春秋時代 中行氏と趙鞅の故事

東周敬王三十年490年)資治通鑑外紀』が『新序』『国語』等から中行氏や趙鞅に関する故事を書いています。
ここでまとめて紹介します。
 
中行寅が出奔する時の事が『新序・雑事(巻一)』に書かれています。
中行寅が出奔する時、太祝(名は簡)を責めて言いました「子(汝)がわしのために祭祀を行ってきたが、犠牲が充分ではなかったのか?それとも斎戒の内容が不敬だったのか?わしを亡命させることになったのはなぜだ?」
祝簡が答えました「昔、我々の先君・中行穆子(荀呉)は皮車が十乗しかなくてもそれを少ないとして憂いることはなく、徳義が足りないことを憂いたものでした。今、主君は革車百乗を持っていますが、徳義が薄い事を憂いず、車がまだ足りないことを憂いています。舟車の装飾のためには賦税を厚くしなければなりません。賦税を厚くしたら民の怨詛を招きます。主君は祝(福を求める祈祷)が国に勝ると思っているのですか?怨詛は主君の亡命を望んでいます。一人が祝しているのに対して一国が詛したら、一祝は万詛にかないません。亡命するのも当然でしょう。」
中行子は発言を後悔しました。
 
 
次は『韓非子・説林下(第二十三)』からです。
晋の中行文子が出奔した時、県邑(県という邑。県は地名)を通りました。
従者が言いました「ここの嗇夫(地方官)は公の旧知です。なぜここで休んで後続の車を待たないのですか?」
文子が言いました「わしはかつて音楽を好んだ。するとここの者は鳴琴(琴)をわしに贈った。わしが珮を好むと、ここの者は玉環を贈った。これらがわしの過ちを増長させたのだ。わしに阿諛して迎合しようとした者は、わしを利用して他の者の歓心を求めようとするかもしれない。」
文子は去りました。
県邑の者は文子の後続の車を二乗奪って晋君に献上しました。
 
 
『国語・晋語九』からです。
趙簡子(趙鞅)が言いました「范氏と中行氏の良臣を得たいものだ。」
傍に仕えていた史黯太史・墨。趙氏の史)が言いました「彼等を得てどうするつもりですか?」
簡子が言いました「良臣とは誰でも欲するものではないか?汝は何を問うのだ?」
史黯が答えました「臣は彼等が良臣ではないと思っているからです。君に仕える者は、君の過ちを諫め、善を勧め、可を薦めて否を除き、自分の能力を発揮して賢人を推挙し、人材を選んで推薦し、朝夕とも善悪成敗の道理を語って聞かせるものです。文徳を述べ、順(秩序。道理)に基づいて行動し、力を尽くして勤め、命を捧げ、進言が採用されたら仕え、受け入れられなければ退くものです。今、范氏と中行氏の臣はその君を正すことができなかったため難を招きました。君が出奔して国外にいるのに安定させることができず、逆に君を棄てるような者を良臣といえるでしょうか。もし彼等が自分の君を棄てなかったら、主(趙鞅)が彼等を得ることはできません。二子の良臣はその君のために策謀し、国外で再起させ、死ぬまで従うはずです。彼等がどうして来ることができるでしょう。もしもここに来るようなら、それは良臣ではありません。」
簡子は「わかった。わしの言が誤りであった」と言いました。
 
ある日、趙簡子が嘆息して言いました「雀は海に入って蛤となり、雉は淮水に入って蜃となる。黿(大すっぽん)も鼉(鼉龍。鰐の一種)も魚鱉(すっぽん)も変化しないものはない。ただ人だけが変化できないとは、哀しいではないか。」
傍に仕えていた大夫・竇犨が言いました「君子は人がいないことを哀しみ、財貨が無いことを哀しまず、徳が無いことを哀しみ、寵が無いことを哀しまず、美しい名声がないことを哀しみ、長寿ではないことを哀しまないといいます。范氏と中行氏は庶難(国民の難)を顧みず、晋国の政治を専断しようとしましたが、その子孫は斉で田を耕すことになりました。かつては宗廟の犠牲を祭る立場にいたのに(貴族だったのに)、今は畎畝(農地)の勤に従事しています。これが人の変化です。なぜ変化が無いといえるのですか(だから注意が必要です)。」
 
 
『説苑・尊賢(第八)』からです。
子路孔子に問いました「どのように国を治めるべきでしょうか?」
孔子が答えました「賢人を尊び、不肖を蔑むべきだ。」
子路が問いました「范氏と中行氏は賢人を尊び、不肖を蔑みましたが、なぜ亡命することになったのでしょうかましたか?」
孔子が答えました「范氏と中行氏は賢人を尊んだが用いることができず、不肖を蔑んだが除くことができなかった。賢者は自分が用いられないと知って怨み、不肖の者は自分が蔑まれていると知って仇とした。賢者が怨み、不肖の者が仇としたのだ。怨と仇を共に前にしたのだから、范氏と中行氏が亡びたくないと思っても、無理なことだろう。」
 
 
『国語・晋語九』から複数の故事が紹介されているので、列記します。
趙簡子が尹鐸に晋陽を治めるように命じてこう言いました「必ず塁培(城外に造られた営塁の壁)を破壊せよ。わしが見に行った時にまだ塁培があったら、荀寅と范吉射が居るのと同じだ。」
営塁は荀寅と范吉射が趙鞅を包囲した時に造ったものだったため、趙鞅は二度と見たくありませんでした。
ところが晋陽に入った尹鐸は営塁を更に大きくします。
晋陽に来た趙鞅は営塁を見ると怒って言いました「尹鐸を殺してから城内に入る。」
大夫達が諫めても趙鞅は聞き入れず、こう言いました「これはわしの讎(仇)を顕揚してわしを辱めているのだ。」
大夫・郵無正郵良伯楽。伯楽は字)が進み出て言いました「昔、先主の文子(趙武)は幼い時に難に遭い、姫(荘姫)に従って公宮に入りました。その後、孝徳によって公族大夫に抜擢され、恭徳によって卿の位に登り、武徳によって正卿に進み、恩徳によって名誉を成しました。(幼い頃に難に遭ったため)趙氏の典刑(常法)を受け継ぐことなく、師保(貴族に教育を行う官員)を得ることもありませんでしたが、文子自身の修養によって先人の業を回復できたのです(趙氏を復興しました)。景子(趙成。趙武の子。趙鞅の父)も公宮で成長し、師保の教訓を受けることなく後嗣に立ちましたが、自分の身を修めて先人の業を受け継いだので、国内で景子を謗る者はいませんでした。景子は徳によって子を教育し、言を選んで子に教え、師保を選んで子を導かせました。今は吾子(あなた)が位を受け継いでいますが、文子の典刑があり、景子の教訓があり、更に師保がおり、父兄(同宗の年長者)に守られています。それなのに子(あなた)はこれらを全てないがしろにし、今回の難を招きました。尹鐸はこう言っています『楽を想って喜び、難を想って恐れるのは人の道である。塁培を師保にすることができるのなら、なぜそれを増築しないのだ。』塁培を増築することで戒めの鑑となり、趙氏の宗族を安定させることができるのです。もし彼を罰したら善を罰することになり、善を罰したら悪を賞することになります。そのような状態で家臣に望みがあるでしょうか。」
簡子は諫言に喜んで「子(汝)がいなかったらわしは人ではなくなっていた」と言い、尹鐸を賞しました。
 
郵無正は尹鐸と以前から対立していました。今回、鐸は賞賜を伯楽氏郵無正)に贈ってこう言いました(あなた)が私の死を免じさせてくれた。禄(賞賜)を譲らないわけにはいかない。」
しかし郵無正は辞退してこう言いました「私は主のために図ったのです。子(あなた)のためではありません。怨みは怨みです。」
 
 
趙簡子が螻(晋国君の園囿)で狩りをしようとしました。それを聞いた史黯が猟犬を連れて螻の門で待ちます。
簡子が史黯を見て言いました「何をしているのだ?」
史黯が言いました「猟犬を得たのでこの囿で試そうと思ったのです。」
簡子が問いました「なぜ報告しなかったのだ?」
史黯が言いました「主君の行動に臣下が従わないのは不順(礼に背くこと)です(臣下は主君の行動を真似するものです)。今回、主(趙鞅)は螻に向かいましたが、麓(国君の園囿の管理者。ここでは国君)に報告しませんでした。だから臣も当日直日官。趙氏の官署の宿直。ここでは趙鞅)に報告して煩わせることを避けたのです。」
簡子は引き返しました。
 
 
趙鞅の家臣・少室周が車右になりました。ある日、同じく趙鞅の家臣・牛談に勇力があると聞き、少室周が戯角力。力比べ。格闘技の一種)を要求しましたが、負けてしまいました。少室周は車右の職を牛談に譲ります。
簡子はこれを称賛し、少室周を家宰に任命して言いました「賢人を理解して譲ることができるのだから、人を教え導くこともできるはずだ。」
 
 
趙簡子が大夫・荘馳茲(呉出身)に問いました「東方の士で誰が最も優れているか?」
荘馳茲は拝礼して簡子を祝福します。
簡子が問いました「わしの問いに答えていないのに、何を祝福するのだ?」
荘馳茲が言いました「国家が振興する時は、君子は自分が足らないと思い、国家が亡ぶ時は、自分に余りあると思うものです。今、主は晋国の政治を任されながら私のような小人に質問し、しかも賢人を求めました。だから祝福したのです。」
 
 
『説苑・立節(巻四)』からです。
仏肸が中牟県で叛し、禄邑(俸禄・食邑)を設け、炊鼎(料理用の鼎)を置いて宣言しました「わしに協力する者には食邑を与えるが、協力しないものは煮殺す。」
中牟の士は次々に仏肸に従います。
しかし城北の餘(嫡長子以外の子)・田基だけは従わず、衣を捲りあげると鼎に入ろうとして言いました「義者は軒冕(卿大夫の車と冠。転じて官位爵禄)を前にしても義が無ければ受けず、斧鉞(刑具)を後ろにしても義があれば死を避けないものです。」
仏肸は田基を押し留めました。
後に趙簡子が中牟を攻めて攻略し、功績がある者を賞しました。田基が筆頭に選ばれます。しかし田基はこう言いました「廉士(廉潔の士)は人を辱めないという。もし私が中牟の功(褒賞)を受け取ったら、中牟の他の士が終生慙愧することになるだろう。」
田基は母を負ぶって南の楚に遷りました。楚王は田基の義を褒め称えて司馬に任命しました
 
 
『説苑・臣術(巻二)』からです。
趙簡子には尹綽(尹鐸)と赦厥という家臣がいました。
ある日、簡子が言いました「厥はわしを尊重している。衆人の中でわしを諫言することがない。綽はわしを尊重していない。いつも衆人の中でわしを諫言する。」
綽が言いました「厥は君の醜(面子)を重視していますが、君の過(過失)を重視していません。臣は君の過を重視していますが、君の醜を重視していないのです。」
これを聞いた孔子が言いました「君子だ。尹綽は大衆の面前で欠点を述べるだけで美点を褒めようとしない(「面訾不誉」。大衆の前でおもねろうとしない)。」