春秋時代 敬姜

資治通鑑外紀』は公父文伯(公父。公父穆伯の子。穆伯は季悼子・紇の子の母・敬姜に関する記述を『国語』と『孔叢子』から引用しています。
本編では書けなかったので、ここで紹介します。
 
まずは『国語・魯語下』の内容を列記します。
 
魯の正卿・季康子(季孫肥)が大夫・公父文伯敬姜)に問いました「主(大夫とその妻を「主」とよびます。ここでは穆伯の妻で文伯の母にあたる敬姜を指します)には肥(私)に授ける言葉がありませんか?」
敬姜が言いました「私は既に年老いたので、子(あなた)に教えることはありません。」
康子が言いました「そうだとしても、肥は主の教えをお聞きしたいです。」
敬姜が言いました「先姑(「姑」は夫の母。既に死んでいるため「先姑」といいます)がかつてこう言っていました『君子が労すことができれば(位が高くなっても驕らず、勤勉に努めることができれば)、後世が途絶えることはありません(君子能労,後世有継)。』」
子夏(卜商。孔子の弟子)がこの話を聞いて言いました「すばらしい(善哉)。古では嫁ぎ先に行った時、舅姑(夫の両親)が他界していたら不幸だといわれていた(妻に教え諭す年長者がいないからです)。婦人というのは、舅姑から学ぶものである。」
 
公父文伯が大夫・南宮敬叔(南宮説)を宴に招き、同じく大夫の露睹父を上客にしました。
しかし出された鱉(すっぽん)の料理が小さかったため、露睹父が怒って言いました「鱉が生長してから食べに来る。」
露睹父は退出します。
この出来事を聞いた敬姜が文伯を怒って言いました「先子(夫の父。季悼子)がかつてこう言いました『祭祀においては尸(神霊の代わりに祭祀を受ける者)をもてなし、宴席においては上賓(上客)をもてなさなければならない。』鱉の料理は何の礼節に従ったのですか。なぜ人を怒らせてしまったのですか。」
敬姜は文伯を家から追い出しました。
五日後、魯の大夫達が取り成したため、文伯はやっと家に帰ることができました。
 
敬姜が季氏の家に行きました。季康子は外朝(国の朝廷ではなく、季氏の政庁)で政務を行っています。季康子が敬姜を見つけたため話しかけましたが、敬姜は応えません。季康子は敬姜に従って寝(内室の門)に至りましたが、敬姜は相手にせず、門を入りました。
康子は家臣を去らせてから内室に入り、敬姜に問いました「肥(私)が命(言葉)を聞くことができないのは、何か罪を犯したからでしょうか?」
敬姜が言いました「(あなた)は聞いたことがないのですか。天子と諸侯は外朝で民事の政務を行い、内朝で神事(祭祀)を行います。卿以下は外朝で官職(自分の職務)を行い、内朝で家事(家庭の事)を行います。これに対して寝門の中を婦人が治めるというのは、上下(国君と臣下)に共通することです。外朝は国君に与えられた官職に勤める場所であり、内朝は季氏の政を治める場所です。どちらも私が口出しする場所ではありません。
 
公父文伯が退朝(朝廷から帰ること)し、母・敬姜にあいさつしました。敬姜が織り物をしていたため、文伯が言いました「(私)家で主(母)が織り物をしていたら、季孫康子)に怒られます。主に善く仕えていないと思うでしょう。
敬姜が嘆いて言いました「魯は亡ぶでしょう。僮子(道理をわきまえない子供)に官を与えて道を教えないとは。坐りなさい。汝に教えましょう。
昔、聖王が民を治める時は、敢えて瘠土(痩せた土地)を選んで民を住ませ、労働に励ませてから民を使ったので、長く天下の王となれたのです。民が勤勉に労働すれば倹約を思い、倹約を思えば善心が生まれます。逆に安逸になれば淫し(放縦になり)、淫すれば善を忘れ、善を忘れたら悪心が生まれます。沃土(肥えた土地)では民が育たないのは、安逸だからです。瘠土の民が義に向かうのは、労働に励んでいるからです。
だから天子は大采(五彩の礼服)で朝日(日を祭ること。春分の祭祀です)し、三公九卿と共に地徳(農作物の生長)を習熟し、日中(正午)に政治を考査して百官の政事を把握し、師尹(大夫)や旅(衆士)・牧(州牧)・相(国相)が民事を処理している状況を確認します。また、少采(三彩の礼服)で夕月(月を祭ること。秋分の祭祀です)し、大史(太史)・司載(司災。天文災害を記録する官)と共に恭しく天刑(天の吉凶の兆)を観察します。日が落ちたら九御(九嬪の官。女官)を監督し、禘祭と郊祭の粢盛(祭品)を準備させ、その後、やっと休むことができます。
諸侯は、朝は天子から与えられた業命(職務、命令)を行い、昼は国職(国の職務)を考察し、夕方は典刑(法令)の状況を確認し、夜は百工(百官)を監督して慆淫(怠惰)にさせることなく、その後、やっと休むことができます。
卿大夫は、朝は自分の職務を行い、昼は政治について学び、夕方は自分の業を順番に確認し、夜は家事を治めて、その後、やっと休むことができます。
士は、朝は朝廷から命令を受け、昼は学習し、夕方は復習し、夜は自分の行いを反省して、その後、やっと休むことができます。
庶人以下は、明るくなったら働き、暗くなったら休み、一日も怠けることはありません。
王后は自ら玄紞(冠の前後の装飾)を織り、公侯の夫人は玄紞の他に紘(冠の紐)と綖(冠の上の布)を織り、卿の内(妻)は大帯(祭服の帯)を作り、命婦(大夫の妻)は祭服を作り、列士の妻はそれらに加えて朝服を作り、庶士下士以下、庶人に至るまで、皆、夫の衣服を作るものです。社春分の社祭。社は土地神)では農桑の仕事を振り分け、蒸(冬の祭祀)では収穫を奉納し、男女とも力を尽くして成果を挙げ、罪があったら罰するのが、古の制度です。君子は心を労し、小人は力を労すのが、先王の訓(教え)です。上から下まで怠惰になることは許されません。今、私は寡婦であり、汝は下位(大夫)です。朝から晩まで職務に励んでも、まだ先人の業を失うことを恐れなければなりません。もし怠惰の心が生まれたら、どうして罪から逃れることができるでしょう。私は汝が朝も晩も私を戒めて『先人の業を廃してはなりません』と言えるようになることを望んでいました。しかし汝は今曰、『なぜ安逸を求めないのですか』と言いました。このような態度で国君の官を勤めるようでは、穆伯の後嗣は絶えてしまうでしょう。」
これを聞いた仲尼孔子はこう言いました「弟子達よ、よく覚えておけ。季氏の婦人は不淫(放縦ではないこと。礼に則っていること)である。
 
公父文伯の母・敬姜は季康子の従祖叔母にあたります(祖父の兄弟の妻。季康子の父は季孫斯・桓子で、祖父は季孫意如・平子、平子の父は季孫紇・悼子です。敬姜の夫は公父穆伯で、その父は季悼子なので、季平子と公父穆伯は兄弟です)
季康子が敬姜に会いに行っても、門を開けて話しをし、互いに門を越えることはありませんでした。
悼子の祭祀に季康子も参加しましたが、季康子が酢(祭肉等の礼品)を贈る時も敬姜は直接受け取らず、祭祀の後の宴でも同席しませんでした。
(祭祀を掌る官)が来なければ、敬姜は繹(二日目の祭祀)に参加せず、繹が終わって飫(立ったまま行う宴)が開かれても、少し参加するだけで先に帰りました。季康子と同席しないためです。
これを聞いた仲尼は「男女の別を明らかにする礼節をわきまえている」と言って敬姜を評価しました。
 
敬姜は文伯に妻を娶らせるため、宗老(礼楽を掌る家臣)を宴に招き、『緑衣詩経・邶風)』の三章を賦しました。「古人(他界した夫)を想う。過ちを犯させないでほしい(我思古人,俾無兮)」とあります。
宗老は卜人に相手の女性の家を卜わせました。
これを聞いた師亥(魯の楽師。賢人として知られていました)が言いました「素晴らしい(善哉)。男女が参加する宴は宗臣に及ばず(原文「男女之饗,不及宗臣。」同族の男とは同席しないという意味で、前の段落で敬姜が季康子との同席を避けたことを指すようです)、宗室の謀は宗人を越えないものだ(家族内の相談は同族以外の者を関与させないという意味で、文伯の婚姻について宗老に相談したことを指します)。謀して礼を犯さず、詩によって意思を明らかにした。詩とは意思を成すものであり、歌とは詩を詠むものである。詩によって婚姻の意志を形にし、歌によってそれを詠んだのは、法(道理)にかなっている。」
 
公父文伯が死にました。
敬姜が文伯の妾を戒めて言いました「内(妻妾)を愛したら、女が彼のために死に、外(政務)を愛したら、士が彼のために死ぬといいます。今、私の子が夭死(夭折)しましたが、私は我が子が内を愛したと言われたくありません。二三婦(あなた達)は先者(死者)の祀りにおいて自分を曲げなさい。悲哀のために痩せ衰えてはなりません。黙々と泣いてはなりません。胸を打って慟哭してはなりません。憂色を見せてはなりません。喪服の等級を礼に定められたものより軽くしなさい。重くしてはなりません。礼に従って静かに葬儀を終わらせなさい。それが我が子の徳を表すことになります。」
これを聞いた仲尼が言いました「女(未婚の女)の見識は婦人に及ばず、男(未婚の男)の見識は夫に及ばない。公父氏の婦人は明智の持ち主だ。(通常なら妻妾に命じて悲しみを大きくさせるところだが、それを抑えて)子の令徳(美徳)を顕揚しようとしている。
 
敬姜は朝に夫・穆伯を想って哀哭し、夜に子の文伯を想って哀哭しました。
それを聞いた仲尼が言いました「季氏の婦人は礼をわきまえている。愛情を持っているが私情はなく、上下(夫と子)に秩序がある。」
当時の礼では、寡婦は夜に夫を想って泣いてはならないとされていました。夜に夫を想うと情欲を思い出してしまうからです。敬姜が朝に夫を想って泣いたのは礼にかなっています。また、夫(父)が先で子が後というのも、上下の秩序を守っています。
 
 
最後は『孔叢子・記義(第三)』からです。
公父文伯が死んだ時、室人(妻妾)で殉死する者がいました。
母の敬姜は怒って文伯のために哀哭しませんでした。
相室(卿大夫の家を管理する者)が敬姜を諫めると、敬姜はこう言いました「孔子は天下の賢人ですが、魯で用いられることなく、退いて去りました。我が子はかねてから孔子を崇拝していましたが、従うことができませんでした。今、我が子に従って内(妻妾)が二人も死にました。これでは我が子が長者に対して薄くし(賢人を疎かにし)、婦人を厚くしていた(厚遇していた)ことになります。」
暫くしてこの事を聞いた孔子は「季氏の婦人も賢人を尊ぶことができる」と言いました。
しかし子路が不快そうな顔をして孔子に言いました「夫子(先生)も人から褒められることを好むのですか?子が死んだのに哭さないのは不慈です。善とみなすことはできないでしょう。」
孔子が言いました「自分の子が賢人に従うことができなかったことを怒ったから、賢人を尊ぶことができると言ったのだ。(子が死んだことに対して悲しまないのは)私には関係ない。賢人を尊ぶ姿を善と評価したまでのことだ。」