春秋時代 楚昭王時代の故事 石渚と貞姜

東周敬王三十一年489年)に楚昭王が死にました。
資治通鑑外紀』が楚昭王時代の故事を書いているので、ここで紹介します。
 
まずは『呂氏春秋・離俗覧・高義(第七)』からです。
(楚)昭王の時代、石渚という士がいました。石渚は公直無私な人物だったため、昭王が政治に参与させました。
ある日、道で人を殺した者がいたため、石渚が後を追いました。追いついて犯人を確認すると、自分の父親です。石渚は車の向きを変えて戻り、朝廷に立って言いました「人を殺したのは僕(従者。家臣。ここでは私の意味)の父でした。父に対して法を行うのは忍びありません。しかし、罪人におもねったら国法を廃すことになります。そのようなことがあってはなりません。また、法を失ったら罪(刑)に伏すのが人臣の義です(犯人は父だったので捕えることができませんでした。しかしこれでは国法を廃すことになり、法を廃したら刑に伏さなければなりません)。」
石渚は刑具の上に伏せて昭王に死を請いました。
昭王が言いました「追いかけても追いつけなかったのなら、罪に伏す必要はない。子(汝)は職に戻れ。」
しかし石渚は辞退して言いました「自分の親を愛すことができなかったら孝子とはいえません。国君に仕えながら法を曲げたら忠臣とはいえません。君令によって罪を赦すのは国君の恩恵です。敢えて法を廃すことができないのは臣下の行(徳行。品行)です。」
石渚は朝廷で首を切って死にました。
 
 
『列女伝・貞順伝(巻之四)』から昭王夫人の故事です。
姜は斉侯の娘で、楚昭王の夫人です。
昭王が外游した時、夫人を漸台に置いて昭王だけで出発しました。しかし暫くして江水(長江)が溢れたと知り、使者を送って夫人を迎えに行かせました。
ところが使者は王の符節を忘れてしまいます。
使者が漸台に到着して夫人を招くと、夫人はこう言いました「かつて王が宮人(宮女。姫妾)に令を発しました。宮人は符節がなければ動いてはなりません。今、使者は符節を持っていないので、妾(私)が使者に同行するわけにはいきません。」
使者が言いました「大水が迫っています。符節を取るために戻っていたら、恐らく間に合いません。」
夫人が言いました「貞女の義とは約(規則)を犯さないことにあり、勇者は死を恐れず、一つの節を守るだけだと言います。使者に従えば助かり、留まれば死ぬと分かっていますが、約を棄て、義を損なってまで生を求めるくらいなら、留まって死ぬまでです。」
使者は符節を取りに帰りましたが、水大が来て漸台が崩れ、夫人は流されて死にました。
昭王が言いました「ああ、(夫人は)義を守って節のために死に、生を貪ろうとせず、約を守って信を保ち、貞を成すことができた。」
夫人は貞姜と号され、君子(知識人)は「貞姜には婦節(女性が守るべき節義)があった」と言って称賛しました。