幸にも赦されないようなら、句践は妻子を殺し、宝器を焼き棄て、残った五千人を全て率いて決戦を挑みます。必ず(呉王にも)損失が出るでしょう。」
太宰嚭が呉王に言いました「越が服して臣になるのなら、赦すことが国の利になります。」
呉王が同意したため、伍子胥が諫めて言いました「今、越を滅ぼさなければ、必ず後悔します。句践は賢君で、種と蠡は良臣です。もし国に還したら必ず乱を起こすでしょう。」
呉王は諫言を聞かず、越の包囲を解いて兵を還しました
 
句践が会稽山で包囲された時、嘆息してこう言いました「わしはこうして終わってしまうのか?」
大夫・種が言いました「湯商王朝創始者。成湯)は夏台に繋がれ、文王は羑里に幽閉され、晋の重耳(文公)は翟に奔り、斉の小白桓公は莒に奔りましたが、皆、王霸となりました。これらを見たら、今日の苦況が福にならないとは限りません。」
 
呉が越と和平してから、越王・句践は国に帰り、苦身焦思(苦心して深く考えること)しました。
苦い膽(胆)を坐に置き(座席や寝床の上に胆を掛けて垂らし)、仰向けになったら膽を仰ぎ見て嘗め、飲食の時にも膽を口にし、苦味によって苦悩を思い起こして「汝は会稽の恥を忘れたか」と言いました。

余談ですが、『史記』のこの記述から「臥薪嘗胆」という言葉が生まれました。

史記』に戻ります。
句践は自ら農耕を行い、夫人も織り物をし、食事には肉を加えず、衣は二重の采服を身につけず、賢人を敬い、賓客を厚遇し、貧困を救済して死者を弔い、百姓と苦労を共にしました。
 
句践は范蠡に国政を委ねようとしましたが、范蠡はこう言いました「兵甲の事(軍事)においては、種は蠡に及びません。しかし国家を鎮撫し、百姓を親しませる能力においては、蠡は種に及びません。」
句践は国政を大夫・種に託し、范蠡と大夫・柘稽諸稽郢)を人質として呉に送って正式に講和しました。
二年後、呉が范蠡を帰国させました
 
 
 
次回に続きます。