春秋時代277 東周敬王(四十六) 鄫の会 前488年

今回は東周敬王三十二年です。
 
敬王三十二年
488年 癸丑
 
[] 春、宋の皇瑗が鄭を侵しました。鄭が晋に背いたためです。
 
[] 晋の魏曼多が衛を侵しました。衛が晋に服従しなかったためです。
 
[] 夏、魯哀公が(または「繒」)で呉と会しました
呉が魯に百牢(牛・羊・豚各百頭)を要求しました。
魯の子服何(景伯)が言いました「先王の時には、そのような事はありませんでした。」
呉人が言いました「宋は我が国に百牢を贈った。魯が宋に劣ってはならない。しかも魯は晋の大夫をもてなすのにも十牢を越えた。呉王に対して百牢を使っても、問題ないはずだ。」
子服何が言いました「晋の范鞅は貪欲で礼を棄てており、大国の威によって敝邑を脅かしたので、敝邑は十一牢を使いました(東周景王二十四年・前521年)。貴君がもし礼によって諸侯に命を発するのなら、決められた数があります(上公九牢・侯伯七牢・子男五牢)。もし貴君も礼を棄てるのなら、淫者(度を越えた者)となります。周が王となって礼を制定してから、上物(上等の物。天子が諸侯をもてなす時の礼数・十二牢等)は十二を越えませんでした。これは天の大数だからです。それでも周礼を棄てて百牢を求めるのなら、執事(呉の執政者)の命を聞くしかありません。」
呉はやはり百牢を要求しました。
子服何は「呉はもうすぐ亡びるだろう。天を棄てて本に背いている。しかし与えなければ我が国に害を与えるだろう」と言って百牢を贈りました。
 
以上は『春秋左氏伝(哀公七年)』の記述です。この出来事は、『史記』の『魯周公世家』と『十二諸侯年表』も本年に書いていますが。『呉太伯世家』は東周敬王三十五年(前485年)の事としています
また、『史記(呉世家・魯世家・年表)』では、魯は呉に百牢を贈っていません。『魯周公世家』には「季康子が子貢を派遣し、礼によって呉王と太宰嚭を説得したため、呉王が『わしは文身(体に刺青をすること。異民族の風習)だ。礼によって責めるには足りない』と言って百牢をあきらめた」と書かれています東周敬王三十五年・前485年に『呉太伯世家』の記述を紹介します)
 
呉の大宰(太宰)・伯嚭が魯の季孫肥(季康子)を招きましたが、季孫肥は子貢を送って辞退しました。
伯嚭が問いました「国君の道は長いのに(国君は遠くまで外出したのに)、大夫が門を出ないのは何の礼ですか?」
季孫肥が答えました「これは礼ではありません。大国を恐れただけです(大国を恐れたから国君自ら国を出て会に参加したのです)。大国が礼を用いず諸侯に命じていますが、大国が礼を用いなかったら、小国にはその結果を測り知ることができません。そのため寡君が(大国を恐れて)既に命を受けました。老臣が国を棄てることができるでしょうか(国君が自ら会に参加したので、臣下は国を守らなければなりません)。大伯(太伯。呉の祖)は端委(玄端の衣と委貌の冠。周の衣冠)を身につけて周礼を守りましたが、仲雍が継いでからは断髪・文身(刺青)し、裸の身体に装飾をつけました(仲雍は周礼を棄てて呉の風俗に従いました)。このどこに礼があるのでしょう。全ての事に理由があるから現在の状態があるのです。」
哀公はから帰国後、礼を棄てた呉は大事を成せず、覇業を成就することもできないと判断しました。
 
[] 魯の季孫肥が邾を討伐しようとし、大夫を饗(享。宴の一種)に招いて相談しました。邾は呉に服従しています。
子服何が言いました「小国が大国に仕えるのは、信があるからです。大国が小国を守るのは、仁があるからです。大国に背くのは不信であり(邾を攻めれば呉に背くことになります)、小国を攻めるのは不仁です。民は城によって守られ、城は徳によって守られています。二徳(信と徳)を棄てたら危険を招きます。これでどうして守ることができるでしょう。」
主戦派の仲孫何忌(孟孫)が諸大夫に対して言いました「二三子(汝等)はどう思う?賢策を受け入れよう。」
諸大夫が言いました「禹が塗山に諸侯を集めた時、玉帛を持って来た国は万国もありました。しかし今でも存続している国は数十もありません。これは大国が小国を守らず、小国が大国に仕えなかったからです。危険を知りながらなぜそれを言わないのでしょう。魯の徳は邾と同等なのに、大衆によって圧力を加えるのが正しい事でしょうか?」
季孫肥も仲孫何忌も不快なまま享宴を解散させました。
 
秋、魯哀公が邾を攻撃しました。魯軍が范門(邾の郭門)に来た時、まだ鐘声(音楽)が聞こえました。
『春秋左氏伝(哀公七年)』はここで、「大夫が諫めても諫言を聞かなかった(大夫諫,不聴)」と書いています。楊伯峻の『春秋左伝注』によると、二つの解釈ができます。一つは魯の大夫が無防備な邾への攻撃を止めるように諫言したのに、季孫肥が拒否したという説、もう一つは邾の大夫が国君・隠公に音楽を止めて戦の準備をするように進言したのに、隠公が聞き入れなかったという説です。
 
邾の大夫・茅夷鴻(茅成子)が呉に援軍を求めようとしましたが、隠公は拒否してこう言いました「魯の柝(竹や木の打楽器)の音がここにも聞こえている(魯軍が間近にいる)。邾と呉は二千里も離れているので、三カ月以上待たなければ援軍は到着しない。我々を援けるのは無理だ。そもそも国内の備えでは足りないのか?」
茅夷鴻は邾都から離れると茅の地で兵を起こしました。
 
八月己酉(十一日)魯軍が邾都に入り、公宮に駐軍しました。各軍が日中に略奪を行います。
邾の人々は繹を守りました。
夜、魯軍が繹を攻めて略奪し、邾子・益(隠公)を連れて帰国しました。
邾隠公は魯の亳社に献上され、負瑕(地名)に幽閉されました。
 
茅夷鴻は束帛(五匹の帛をまとめた物)と乗韋(四枚の牛皮)を持って呉に入り、援軍を求めて言いました「晋が弱くなり呉も遠いため、魯は多勢に頼って貴君の盟に背き、貴君の執事(執政官)を軽視し、我が小国を虐げました。邾は自国を愛するのではなく、貴君の威信が立たなくなることを畏れます。貴国の威信が立たないのは、小国の憂いです。夏にで盟しながら秋にそれに背き、求めた物が全て満足できるのだとしたら、四方の諸侯はどうして貴君に仕えることができるでしょう。本来、魯の賦(軍賦。兵力)八百乗は貴君の貳(助手)であり、邾の賦六百乗は貴君の私(私属。部下)です。私(邾国)を貳(魯国)に送ることを(邾も魯も呉の下に居るのに、邾が魯に併合されることを)、貴君はよくお考えください。」
呉王・夫差は納得しました
 
[] 宋が曹を包囲しました。
鄭の桓・子思(子産の子・国参。桓は諡号が言いました「宋人が曹を有したら鄭の患いとなる。援けなければならない。」
 
冬、鄭の駟弘(子般)が曹を援けました。
 
以前(『史記・管蔡世家』では曹伯陽三年。東周敬王二十一年・前499年)、ある曹人が夢を見ました。複数の君子が社宮(社は曹の国社。宮は社の壁)に立ち、曹滅亡について相談しています。曹叔振鐸(曹国の祖)が君子達に「公孫彊まで待ってほしい」と訴えると、君子達は同意しました。
翌朝、男が公孫彊という人物を探しましたが、曹国にはいませんでした。そこで自分の子にこう言いました「私が死んでから、もし公孫彊という者が政治をするようになったと聞いたら、必ず国を去れ。」
 
曹伯陽が即位すると、田弋(狩猟。鳥の狩り)を好みました。
曹の鄙人(辺境の人)・公孫彊も弋(鳥の狩り)を愛したため、白雁を捕まえて曹伯陽に献上し、田弋の技巧について語りました。喜んだ曹伯陽は公孫彊を気に入って政事についても意見を求め、ますます寵信するようになりました。曹伯陽は司城として政治を行うようになります。
夢を見た男の子供は曹国から去りました。
 
公孫彊は覇者になるための策略を曹伯陽に語り、曹伯陽はそれを信じました。そこで曹は晋に背き、宋を侵すようになりました。
この年、宋が曹を攻撃しましたが、晋は援軍を出しませんでした。
公孫彊は国都の郊外に五邑を築きました。黍丘・揖丘・大城・鍾・邘といいます。
 
 
 
次回に続きます。