春秋時代 呉王夫差の驕侈

資治通鑑外紀』は東周敬王三十五年・前485年に越王・句践が呉王・夫差に美女・西施と鄭旦を献上したと書いています。
西施と鄭旦は『呉越春秋』に記述があります。また、『国語』等にも当時の呉の状況が書かれています。以下、列記します。
 
まずは『呉越春秋・句践陰謀外伝(第九)』から西施と鄭旦に関する記述です。
越王句践十二年、句践が大夫・種に問いました「呉王は淫乱好色で、歓楽に浸って惑わされ、政事を顧みないと聞いた。これを利用できないか?」
大夫・種が言いました「呉を破ることができます。呉王は淫乱好色で、宰嚭(太宰嚭)は媚びによって歓心を買っています。美女を献上すれば必ず受け入れるでしょう。王は美女を二人選んで呉王に進めるべきです。」
句践は同意し、相者(人相を看る者)に命じて国中の美女を探させました。その結果、苧蘿山で薪を売って生活している女性を見つけます。一人は西施、一人は鄭旦といいます。
句践は二人に絹の衣服を着せ、歩き方やしぐさを教え、街の生活に慣れさせました。二人を都巷に臨ませると、人々はその美しさに嘆息します。三年後、二人は様々な教育を受けて呉に送られることになりました。
 
まず越の相国・范蠡が呉王・夫差に言いました「越王・勾践は二人の遺(親がいない娘)を養っていましたが、越国は困窮しているので留めることができなくなり、臣・蠡を派遣して大王に献上することにしました。大王が二人の醜い容貌を嫌わず、箕帚の用(家事・雑用)として許容されることを願います。」
夫差が喜んで言いました「越が二女を献上した。勾践が呉に忠を尽くしている証だ。」
しかし伍子胥が諫めて言いました「受け入れてはなりません。五色は人の目を盲にし、五音は人の耳を聾にするといいます。昔、桀は湯を軽視して滅び、紂は文王を軽視して亡びました。大王がこれを受け入れたら、必ず後の(禍)となります。越王は朝から書に接して飽きず、暗くなっても詩を誦んで徹夜し、しかも決死の士を数万も集めているといいます。このような人物は、死にさえしなければ必ず願望を実現するでしょう。また、越王は誠に服して仁を行い、諫言を聞いて賢人を用いているともいいます。このような人物は、死にさえしなければ必ず名を成すことができるでしょう。更に越王は夏に毛裘(毛皮)をかぶり、冬は粗末な服を着ているといいます。このような人物は、死にさえしなければ必ず我々の対隙(仇敵)となるでしょう。賢士は国の宝であり、美女は国の咎(禍)であるといいます。夏は妹喜によって亡び、殷は妲己によって亡び、周は褒姒によって亡びました。」
夫差は諫言を聞かず、西施と鄭旦を受け入れました。

西施に関してはもう少し詳しく書きます。
 
芸文類聚』や『太平広記』には当時の夫差の奢侈な様子が書かれています。
まずは『芸文類聚・居処部二(巻六十二)』からです。
王闔閭一年、姑蘇山に台を築き、山名にちなんで姑蘇台と名付けました。国都から西南三十五里に位置します。闔閭はここを春夏の外游の場としました。
後に夫差は台を更に高くし、豪華に装飾しました。
しかし越が呉を滅ぼした時、姑蘇台は焼き払われました。
漢代になって太史公司馬遷。『史記』の作者)が言いました「私は姑蘇に登って五湖を眺めた。五湖は台から二十余里離れていた。」
 
次は『太平広記・奢侈一(巻第二百三十六)』からです。
呉王・夫差が姑蘇台を修築し、三年でやっと完成しました。台の周りは曲折しており、縦横の距離は五里に及びます。豪華な装飾をほどこしたため、多くの人力が消耗されました。集められた宮妓は千人に及びます。
更に春霄宮を築いて長夜の宴を開き、石の酒盅(杯)を千個も作りました。
また大池を造り、池には青龍舟を浮かべ、妓楽を並べ、日々、西施と水上で遊びました。
中には霊館や館娃閣を建て、銅の寝床、玉の門檻(門の下の横木)を置き、宮の周りの欄干は全て珠玉で装飾しました。
 
 
次は『国語・呉語』から夫差の記述です。
呉王・夫差は越と講和してから、大軍を発して斉を討伐しようとしました。
申胥伍子胥が進み出て言いました「以前、天が越を呉に贈りましたが、王はそれを受け入れませんでした。天命とは移り変わるものです。今、越王・句践は恐懼してその謀(謀略。計画)を改め、愆令(誤った法令)を廃止し、賦税を軽くし、民が喜ぶ事を実施し、民が嫌う事を除き、自らは節約して衆庶(民衆)を富ませています。その結果、人口が増え、甲兵も満たされました。越は呉にとって、腹心の疾(病)のようなものです。越王は呉に破れたことを忘れず、その心には警戒の念があります。彼は士を服従させて、我が国の隙を窺っています。今、王は越を考慮せず、斉・魯を憂いとしていますが、斉・魯を疾に喩えるなら疥癬(皮膚病)のようなものです。斉・魯が江淮(長江と淮水)を越えてこの地で我が国と争うことがあるでしょうか。今のままでは、越が呉の地を領有することになります。
王は人を鑑とするべきであり、水を鑑としてはなりません(人を鑑とすれば教訓を得ることができますが、水を鑑にしても自分の姿を映すだけです)。昔、楚霊王は君道を守らず、臣下の箴諫(諫言)を聞き入れず、章華の上に台を築き、大山を穿って石郭(棺を置く場所。外棺)とし、漢水を引いて帝舜の陵墓を真似しました。その結果、楚国を疲弊させることになりましたが、更に陳・蔡の隙を窺いました。方城の内(楚国境内)を治めず、諸夏(中原諸国。陳・蔡)を越えて東国徐夷・呉・越)に臨み、三年を経てやっと沮水と汾水を渡って呉・越を討伐しましたが、民は飢餓と労役の殃(害)に堪えることができず、三軍が乾谿で王に叛しました。王は一人で逃走し、山林の中をさまよい続け、三日後に涓人・疇に会うことができました。王が『余は三日も食べていない』と言うと、疇は小走りで進み出ました。王は彼の股を枕にして地面に横になりましたが、王が眠りに着くと、疇は土の塊を枕にして去りました。目が覚めた王は疇が去ったと知り、地を這って棘闈(地名)に入りましたが、棘闈は受け入れを拒否しました。そのため、王は芋尹・申亥の家に行き、首を吊って死にました。申亥は王の遺体を背負って帰り、自分の家の土中に埋めました。これらの事は全て史書に記されています。まだ諸侯の耳から忘れ去られてはいません。
今、王は鯀・禹の功(親子二代にわたる治水の功績)を改め(父・闔廬の業績を失っているという意味です)、高い物を更に高くし(楼台を築き)、低い物を更に低くし(大池を造り)、姑蘇台で民を疲弊させています。その結果、天が我々の食を奪い、都鄙(国都と周辺の邑)では飢饉が続いています。王は天に逆らって斉を討伐しようとしていますが、呉の民が離心しています。体(国)が傾く様子は群獣と同じで、一頭の獣に矢が刺さったら百群が奔走します(民が離心しているので、斉と戦ってもわずかな損害が出ただけで民は壊走してしまいます)。そうなったら王はどうやって事態を収めるつもりですか。越人は必ず我が国を襲います。その時、王は後悔しても既に手遅れです。」
夫差は諫言を聞かず、翌年、斉を攻撃し、艾陵で斉軍を破りました
 
史記・呉太伯世家』にも伍子胥の諫言が書かれています。
夫差は、斉で景公が死に、大臣(政権)を争い、しかも新君が幼弱だと知り、北伐して斉を討とうとしました。
子胥が諫めて言いました「越王践は、食事では味を重ねず(「食不重味」。御馳走を食べないという意味)、衣服は絹を重ねず衣不重采、死者を弔って病人を慰問し、民衆を使おうとしています。彼が死なない限り、必ず呉の憂患となります。という腹心(病)があるのには優先して手を打とうとせず、斉の事に務めようとしています。これはおかしなことではありませんか。」
夫差は諫言を聞かず、北伐して斉軍を艾陵で破り、に至りました。
夫差がそこで魯哀公百牢(牛・羊・豕各百頭)を要求しましたが、魯の季康子子貢を派遣して呉の太宰嚭に周礼を説いたため、夫差はあきらめました。
しかし夫差はその地に留まって斉・の地を攻略しました
これらの出来事を『史記・呉太伯世家』は夫差七年(東周敬王三十一年・前489年)の事としています。しかし艾陵の戦いは夫差十二年敬王三十六年・前484年。翌年参照)に起きます。
また、魯に百牢を要求した事件は東周敬王三十二年(前488年)に『春秋左氏伝』の記述を元に書きました。『左伝』では、魯は呉に百牢を贈ったとしています。