春秋時代273 東周敬王(四十二) 越王句践の帰国 前491年(2)

今回は東周敬王二十九年の続きです。
 
[十三] 越王・句践が呉に服従して三年が経ちました東周敬王二十六年・前494年参照)
呉が越王・句践を帰国させました。
 
以下、『国語・越語』の上・下からです。
当時、越王・句践の地は、南は句無、北は禦児、東は鄞、西は姑蔑までで、東西・南北の距離は百里程度しかありませんでした。
句践は越の父母兄弟(民衆)を集めると、こう誓いました「古の賢君は、四方の民が帰順し、その様子は水が自然に下に流れるようだったという。今、寡人にはその能力が無いが、二三子夫婦(汝等の家族)を率いて繁栄させるつもりだ。」
句践は婚姻に関する制度を作りました。壮年の男は老婦を娶ってはならず、老齢の男が壮年の妻を娶ることも禁止します。女子が十七歳になっても結婚しなかったら、その父母が罪を問われ、丈夫(男)が二十歳になっても結婚しなかったら同じようにその父母が罪を問われます。
分娩が近い妊婦は官に報告させ、官は医者を派遣して出産を援けました。丈夫男児が産まれたら酒二壺と一頭の犬が贈られ、女子が産まれたら酒二壺と一匹の豚が贈られ(犬は陽性、豚は陰性とされました)、三つ子が産まれたら国が乳母を手配し、双子が産まれたら国が必要な食糧を支給しました。
当室(嫡子)が死んだ家は三年間、徭役を免除しました。当時の礼では、嫡子が死んだら父は三年の喪に服すことになっていたようです。その他の子が死んだ場合は、三カ月の徭役を免除しました。
句践はこれらの葬儀に自ら参加し、自分の子が死んだ時のように哭泣しました。
孤子(孤児)寡婦、疾疹(親に疾病・障害がある家庭)、貧病(貧困に悩む家庭)は、子を官に入れさせ、国が養いました。
達士(名士)に対しては清潔な館舎を提供し、充分な服食を与え、句践自ら彼等と義(正義。道理)に関する見識を磨きました。
四方から集まった士は必ず廟で接待し、先君に賢士を得たことを報告します。
句践は稻と脂(油)を載せた舟で各地を巡行し、流浪している若者達にそれらを与えて名を記録しました。後に彼等を用いるためです。
句践は自分が植えた食物でなければ食べず、自分の夫人が織った服でなければ着ませんでした。十年間、国民から税を取らなかったため、民に三年分の食糧の蓄えができました。
 
帰国した句践が范蠡に問いました「どうやって節事(政治を改める事)するべきだろうか?」
范蠡が答えました「節事の者は地(大地)に倣うものです。地だけは万物を包容して一つと見なし、時を失うこともありません。地は万物を生み、禽獣を育て、その後、名(功名。名誉)を受けて、万物から生まれる利を得ることができるのです。美悪が共に成り(大地が万物を許容しているため、善い物も悪い物も居場所があり)、人々はそれらによって養われています。時が至っていないようなら、無理に生むことはできません(万物の生育には時の法則があります)。事が極まっていなければ、無理に成すこともできません(物事は極まったら変化します)。地に倣うというのは、居るべき場所に自然な姿でおり、天下を観察し、時機が来たら正し、時宜に応じて安定させることをいいます。国君は男女の功(男女の労動。農耕と織物)を共にし、民の害を廃して、天殃(天災)を除かなければなりません。また、田野を開拓し、府倉(倉庫。貨財を入れる場所は府。穀物を入れる場所は倉を満たし、民衆を栄えさせなければなりません。民衆に(暇)を与えなければ、乱梯(叛乱の階段)は作られません(民が廃業してやることが無くなれば、困窮して叛乱の原因になります)。時(天時)は転換するものであり、事(人事)には間(隙)が生まれるものです。天地の恒制(法則)を把握していれば、天下が築いた利を得ることができます。事に間が無く(呉国に隙がなく)、時に転換の兆しが無い間は、民を按撫し、教えを守らせて機会を待つべきです。
 
句践が范蠡に言いました「不穀(国君の自称)の国家は蠡の国家だ。蠡が政治を図れ。」
范蠡が言いました「四封の内(国境内)で、百姓を治め、時節の三楽(春・夏・秋、三つの季節の労動や遊楽)を管理し、民功(民の労動。農事)を侵さず、天時に逆らわず、五穀を実らせ、民を繁栄させ、君臣上下を満足させるには、蠡は種(文種)に及びません。しかし四封の外(国境外)で、敵国に対する策を練り、事を決断し、陰陽の法則や天地の常に則り、柔らかくても屈することなく、強くても硬くならず、徳虐(徳は賞賜や懐柔。虐は処罰、討伐)を行い、それを常(天の法則)に則らせ、死生を天地の刑(法)に則らせ、天が降す福禍は人が根拠となり、聖人の行動は天象が根拠となり、人の行動によって天地が吉凶の象を表し、聖人は吉凶の象によって事を成し、こうすることで敵を破っても敵は報復できず、土地を取っても取り返されることなく、兵が外で勝利して福が内に生まれ、小さな力を使って名声を明らかにすることができる、こういった方面では、種は蠡に及びません。」
句践は「わかった(諾)」と言って大夫・種に内政を委ねました。
これとほぼ同じ話は以前も紹介しました。
 
資治通鑑外紀』は計然という人物を紹介しています。計然は、外貌は劣っていましたが、博学で、精通していない分野はありませんでした。特に陰陽や暦数に明るく、計謀を得意といました。しかし自ら諸侯の前に現れようとはしませんでした。
 
史記・貨殖列伝(巻百二十九)』に計然の伝があります。
越王・句践は会稽山で困窮してから、范蠡と計然の策を用いました。
史記』の注釈(集解)が計然と范蠡の関係を書いています。計然は葵丘濮上の人で、姓は辛氏、名は研、字は文子といいます。その先祖は晋国から亡命した公子でした。かつて越に南游した時、范蠡が師事しました。
 
計然の教えはこうです「戦闘があると知ったら準備をしなければならない。時に応じて物資を用いることができたら(いつ物資が必要になるかを把握できたら)、物(物資・商品の本質)を知ったということができる(知闘則修備,時用則知物)。この二者(備えることと物を知ること)が明らかになれば、万貨の状況をはっきりと観ることができる。歳星木星(西)に居る時は穰(豊作)となり、水()にいる時は毀(不作)となり、木()にいる時は飢となり、火()にいる時は旱となる。旱になったら舟を蓄え、水(雨季)になったら車を蓄える。これが物の理である。通常は六歳(六年)で穰となり、六歳で旱となり、十二歳で一大飢となる。糶(米の売値)が二十(恐らく二十銭)なら農民が困窮し、九十なら商人が困窮する。商人が困窮したら財が流れず、農民が困窮したら農地が荒廃する。上は八十を越えず、下は三十を下らなければ、農末(農民と商人)共に利を得て、糶(米価)が公平になり、他の物価も安定し、関市の物資が欠乏しなくなる。これは治国の道である。物資の蓄積の道理とは、完物(品質が良い物)を求め、貨幣の流通を停滞させないことだ。物相貿易(物資の売買)では、痛みやすい貨物は留めず、敢えて高値にしてはならず、余剰と不足を観察して、貴賎(物価の高低)を知らなければならない。高値が極まったら安くなり、安値が極まったら高くなるものである。よって高くなったら糞土のように惜しまず売り出し、安くなったら珠玉のように大切に保管する。財幣(物資と貨幣)の流通は水が流れるようでなければならない。」
句践は計然の教えに従って国を治め、十年で国を富ませて、戦士を厚くもてなしました。そのおかげで戦士は争って矢石に立ち向かうようになり、呉に対する報復を成功させ、中国(中原)に武威を示して「五霸」の一人を称することができました。
 
 
 
次回に続きます。