春秋時代275 東周敬王(四十四) 楚昭王の死 前489年(1)

今回は東周敬王三十一年です。二回に分けます。
 
敬王三十一年
489年 壬子
 
[] 春、魯が邾瑕に城を築きました。
 
[] 晋の趙鞅が鮮虞を攻めました。范氏に協力したためです。
 
[] 呉が陳を攻めました。夫差時代の怨み東周敬王二十六年・前494年参照)を晴らすためです。
陳は楚に急を告げました。
楚昭王が「我が先君は陳と盟を結んだ。援けないわけにはいかない」と言って陳を救うために出兵し、城父に駐軍しました。
 
[] 前年、斉で即位した安孺子・荼は高氏と国氏に擁立されました。
 
当時の斉の陳氏(田氏)は陳乞(田乞。僖子)の代になっています。
陳氏は陳完の後、穉孟夷湣孟荘、須無(田文子無宇(田桓子と継ぎました。田桓子は勇力があり、斉荘公に寵信されました。
史記・田敬仲完世家』は「陳無宇(桓子)が武子・開と釐子(僖子)・乞を生んだ」としており、武子と陳乞は兄弟の関係になっています。武子・開は恐らく東周敬王四年(前516年)に登場した「強啓」を指し、字は子彊です。
しかし『資治通鑑外紀』は「陳乞は武子・強啓の子」としています。
桓子・陳無宇の後、武子・陳開、僖子・陳乞と継承されたようですが、陳開と陳乞の関係ははっきりしません。
陳乞は斉景公の時代に大夫になりました。
 
以下、『春秋左氏伝哀公六年)』からです。
陳乞は高氏と国氏に仕えるふりをし、毎回、上朝(朝廷に出勤すること)する時には、必ず高氏や国氏の車に同乗しました。また、しばしば諸大夫についてこう話しました「彼等は皆、偃蹇(驕慢横柄)で、子(あなた)の命に背こうとしています。彼等はこう言っています『高氏と国氏は国君を得て(国君を擁立して政権を掌握し)、我々を逼迫している。彼等を除くべきだ。』彼等は子(あなた)に対して計謀を用いようとしています。子は早く対策を考えるべきです。よく考えて、彼等を滅ぼすべきです。待つのは下策です(『史記・田敬仲世家』では、陳乞はこう言っています「以前、諸大夫孺子の即位に反対していましたしかし今、孺子が即位して二氏がになったので、大夫、危険を感じて乱を成そうとしています」)。」
 
朝廷に入ると陳乞は二氏にこう言いました「彼等(大夫達)は虎狼と同じです。私が子(高氏と国氏)の傍にいたら、いずれ私が殺されます。彼等の近くに居させてください。」
高氏と国氏は卿なので、朝廷では諸大夫と異なる場所にいます。陳乞が二氏に従って卿の場所にいたら諸大夫の反感を招くので、二人から離れて諸大夫の位置に戻りました。
 
場所を変えた陳乞は諸大夫にこう言いました「二子(高氏と国氏)が禍をもたらそうとしている。国君を得たことに頼って二三子(諸大夫)を除こうと考えており、こう言っている『国が多難なのは貴寵がいるからだ(景公に寵信されていた大夫が存在するからだ)。彼等を全て除けば、国君を安定させることができる。』彼等の計画は既に完成している。彼等が動く前に先手を打たなければ、後悔しても手遅れになるだろう。」
諸大夫は陳乞の言葉を信じました。
 
夏六月戊辰(二十三日)、陳乞、鮑牧(鮑国の孫)および諸大夫が甲冑を身につけて公宮に入りました。
それを聞いた高張(昭子)は国夏(恵子)と同じ車に乗って斉君・安孺子に会いに行き、荘(斉都・臨淄城内の大街)で諸大夫と戦いました。しかし高氏と国氏が敗れます。
国人が追撃したため、国夏は莒へ奔りましたが、後に高張、晏圉(晏嬰の子)、弦施と共に魯へ亡命しました。
 
以上は『春秋左氏伝(哀公六年)』の記述です。『史記』の『斉太公世家』『田敬仲完世家』では、この時、田乞が国恵(国夏)を追撃し、恵に奔ったため、引き返して高昭子(高張)を殺したとしています。
 
この事件で生き残った高氏と国氏も権力を失い、陳氏が斉で専横するようになりました。
 
[] 魯の叔還が呉地。かつては楚地)で呉と会しました。
 
[] 秋七月、楚昭王は城父におり、陳を援けようとしていました。しかし卜をすると「不吉」と出ます。撤兵を卜っても「不吉」と出ました。
昭王が言いました「いずれにしても死ぬしかない。再び楚師を敗北させるくらいなら(一度目の敗北は東周敬王十四年・前506年の柏挙の役です)、死んだ方がましだ。しかし盟を棄てて(陳を援けず)、讎(呉)から逃げることと較べても、死んだ方がましだ。同じように死ぬのなら、讎との戦いによって死んだ方がいい。」
昭王は公子・申(子西)に王位を継承させようとしましたが、公子・申は辞退しました。そこで公子・結(子期)に継承させようとしましたが、公子・結も辞退します。最後は公子・啓(子閭)に継承を命じ、公子・啓は五回辞退してからやっと同意しました。
子西、子期、子閭とも平王の子で昭王の兄弟です。
 
呉軍と戦う前に、昭王は病に倒れました
庚寅(十六日),昭王が大冥(地名)への攻撃を開始しましたが、城父で死にました。在位年数は二十七年です。
昭王は太子だった時、「壬」という名でしたが、即位してから「軫(または「珍」)」に改名したようです。
 
子閭が言いました「君王は自分の子を棄てて王位を譲った。群臣は国君を忘れてはならない。国君の命に従うのは順だが、国君の子を立てるのも順だ。二つの順は失うべきではない。」
子閭は子西、子期と相談し、秘かに撤兵することにしました。まず呉から楚に通じる道を封鎖し、越女(越王・句践の娘。楚昭王の妻妾)が産んだ子・章(熊章)を迎えて国王に立てます。王位が安定してから兵を還しました。
 
この年(昭王生前の事です)、赤い鳥が集まったような雲が現れ、太陽を挟んで三日間飛びました。
昭王は人を送って周の大史(太史)に意見を求めます。楊伯峻の『春秋左伝注』によると、この時、昭王は城父におり、楚都よりも成周の方が近かったため、周に使者を送ったようです。
周大史が言いました「恐らく王の身に何かが起きるでしょう。しかし禜(お払いの儀式)を行えば、令尹や司馬の身に移すことができます。」
昭王が言いました「腹心の疾(病)を除いて股肱(四肢)に移したとして、何の益があるのだ?不穀(国君の自称)大過が無ければ、天が夭折させることはない。逆にもし罪があるのなら、罰を受けるべきだ。咎を移すことはできない。」
昭王は禜を行いませんでした。
 
昭王が病になった時、卜人が言いました「河黄河の祟りです。」
しかし昭王は黄河の祭祀を行いませんでした。大夫が郊外で黄河の神を祭るように勧めましたが、昭王はこう言いました「三代(夏・商・周)が祀を命じ(祭祀の制度を作り)、祭は望を越えない(祭祀は本国の山川を越えない)と決めた。江(長江)・漢・雎・漳が楚の望(祭祀の対象)である。禍福が至る範囲もこれを越えることはない。不穀は不徳だが、河黄河の罪を得ることはない。」
昭王は祭祀を行いませんでした。
 
これを聞いた孔子は「楚昭王は大道を理解している。国を失わなかった(復国できた)のも当然だろう」と評価しました。
 
以上は『春秋左氏伝(哀公六年)』の記述を元にしました。『史記・楚世家』にも昭王の死は詳しく書かれています。『春秋左氏伝』と部分的に重複しますが、『楚世家』の内容も紹介します。
楚昭王二十七年春、呉が陳を攻めたため、昭王が陳を援け、城父に駐軍しました。
十月、昭王が軍中で病に倒れました。
鳥のような赤い雲が現れ、日を挟んで飛ぶという怪事があったため、昭王が周太史に問うと、太史はこう言いました「これは楚王を害そうとしているのです。しかし害を将相に移すこともできます。」
それを聞いた将相は自ら犠牲になろうとして神に祈祷しました。
しかし昭王はこう言いました「将相は孤(国君の自称)の股肱である。禍を股肱に移したところで、我が身から病を除くことはできない。」
昭王は太史の言を無視しました。
卜いを行うと「河黄河の祟」と出ました。
大夫が黄河の祈祷をするように進言しましたが、昭王はこう言って拒否しました「わしの先王が封を受けてから、望は江(長江)と漢漢水を越えたことがない。河の罪を得るはずがない。」
孔子はこれを陳で聞いて言いました「楚昭王は大道に通じている。その国を失わなかったのも当然だ。」
 
昭王の病が重くなったため、諸公子と大夫を集めて言いました「孤は不佞(不才)なため、楚国の師を再び辱めてしまったが、今、天寿を終えることができるのは、孤の幸である。」
昭王が弟の公子・申に王位を譲ろうとしましたが、公子・申は拒否しました。
次弟の公子・結に譲ろうとしても拒否されます。更に弟の公子・閭に位を譲ろうとし、公子・閭は五回辞退してからやっと同意しました。
陳との戦いを始めようとした庚寅(十六日)昭王が軍中で死にました。
子閭が言いました「王は病いが重くなった時、自分の子を棄てて群臣に王位を譲った。臣が王に同意したのは、王意を容認して安心させるためだ。今、君王は既に卒した。臣には君王の意(好意)を忘れることができない。」
子閭は子西、子綦(子期)と相談し、秘かに兵を動かして道を塞ぎ、越女が産んだ章を即位させました。これを恵王といいます。
その後、兵を還して昭王を埋葬しました。
 
史記・陳杞世家』によると、呉軍も引き上げたようです。
尚、『陳杞世家』はこの年、孔子が陳にいたとしていますが、『史記』の注(索隠)はこれを誤りとしています。
 
資治通鑑外紀』はここで楚昭王時代の故事を紹介していますが、別の場所で書きます。
 
 

次回に続きます。