春秋時代 会稽の戦い 『国語・越語上』の記述

東周敬王二十六年494年)に呉が越に報復し、会稽山で句践を包囲しました。
今回は『国語・越語上』から会稽の戦いに関する記述です。
 
越王・句践が会稽の山上で呉軍に包囲された時、三軍に号令を出して言いました「我が父兄兄弟および国子姓(国君と同姓の者。ここでは全国民)の中で、寡人を助けて策謀し、呉を退けることができる者がいたら、わしはその者と共に越国の政を行おう(卿に抜擢しよう)。」
大夫・種が進み出て言いました「賈人(商人)は夏の間に皮(冬服)を蓄え、冬の間に絺(葛。夏服)を蓄え、旱(乾季)に舟を蓄え、水(雨季)に車を蓄え、物資が欠乏した時に蓄えた物を使うといいます。四方に憂いがなくても、謀臣と爪牙の士(勇士)はあらかじめ養い選んでおかなければなりません。蓑や笠が雨季になったら必ず必要になるのと同じです。今、君王は会稽の山上で困窮してから謀臣を求めましたが、遅すぎるでしょう。」
句践は「子大夫(汝)の言を得られるのなら遅いことはない」と言うと、大夫・種の手を取って共に謀りました。
 
大夫・種が講和の使者として呉に派遣されました。
大夫・種が呉王・夫差に言いました「寡君・句践は使者にする人材が不足しているため、下臣・種を派遣しました。天王に直接声を届けるわけにはいかないので、個人的に下執事(官員)にお伝えします。寡君(句践)の師徒(軍)は貴国を煩わせるに値しません。金玉と子女を献上して償いとさせていただくことを願います。句践の娘を王に送り、大夫の娘を大夫に送り、士の娘を士に送り、越国の宝器を全て献上し、寡君が越国の衆を率いて貴君の師徒に従い、貴君の指示に従います。もしも越国の罪が赦されないようなら、宗朝(宗廟)を焼き、妻子を縛り(決戦に挑んで失敗したら妻子を殺して呉の捕虜にはさせないという意味です)、金玉を江(長江)に沈め、甲士五千を率いて命をかけます。甲士一人は二人分の武力に匹敵するので、甲士一万が貴君と戦うことになります。それでは君王が欲する物(越の民と宝物)を損なうことになるでしょう。越の人々を殺すより、その国を得た方が、利になるのではありませんか。」
 
夫差が講和に同意しようとしましたが、伍子胥が諫めて言いました「いけません。呉と越は仇讎敵国の関係にあります。両国は三江(呉江・銭塘江・浦陽江。または岷江・松江・浙江に囲まれており、民は他に遷る場所がありません(呉の民でなければ越の民です)。呉があれば越は存在できず、越があれば呉が存在できず、この状況を変えることはできません。陸に住む人は陸の生活に慣れており、水上に住む人は水上の生活に慣れているといいます。我々が上党の国(陸上に住む国。中原諸国)に勝っても、その地に住むことはできず、その車に乗ることもできません(呉は水上の生活に慣れている国です。中原は陸上です)。しかし越国に勝てば、その地に住み、その舟に乗ることができます。これは我が国にとっての利であり、失ってはなりません。国君は越を滅ぼすべきです。この利を失ったら、後悔しても手遅れになります。
 
呉が講和に同意しないため、越が美女八人を呉の太宰嚭に贈り、こう伝えました「子(あなた)が越国の罪を赦してくれるのなら、更に美しい者を贈りましょう。」
太宰・嚭が呉王・夫差に言いました「古の国を討伐した者は、相手が服従したら止めたものです。今、越は既に服従しました。これ以上何を求める必要があるのでしょう。」
夫差は越と講和して兵を還しました。
 
帰国した句践が越の国人に言いました「寡人は自分の力が足りないことを知らず、大国と讎を結び、百姓の骨を中原に曝すことになってしまった。これは寡人の罪である。寡人に改める機会を与えてほしい。」
句践は死者を埋葬し、負傷者を慰問し、生者を養い、喪があれば弔い、喜事があれば祝賀し、越を去る者は送り出し、越に来る者は迎え入れ、民が嫌う事を省き、民の不足を補いました。
その後、自分の身を低くして夫差に仕え、宦士(宦は宮中の小臣。士は士人)三百人を呉に献上しました。句践自ら夫差の前馬(馬車の前で道を開く者)を勤めました
 
 
次は『国語・越語下』からです。
越王・句践は即位して三年で呉を討伐しようとしました。
しかし范蠡が反対して言いました「国家の事は『盈を守る(「持盈」。隆盛を保つこと)』『傾きを安定させる(「定傾」。危険があった時、安定を図ること)』『事に節を持つ(「節事」。平時は節度をもって適切な政治を行うこと)』という三件があります。」
越王が問いました「どうすればその三者を実行できるのだ?」
范蠡が答えました「『持盈』の者は天に従い(天と共におり。「与天」)、『定傾』の者は人に従い(人と共におり。「与人」)、『節事』の者は地に従う(地と共にいる。「与地」)ものです。これらは王が問わなかったら蠡(私)が敢えて語ることではありません。天道は満ちても溢れることなく、隆盛しても驕らず、労があっても自分の功績を誇りません(盈而不溢,盛而不驕,労而不矜其功)。そして聖人は時(天の時)に応じて行動します。これを『守時』といいます。天が事を起こさなかったら(天がきっかけを作らなかったら。敵国に天災等がなければ)、人の客(侵略者)になってはならず、人に事が起きなければ(敵国に謀反等の人が起こす禍がなければ)、始(事件の発起人)になってはなりません。しかし今、君王は満ちていないのに溢れ(国力が足りていないのに野心を大きくし)、隆盛していないのに驕り、労も無いのに功績を誇ろうとし、天が事を起こしていないのに人の客(侵略者)となり、人が事を起こしていないのに始(戦の発起人)になろうとしています。これは天に背き人と和さないことです。王がもし出征したら、国家の害となり、王自身の身を損なうことになるでしょう。」
句践が納得しないため、范蠡が続けて言いました「勇とは徳に逆らうものです(徳とは礼によって譲ることであり、勇は力によって奪うことです)。兵(兵器)は凶器です。争とは事の末(最後に行う事)です。陰謀によって徳に背き、凶器を用いることを好み、人より先に(戦争を)始めたら、最後は人に害されます。淫佚(放縦)の事は上帝が禁じています。先に兵を用いたら必ず不利になります。」
しかし句践は「そのような二言(陰謀と淫佚)はない。わしは既に決定した」と言って兵を起こし、呉を攻撃しました。
その結果、五太湖)で敗戦して会稽山に立て籠ることになりました。
 
越王が范蠡を招いて言いました「わしが子(汝)の言を用いなかったために、このようなことになってしまった。どうすればいいだろう?」
范蠡が言いました「君王はお忘れですか?『持盈』の者は天に従い、『定傾』の者は人に従い、『節事』の者は地に従うものです。」
越王が問いました「人に従うとはどういうことだ?」
范蠡が答えました「辞を低くして礼を尊び、玩好(玩具。財宝)や女楽を献上し、その名を尊重する(相手を「天王」と称す)べきです。それでも講和が受け入れられなかったら、自らの身を与えて相手の利とするべきです。」
越王は「わかった(諾)」と言い、大夫・種を呉に派遣しました。
 
大夫・種が呉王・夫差に言いました「士の娘を士に送り、大夫の娘を大夫に送り、国家の重器(宝器)を納めさせてください。」
しかし呉は講和を拒否します。
大夫・種は一度戻ってから再び呉に行き、夫差に言いました「管籥(府庫の鍵)を国家(呉国)に属させ、我が身を持って呉に従うので、君王(呉王)が支配してください。」
呉はやっと講和に同意します。
 
越王が范蠡に言いました「蠡はわしのために国を守れ。」
范蠡が言いました「四封内での百姓の事に関しては、蠡は種に及びません。しかし四封外で敵国を制し、決断を下す事に関しては、種は蠡に及びません。」
越王は納得し、大夫・種に越国を守るように命じました。
句践と范蠡は呉に入って呉王の宦臣隸)となりました。