春秋時代274 東周敬王(四十三) 斉景公の死 前490年

今回は東周敬王三十年です。
 
敬王三十年
490年 辛亥
 
[] 春、魯が毗(または「比」)に築城しました。
 
[] 晋が柏人栢人を包囲しました。
荀寅(中行寅。中行文子)と士吉射范吉射范昭子は斉に奔り、趙氏が邯鄲(前年)と柏人を領有することになりました。范氏と中行氏の他の邑は晋公室の管轄下に置かれます。
 
范氏と中行氏を倒した趙氏は権力を拡大しました。『史記・趙世家』は「は名義上は晋だが、実際は晋の政権を専らにしており、封諸侯に匹敵するほどになった」と書いています
 
以下、『春秋左氏伝(哀公五年)』からです。
以前、范氏の臣・王生(または「王勝」)は張柳朔(または「長柳朔」。張柳が氏)を嫌っていましたが、士吉射(昭子)に張柳朔を推挙して柏人の宰にさせました。
士吉射が「汝は彼を讎(敵)としているのではないか?」と問うと、王生はこう答えました「個人的怨みは公に及ばず(私讎不及公)、好きな相手でも過ちを見逃さず(好不廃過)、嫌っても善を排さない(悪不去善)、これが義の経(道理)というものであり、臣には背くことができません。」
范氏が柏人から出奔した時、張柳朔は自分の子にこう言いました「汝は主に従って努力せよ。わしはここに留まって死ぬ。王生がわしに(死節の機会を)与えてくれたのだから、信を失うわけにはいかない。」
張柳朔は柏人で死にました。
 
資治通鑑外紀』はここで『新序』『国語』等から中行氏や趙鞅に関する故事を書いていますが、別の場所で紹介します。
 
[] 夏、斉景公が宋を攻めました。
この時の事が『説苑・尊賢(第八)』に書かれています。
景公が宋を攻撃した時、岐堤(堤防の名?)に登って四方を眺め、深く嘆息して言いました「昔、我が先君の桓公は長轂(兵車)八百乗で諸侯の霸者となった。今、わしは長轂三千乗を擁しているが、ここ(宋の地)に久しく留まることもできない。これは管仲がいないからだろうか。」
これを聞いた弦章が言いました「『水が広ければ魚は大きくなり、主君が英明なら臣下は忠義になる(水広則魚大,君明則臣忠)』といいます。昔は桓公がいたから管仲がいたのです。今も桓公がここに居れば、車の下の臣は全て管仲になるでしょう。」
『説苑』にはありませんが、『資治通鑑外紀』は、弦章の言を聞いた景公が自分の発言に後悔したとしています。
 
[] 以下、斉景公に関する故事を二つ紹介します。
まずは『説苑・君道(第一)』からです。
晏子(晏嬰)が死んで十七年が経ってから、景公が諸大夫と共に酒宴を開きました。景公が矢の腕を披露しましたが、矢は的から外れてしまいます。ところが諸大夫は堂上で「善」と言って喝采しました。
すると景公は顔色を変えて嘆息し、弓矢を投げ捨てました。
ちょうど弦章が入ってきたため、景公が言いました「章よ、わしが晏子を失ってから十七年になるが、わしの過ちに対して『不善』という言葉を聞いたことがない。今、わしが射た矢が的から外れたのに、皆がそろって『善』と称えた。」
弦章が言いました「これは諸臣の不肖です。彼等の知智慧は国君の不善を知ることができず、彼等の勇は国君の顔色を損なうことができません。しかし一つ原因があります。国君が好むものに臣下は従い、国君の好物を臣下も食べるといいます。尺蠖(尺取り虫)は黄色い物を食べたらその身も黄色くなり、青い物を食べたらその身も青くなります。国君にも人に媚びさせる言動があるのではありませんか?」
景公が言いました「今日の言は、章が国(師)であり、わしが臣下(弟子)だ。」
この時、海人(沿海の人。または漁業を管理する官)が魚を献上したため、景公は車五十乗分の魚を弦章に下賜しました。弦章が帰る時、魚を載せた車が道を埋めます。
弦章は車を運ぶ御者の手を取るとこう言いました「先程、口をそろえて国君の『善』を称えた者達は、皆、この魚を欲していた。かつて晏子は賞賜を辞退することで国君の行いを正させたから、過失があっても隠されることがなかった。今、諸臣は阿諛によって利を求めているから、矢が的から外れてもそろって『善』と称えた。私は国君を補佐しているが、大きな功績が無い。それなのに魚を受け取ったら晏子の義に背き、阿諛する者を欲望に迎合させることになってしまう。」
弦章は魚を辞退しました。
君子(知識人)は「弦章の廉潔は晏子の遺訓だ」と言って称えました。
 
孔子家語・辯政(第十四)』からです。
子貢が孔子に問いました「以前、斉君が夫子(先生)に政治について質問した時、夫子は『政治の要は節財にある(政在節財)』と答えました。魯君が質問した時は『政治の要は臣下を理解することにある(政在諭臣)』と答えました。葉公が質問した時は、『政治の要は近くの者を喜ばせて遠くの者を帰順させることにある政在悦近而来遠)』と答えました。三者の問いは同じなのに、なぜ夫子の答えは異なるのですか?政治には違いがあるのですか?」
孔子が言いました「それぞれにやり方があるのだ。斉君が国を治める時は、台榭(楼台)を多数建造し、苑囿で遊び、五官(目耳鼻舌身)伎楽が休むことなく、一朝に千乗の車を賞賜として三家に与えたこともあった。だから『政在節財』と言ったのだ。魯君には三人の臣下(三桓)がいるが、三人は国内で結束してその君をないがしろにし、国外では諸侯の賓客を拒んでその明察を覆っている。だから『政在諭臣』と言ったのだ。荊(楚)は国土が広いが都は狭く、民は離心して居住を安定させていない。だから『政在悦近而来遠』と言ったのだ。三国は状況が異なるから政治も異なって当然だ。『詩』にはこうある『国が乱れて国庫が空になったが、我が民衆を救済しようとしない大雅·板』「喪乱蔑資,曾不恵我師」)。』これは奢侈不節によって国を乱した者を憐れんでいるのである。またこうもある『臣下が職を守らず、王の憂いとなる(『小雅・巧言』「匪其止共,惟王之邛」)』。これは奸臣が主を覆って乱を招いたことを憐れんでいるのである。そしてこうともある『乱離に苦しむ。どこに帰ればいいのだ(『小雅・四月』「乱離瘼矣,奚其適帰」)。』これは民衆が離散して乱を招いた者を憐れんでいるのである。この三者をみれば、政治が必要とすることが同じではないと分かるだろう。」
 
[] 晋の趙鞅が衛を攻めて中牟を包囲しました。衛が范氏を援けたからです。
 
[] かつて斉の燕姫(景公の嫡夫人)太子を産みましたが、成長する前に死にました。
後に諸子(妃妾)の鬻姒(または「芮姫」「芮子」)荼という子を産み、景公の寵愛を受けました。しかし諸大夫は庶子の荼が太子になることに反対していました。『史記・斉太公世家』によると、は年少での身分も低く、行いも正しくなかったため、諸大夫は年長で賢明な公子を後継者に選ぶように望んでいたようです。
 
諸大夫は景公の意志を確かめるため、こう聞きました「国君は歯長(老齢者。景公の在位年数は五十八年になります)ですが、まだ太子がいません。どうするつもりでしょうか。」
景公は諸大夫が荼の即位に反対していることを知っているため、こう答えました「二三子(汝等)がそのように憂虞(憂慮)したら、疾疢(病)を招くだろう。とりあえず楽(快楽)を図ればよい。国君がいないことを憂いる必要はない。」
 
やがて景公が病になりました。景公は国夏(恵子)と高張(昭子)に命じて荼を後継者に立たせます。他の群公子は莱に移されました。
史記・田敬仲完世家』によると、この決定に田乞が不満を持ちました。田乞は景公が産んだ別の陽生と以前から仲が良かったため、陽生を国君に立てる機会を探します
 
秋九月癸酉(二十四日)、景公が在位五十八年で死に、公子・荼が立ちました。国君としての諡号は無く、安孺子(または「晏孺子」)とよばれます。
 
冬十月、公子・嘉(または「寿」)、公子・駒、公子・黔が衛に、公子・鉏(または「」)、公子・陽生が魯に出奔しました。
莱人が公子の行動を見てこう歌いました「景公が死んでも埋葬に参加しない。三軍の謀議にも参加しない。衆人よ、衆人よ、どこに行こうというのだ(景公死乎不與埋,三軍之事乎不與謀。師乎師乎,何党之乎)。」

[] 冬、魯の叔還が斉に行きました。景公の弔問と葬送のためです。
閏月(閏何月かは分かりません)、斉が景公を埋葬しました。
 
[] 鄭の駟秦は富を有して奢侈でしたが、嬖大夫(下大夫)でした。しかし度々卿の車服を庭に並べて自慢していました。
鄭人は駟秦を嫌って殺してしまいました。
子思(子産の子・国参)が言いました「『詩(大雅・仮楽)』にこうある『職位にあって努力を惜しまなければ、民は安寧を得ることができる(不解于位,民之攸。』その位を守らず(越権して)久しく維持できた者は数少ない。『商頌詩経・商頌・殷武)』にもこうある『礼を越えず乱すこともなく、怠惰にもならなければ、天は多福を与えるだろう(不僭不濫,不敢怠皇,命以多福)。』
 
 
 
次回に続きます。