春秋時代278 東周敬王(四十七) 魯・呉、魯・斉の関係 前487年

今回は東周敬王三十三年です。
 
敬王三十三年
487年 甲寅
 
[] 春正月、前年から曹を攻撃していた宋景公が兵を還そうとしました。大夫・褚師子肥が殿しんがりになります。しかし曹人が宋軍を罵ったため、殿が撤兵を止めました。先を進んでいた全軍が褚師子肥を待ちます。
宋景公は殿軍が罵られて撤兵を中止したと聞き、怒って兵を曹国に還しました。
曹国は滅ぼされ、曹伯(曹伯陽)と司城・公孫彊は宋に連れて行かれて殺されます。伯陽の在位年数は十五年になります。
こうして曹国は祭祀が途絶えました。
 
[] 呉王・夫差が(『史記・魯周公世家』では「」)のために魯を攻めようとし、叔孫輒(子張)に意見を求めました。叔孫輒は公山不狃子洩)と共に東周敬王二十二年(前498年)に魯から斉に出奔しましたが、その後、呉に移ったようです。
叔孫輒が言いました「魯は名があるだけで情(実)がありません。討伐すれば必ず志を得ることができます。」
叔孫輒は退出してからこの事を公山不狃に話しました。すると公山不狃はこう言いました「非礼です。君子は自国を離れても、讎国(敵国)には行かないものです(呉が魯を攻めたら呉が讎国になってしまいます)(魯国において)臣の職責を尽くさず、逆に魯を討伐して敵国のために尽くすのは、死に値することです。このような事を頼まれたら(命じられたら)姿を隠すべきです。たとえ自分の国を去っても、悪(憎しみ)によって郷土を棄てはなりません。しかし今、(あなた)は小悪(小さな怨み)によって宗国(祖国)を覆そうとしています。これは難(相応しくない事。過ち)ではありませんか?もし子が師を率いるように命じられたら、子は辞退するべきです。そうすれば、王は私に師を率いさせるでしょう。」
叔孫輒は自分の発言を後悔しました。
 
夫差が公山不狃に意見を聞くと、公山不狃はこう答えました「魯は、普段は頼りとする国がありませんが、共に滅ぶことができる国はあります(緊急の時に協力して外敵と戦う国はあります)。諸侯が魯を援けるので、王が志を得ることはできません。晋と斉、楚が援けるはずなので、我が国は四讎(四つの敵国)を相手にすることになります。魯は斉と晋の唇です。唇が滅んだら歯が寒くなること(唇亡歯寒)は国君も知っているでしょう。(斉、晋が)魯を援けないはずがありません。」
夫差はこの意見を聞き入れませんでした。
 
三月、呉が魯を攻撃しました。公山不狃が軍を指揮します。公山不狃はわざと険しい道を選んで進軍し、武城を経由しました。
 
以前から武城の人(魯人)が呉の国境で農耕をしていました。
ある日、人が菅草を川に浸けました。管草は水に浸けてから皮が剥かれ、縄や草鞋の材料になります。
すると武城の人が「なぜ私の水を汚すのだ」と言って人を捕えてしまいました。
呉軍が武城に来ると、捕まっていた人が呉軍を導きました。武城は呉軍に占領されます。
 
呉の大夫・王犯はかつて魯に仕えて武城の宰を勤めており、澹台子羽(武城人。孔子の弟子)の父と交流がありました。魯の国人は人が呉軍に協力したことを知らないため、王犯や澹台子羽が呉軍を先導して武城を攻略したと思いました。魯国に内応者がいるとしたら呉軍の勢いは止まりません。魯人は呉の侵攻を恐れました。
仲孫何忌(孟懿子)が子服何(景伯)に問いました「どうすればいいだろう?」
子服何が答えました「呉師が来たら彼等と戦うだけです。何を心配しているのですか。そもそも、彼等を招いたのは我が国です。これ以上、何を望むのですか?」
 
呉軍が東陽を攻略して進軍を続け、五梧に駐軍しました。
翌日、蠶室に入ります。
魯の公賓庚と公甲叔子(公賓と公甲が姓)が夷で呉軍と戦いましたが、公甲叔子が戦死し、同じ車に乗っていた析朱鉏も殺されました。二人の死体が呉王・夫差に献上されます。
夫差が言いました「彼等は同じ車に乗っていた。(同じ車の者が共に死ぬことができるのだから)魯国は優秀な人材を使うことができるはずだ。まだその国を望む時ではない。」
夫差は同じ車の上で共に戦死した二人の義を称賛し、魯には優れた人材がいると判断したため、併呑をあきらめました。
 
翌日、呉軍は庚宗に駐軍し、その後、泗水沿岸に遷りました。
 
魯の大夫・微虎が呉王の陣を夜襲しようとしました。私属の徒七百人に命じて幕庭(帷幕の外)で三回跳びはねさせます。跳躍に優れた勇士三百人が夜襲部隊に選ばれました。その中には有若孔子の弟子)もいました。
三百人が稷門の中まで来た時、ある人が季孫肥に言いました「そのような事をしても呉を害すことはできず、逆に多くの国士を死なせるだけです。中止するべきです。」
季孫肥は夜襲を中止させました。
魯の状況を聞いた呉王・夫差は微虎を恐れて一晩に三回駐留地を変えました。
 
呉が魯に講和を求めました。
両国が盟を結ぶ前に、子服何が言いました「かつて楚人が宋を包囲した時(東周定王十三年・前594年)、宋人は困窮しても城下の盟を結びませんでした。我が国はまだ当時の宋の状況には至っていません。それなのに城下の盟を結ぶのは、国を棄てることになります。呉は軽率で本国から遠く離れているので長くはありません。もうすぐ帰るはずです。暫く待つべきです。」
季孫肥は従いませんでした。
 
子服何は載書(盟書)を背負って萊門(魯の郭門)に行きました。本来、盟書は盟主が準備するものなので、今回は呉が書くはずです。子服何がそれを持って盟に参加したというのは、呉に降伏するための盟(城下の盟)ではないことを示します。
魯は子服何を人質として呉に送ろうとしました。呉はこれに同意します。そこで魯は交換条件として呉の王子・姑曹を人質にすることを求めました。これには呉が反対したため、結局、魯も人質を送らないことになりました。
呉軍は魯と盟を結んで還りました。
 
[] 斉悼公が魯に出奔した時東周敬王三十年・前490年)季孫肥が妹を嫁がせることを約束しました。
即位した悼公は妻を迎え入れようとします。
ところが季孫肥の妹は季魴侯(季孫肥の叔父)と姦通していました。娘がこの事を話したため、季孫肥は娘を嫁がせられなくなりました。
 
夏五月、斉悼公が怒って鮑牧に魯を攻撃させ、讙と闡(または「僤」)を取りました。
 
以上は『春秋左氏伝(哀公八年)』の記述です。
史記』の『斉太公世家』は斉悼公元年の事としていますが、二年の誤りです。
また、『魯周公世家』は斉が魯の三邑を取ったとしています。
 
[] 斉のある人が胡姫(景公の妾。東周敬王三十一年・前489年参照)を讒言して「安孺子の党です」と言いました。
六月、斉悼公が胡姫を殺しました。
 
[] 斉悼公が呉に出兵を請い、魯を攻撃しようとしました。
魯は呉の出兵を抑えるため、邾子・益隠公。前年参照)帰国させました。
 
しかし邾隠公の無道が直らなかったため、呉王・夫差は大宰(太宰)・伯嚭(子餘)に討伐を命じました。
伯嚭は邾隠公を楼台に監禁し、荊棘で囲みを作りました。
また、諸大夫に太子・革桓公を奉じさせて邾の政治を行わせました。
 
[] 秋、魯と斉が講和しました。
九月、魯の臧賓如(臧会の子)が斉に入って盟を結びました。
斉も大夫・閭丘明(閭丘嬰の子)を魯に送って盟を結び、季姫(季孫肥の妹)を迎えて帰国しました。
季姫は斉悼公に寵愛されます
 
斉の閭丘明が魯に行った時の事が『国語・魯語下』に書かれています。
斉の閭丘(閭丘明)が魯に盟を結びに来た時、魯の大夫・子服景伯(子服何)が宰人(官吏。部下)を戒めて言いました「会盟の場で過ちを犯したら、恭しい態度をとれ(陷而入於恭)。」
それを聞いた大夫・閔馬父が笑ったため、景伯が理由を問いました。
閔馬父はこう答えました「吾子(あなた)の大(驕慢)を笑ったのです。昔、正考父(宋の大夫。孔子の先祖)が周の太師(楽官の長)のもとで商の名頌商王朝を称える詩)十二篇をまとめ、『那詩経・商頌)』を頭に置きました。その最後の部分にはこうあります『遠く古い昔のこと、先民が祭祀の儀礼を整えた。朝から晩まで温和で恭しく、祭祀を行う者はなお恭敬だった(自古在昔,先民有作。温恭朝夕,執事有恪)。』古の聖王は恭敬を後世に伝えましたが、自分がそれを創始したとは言わず、『自古(古から)』と称し、古の者は『在昔(昔からあった)』と言い、昔の者は『先民(先人)』の功績としました。しかし今、吾子は吏人に『過ちを犯したら恭しい態度をとれ』と教えました。これは満(驕慢)も甚だしいことです。周恭王(共王)は昭王(恭王の祖父)と穆王(恭王の父)の過ちを覆い隠して先人に恭敬だったので、『恭』という諡号が贈られました。楚恭王は自分の過ちを知ることができたので、『恭』という諡号が贈られました。今、吾子は官僚に『過ちを犯したら恭しい態度をとれ』と教えましたが、(道を失ってやっと恭しくなるというのなら)道がある時は(過ちを犯していない時は)どうするのですか。」
 
[] 斉悼公の即位に不満を持っていた鮑牧が諸公子に言いました「あなた方に馬千乗(四千頭を持たせましょうか?」
千乗は諸侯を指すので、悼公を廃して他の公子を立てることを意味します。
諸公子はこれを悼公に訴えました。
悼公が鮑牧に言いました「ある者が子()を讒言している。子は暫く潞に住んで様子を見るべきだ。もしも彼等が言うことが本当なら、家財の半分を持って国を出よ。もしもそのようなことが無いのなら、元の場所に帰れ。」
鮑牧が門を出ると、悼公は鮑牧に家財の三分の一だけを持たせました。潞に行く途中では馬車二乗だけになります。
更に鮑牧が潞に着くのを待って逮捕し、縛って国都に連れ戻して処刑してしまいました。
 
[] 冬十二月癸亥(初三日)、杞僖公(釐公)が在位十九年で死に、子の閔公(湣公)・維が立ちました。
 
[] 斉が讙と闡を返還しました。悼公が季姫を寵愛したためです。
 
[] 『竹書紀年(古本)』はこの年に不思議な出来事があったと記述しています。
晋定公二十五年(東周敬王三十三年。本年)、西山(恐らく晋の山)の女子が丈夫(男)に変わり、妻を娶らせると子ができました。
またこの年、鄭の一女が四十人の子を産み、そのうち二十人が死にました。
 
資治通鑑外紀』の東周敬王四十三年(晋定公三十五年)に、「晋の妊婦が七年も子を産まず、西山の女子が丈夫になった」という記述があります。恐らく『竹書紀年』の記述を元にしていますが、晋定公二十五年を三十五年(敬王四十三年)と誤ったため、十年の隔たりが生まれています。
尚、『竹書紀年』には、「妊婦が七年も子を産まなかった」という記述はありません。
 
資治通鑑外紀』にはこの年、「晋で豕(豚)が人の言葉を話した(晋有豕人言)」という記述もあります。
 
[十一] 『史記・楚世家』によると、楚の子西が子勝を呉から招きました。子勝は平王太子だったの子で、楚から呉に亡命していました。
楚に戻った子勝は巣大夫となり、白公と号します。
白公は武を好み、にへりくだって討ちの機会を伺いました東周敬王四十一年・前479年に再述します)
 
 
 
次回に続きます。