春秋時代276 東周敬王(四十五) 斉悼公即位 前489年(2)

今回は東周敬王三十一年の続きです。
 
[] 八月、斉の邴意茲(高氏・国氏の党)が魯に出奔しました。
 
[] 斉の陳乞が使者を送って魯に出奔した公子・陽生(前年参照)を招きました。陽生は車を準備してから南郭且于(斉の公子・鉏。魯の南郭にいます)に会って言いました「以前、季孫に馬を献上しましたが、上乗(上等の馬)には入れられませんでした。そこで改めて献上するために馬を用意しました。子(あなた)と同乗して馬を試したいと思います。」
陽生は自分が招かれたことを公子・鉏に伝えようとしましたが、家人に聞かれるのを恐れたので、馬を試すことを口実にして外に連れ出しました。
萊門(魯の郭門)まで来てから、陽生が公子・鉏に斉から迎えが来たことを話しました。
 
陽生の家臣・闞止は斉から使者が来たと知り、先に帰国の準備をして家の外で陽生を待ちました。
しかし陽生は闞止にこう言いました「事がどうなるかはまだわからない(陽生はなぜ自分が斉に招かれたのかわからないため警戒しています)。汝は壬(陽生の子)と共に残れ。」
陽生は闞止に訓戒の言葉を残して斉に向かいました。
 
陽生は国人に知られないために、夜の間に斉に入りましたが、国人は陽生の帰国を知りました。陳氏が人心を得ており、その考えが既に浸透していたためです。
陳乞は陽生を自分の家に置き、子士の母(陳乞の妾。子士は田常)に陽生の世話をさせました。その後、饋者(食事を準備する者)と一緒に陽生を公宮に入れました。
 
冬十月丁卯(二十四日)、陽生が即位しました。これを悼公といいます。
田乞が相となり、斉の政治を行うようになりました。
 
悼公が諸大夫と盟を結ぶことにしました。鮑牧が酔って盟に参加します。
鮑牧の臣である差車(車を管理する官)・鮑点が問いました「これ(国君の廃立と盟を結ぶこと)は誰の命ですか?」
陳乞が答えました「鮑子(鮑牧)の命を受けたのだ。」
陳乞は鮑牧が酔っているのを見て、国君廃立の責任を鮑牧に押しつけようとしています。そこで更に鮑牧に向かって「子(汝)の命だ」と言いました。
すると鮑牧は正常な様子に戻って言いました「汝は国君(景公)が孺子(安孺子)のために牛になり、歯を折ったことを忘れたか(景公は荼を寵愛していたため、牛の真似をして歯を折ったこともあったようです)?先君に逆らうのか!」
悼公が稽首して言いました「吾子(あなた)は義によって事を行っている。もし私に問題がないとしても、一大夫(鮑牧)を失う必要はない(悼公の即位に反対した鮑牧の罪を責めて殺してはならない)。もし私に問題があるとしても、一公子(陽生自身)を失う必要はない。義に則っているなら進み、違えているなら退くだけだ。子の決定に従わないはずがない。しかし、廃興(廃立。安孺子の廃位と悼公の即位)によって乱を生まないことが、私の願いだ。」
鮑牧は「誰が先君の子ではないというのでしょう(どちらも先君の子には違いありません)」と言って盟を受け入れました。『史記』の『斉太公世家』『田敬仲完世家』は、「鮑牧は禍を恐れた」としています。
 
悼公は胡姫(景公の妾。姫姓・胡国の女)安孺子を預けて頼の地に送り、鬻姒(安孺子の母)を別の場所に置きました。
また、王甲を殺し、江説を捕え、王豹を句瀆の丘に幽閉しました。三人とも景公の寵臣で、安孺子の党です。
 
悼公が大夫・朱毛を送って陳乞にこう伝えました「子(あなた)がいなかったら、この地位に立つことはできなかった。しかし国君は器物と異なり、二つが共存することはできない。器物は二つあれば困窮しないが、国君は二人いたら多難になる。あえてこれを諸大夫(主に陳乞)に告げる。」
国君に相当する権力を持つ陳乞を牽制する発言です。
陳乞は回答せず、泣いて言いました「国君は全ての群臣を疑うのでしょうか。斉国は困難な状況にあり、困難は憂患を生みました。しかし少君(幼君。安孺子)では意見を伺うことができないので、長君を求めたのです。群臣(主に陳乞)の選択は容認できることでしょう。そうでなければ、孺子に何の罪があったというのでしょうか。」
朱毛が帰ってこの言葉を伝えると、悼公は発言を後悔しました。朱毛がこう言いました「国君は、大事(国政)に関しては陳子に意見を伺い、小事(安孺子の殺害)だけを考えていればいいでしょう。」
悼公は朱毛に命じて安孺子を駘に移させ、到着する前に野外の幔幕の下で殺させました。
安孺子は殳冒淳(斉の地名)に埋葬されました。
 
以上は『春秋左氏伝(哀公六年)』を元にしました。『春秋公羊伝(哀公六年)』の記述は少し異なります(『史記』の『斉太公世家』『田敬仲完世家』は『公羊伝』に従っています)
かつて景公が陳乞に問いました「わしは舍(荼)を後嗣に立てようと思うがどうだ?」
陳乞が答えました「国君として楽しめる者は、立てたい者を立て、立てたくない者は立てないものです。国君が立てたいと思うのなら、臣もそれが立つことを願います。」
これを聞いた陽生が陳乞に言いました「子(あなた)は私が後嗣に立つことを望んでいないと聞いた。」
陳乞が言いました「千乗の主(諸侯。国君)が正(嫡子)を廃して不正庶子。少子)を立てる時は、必ず正を殺すものです。私が子(あなた)を擁立しなかったのは、子を生かすためです。ここから去るべきです。」
陳乞は陽生に玉節を渡して斉から去らせました。
やがて、景公が死んで舍が即位しました。
陳乞は人を送って陽生を自分の家に迎え入れます。
景公の喪が明けたある日(『史記・斉太公世家』では十月戊子。ただし、この年の十月に戊子の日はないはずです)、諸大夫が朝廷に集まったところで陳乞が言いました「常(陳乞の子・田常)の母(陳乞の妻)が魚菽の祭(魚や豆を供える祭祀)を行うので、諸大夫にも祝ってほしい。」
諸大夫は同意して陳乞の家に行きました。
そこで陳乞が言いました「立派な甲(甲冑)があるので披露したい。」
諸大夫が同意したので、陳乞は力士に命じて巨囊(大きな袋)を部屋の中央まで運ばせました。力士の怪力を見た諸大夫は顔色を変えて驚きます。
巨囊が開けられると、中から公子・陽生が現れました。
陳乞が言いました「これが国君である!」
諸大夫はやむなく北面し(臣下の場所に移動し)、再拝稽首して陽生を国君に立てました。
その後、陳乞は舍を殺しました
 
[] 冬、魯の仲孫何忌が邾を攻撃しました。
 
[] 宋の向巣が曹を攻撃しました。
 
[十一] 『資治通鑑前編』によると、この年、孔子の弟子・顔回が死にました。
孔子家語・七十二弟子解』には「顔回は二十九歳で髪が全て白くなり、三十一歳で早死にした」とあります。
史記・仲尼弟子列伝(巻六十七)』にも「顔回は二十九歳で髪が全て白くなり、早死にした」とあり、その後に孔子の評価が書かれています。
顔回は非常に優秀な弟子だったため、顔回が死んだ時、孔子は慟哭して「回顔回が来てから門人がますます親しくなれた」と言いました。
また、後に魯定公が「弟子の中で誰が最も好学か?」と問うと、孔子は「顔回という者が好学で、怒りを他の人に移すことがなく、同じ過ちを繰り返すこともありませんでした。しかし不幸にも短命でした。今、彼のような者はいません」と答えました。
 
 
 
次回に続きます。