春秋時代280 東周敬王(四十九) 艾陵の戦い 前484年(1)

今回は東周敬王三十六年です。二回に分けます。
 
敬王三十六年
484年 丁巳
 
[] 春、斉がの役(前年)の報復のため、国書(国夏の子)と高無●(●は「不」の下に「十」。高張の子)に魯を攻撃させました。
斉軍は清に至ります。
 
魯の季孫肥が宰(家臣の長)・冉求冉有。有子。孔子の弟子)に問いました「斉師が清に至った。これは魯が招いたことだ。どうするべきだろう?」
冉求が言いました「一子(三桓のうちの一氏)が守り二子(残りの二氏)が主公に従って国境を守るのは如何ですか?」
季孫肥は「できない」と答えます。季氏の力では孟孫子と叔孫氏を国境まで動かすことができないと判断したからです。
冉求が言いました「封疆の間(国境内の郊外)で防ぐのは如何ですか?」
季孫肥はこれを仲孫何忌孟懿子)叔孫州仇武叔)に伝えましたが、二人は拒否しました。
求が季孫肥に言いました「もしそれもできないようなら、国君は出征せず、一子が師を率いて、城を背にして戦うべきです。戦いに参加しない者は魯人ではありません。魯の群室(卿大夫)が集まれば斉の兵車よりも多く、一室(季孫氏)だけの車でも敵より勝っています。子(あなた)は何を憂いているのですか?二子が戦いを欲しないのも当然です。政権は季氏にあるからです。子は国政を預かっていながら、斉人が魯を攻めたのに戦えないのなら、それは子にとっても大恥であり、諸侯に並ぶことができなくなります。」
 
季孫肥は冉求を連れて朝廷に行き、党氏の溝(朝廷内の地名。公宮と党氏の屋敷の間にある溝)で待たせました。
叔孫州仇が大声で冉求に声をかけ、戦いについて問いました。冉求が答えました「君子には遠慮(遠謀)がありますが、小人(私)には分かりません。」
仲孫何忌が強く問うと、冉求が言いました「小人は材を考慮して(相手の能力を見て)発言し、力を量って(相手の力量を見て)力を提供します叔孫氏と孟孫氏は戦う気がないので答えるに値しません)。」
叔孫州仇が言いました「彼は我々が丈夫(立派な男)になれないと言っている。」
 
群臣が朝廷を退いてから車馬の準備をしました。
仲孫何忌は出征に参加しませんでしたが、その子・孟孺子洩(孺子は後継者の意味。洩は字。名は彘。諡号は武伯)が右師を率います。顔羽が御者に、邴洩が車右になりました。二人とも孟氏の家臣です。
冉求が左師を率い、管周父が御者に、樊遅(樊須。孔子の弟子)が車右になりました。
季孫肥が「樊須は弱年だ」と言いましたが、冉求は「(まだ若いですが)命を用いることができます(命令を聞いて職責を果たすことができます)」と答えました。
季氏の甲士は七千おり、冉求も武城の人三百を自分の徒卒として率いました。老幼の者が公宮を守り、左師は雩門(南門)の外に駐軍します。
 
五日後、戦意が乏しい右師がやっと到着しました。公叔務人(公為。魯昭公の子)が城を守る士卒を見て泣きながら言いました「徭役が多く、賦税は重く、上の者は謀がなく、士(戦死)は死ぬことができない(死力を尽くさない)。これでどうして民を治めることができるだろう。私はこう言ったからには努力しなければならない(士が死力を尽くさないと批判した以上、自分は死力を尽くさなければならない)。」
 
魯軍は郊外で斉軍と戦いました。斉軍は稷曲(魯郊外の地名)から進軍します。
魯軍の士卒は躊躇して濠を越えようとしません。すると樊遲が冉求に言いました「士兵は濠を越えられないのではありません。子(あなた)を信用していないのです。三刻(三回軍令を明らかにすること)して自ら濠を越えるべきです。」
冉求がその通りにすると、魯軍が後に続いて斉軍に突撃しました。
 
魯の右師が敗走を始めました。斉軍が追撃します。斉の大夫・陳瓘と陳壮が泗水を渡りました。
魯の孟之側(孟氏の一族。字は反)が斉の追撃を防ぐため、軍の一番後ろにまわって殿しんがりになりました。右師が安全に退却します。
孟之側は後に残って追撃を防いだ功績を誇らず、矢で自分の馬を叩いて「馬が進まなかったのだ」と言いました。
 
魯の士・林不狃が斉軍の追撃を受けた時、伍(同じ軍営の者。または林不狃は伍長で、「伍」はその部下)が言いました「逃げますか(走乎)?」
林不狃が言いました「誰不如?」
この「不如」は「私が誰に及ばないというのだ」と訳せるので、「なぜ逃げなければならないのだ?」という意味だと思います。
伍が言いました「それでは留まって戦いますか?」
林不狃が言いました「それが賢いことか(悪賢)?」
右師には元々戦意がないため、留まっても勝てないことは明白です。しかし逃走するつもりもありません。林不狃は平然と後退して戦死しました。
孟之側や林不狃のような勇敢な士もいましたが、孟氏に戦う気がなかったため、結局右師は敗北しました。
 
しかし左師の冉求は甲首八十を取りました。斉軍は隊列を乱します。
夜、間諜が報告しました「斉人が遁走しました。」
冉求は再三追撃を要求しましたが、季孫肥が許可しませんでした。
 
孟孺子洩が人に言いました「私は顔羽(御者)には及ばないが、邴洩(車右)よりは賢明だ。子羽(顔羽)は鋭敏だった(戦がうまく勇敢だった)。私は戦いを望まなかったが、それを口には出さなかった。しかし洩は『駆けましょう(逃げましょう)』と口に出した。」
 
公叔務人は嬖僮(寵愛する童僕)・汪錡と同じ車に乗って共に死にました。二人とも成人として殯(霊柩を安置して葬礼を行うこと)が行われました。
孔子が言いました「干戈を持って社稷を守った者は、殤(夭折。通常は成人より格が低い葬礼が設けられます)とみなさなくてもよい。」
 
冉求は左師に矛を持たせて戦い、斉軍を破りました。
孔子はこれを「義である」と評価しました。
義というのは道理にかなっているという意味です。冉求は斉軍の状況を把握しており、矛をうまく使ったので、孔子はその戦い方を評価しました。
 
斉が魯を攻めた時、孔子の弟子・子貢が外交家として諸国を回りました。『史記・仲尼弟子列伝』に詳しく書かれていますが、別の場所で紹介します。
 
[] 陳の轅頗(または「袁頗」)は司徒を勤めており、封田(封邑の土地)から税を徴収して陳公(湣公?)の娘が嫁ぐ時の資金としました。余った税金は轅頗自身の大器(鐘鼎)を造るために使われます。
 
夏、怒った国人が轅頗を追放しました。轅頗は鄭に奔ります。
道中で轅頗は喉が渇きました。すると族人の轅咺が稻醴(米で作った甘酒)、梁糗(乾飯)(乾肉)を出しました。轅頗が喜んで問いました「なぜこのように豊富なのだ?」
轅咺が答えました「大器が完成した時、(出奔することを予想して)準備したのです。」
轅頗が問いました「なぜ私を諫めなかったのだ?」
轅咺が答えました「先に追い出されることを恐れたからです。」
 
[] 五月、魯哀公が呉軍と合流して斉を攻撃しました。郊の戦いの報復です。
呉と魯の連合軍は博を占領しました。
壬申(二十五日)、嬴に入りました。
呉の中軍は王に従い、胥門巣(胥門が氏。本来、胥門は呉の城門の名。その付近に住んでいたため、胥門を氏にしました)が上軍を、王子・姑曹が下軍を、展如が右軍を率いました。三人とも呉の大夫です。呉軍には魯哀公と卿大夫も従っていますが、詳細は分かりません。
 
斉は国書が中軍を、高無●(「不」の下に「十」)が上軍を、宗楼(子陽)が下軍を指揮しました。
斉の陳乞(陳僖子)が弟の陳書(子占)に言いました「汝が死ねば(命をかけて戦うという功績を立てれば)私は志を得ることができる。」
 
宗楼と閭丘明が互いに励まし合い、死力を尽くすことを約束しました。
桑掩胥が国書の御者になると、公孫夏が「二子(桑掩胥と国書)とも必ず死ぬ」と言いました。
 
戦いが始まろうとした時、公孫夏がその徒(兵)に『虞殯』を歌わせました。葬送時に歌う挽歌で、決死の覚悟を示します。
陳逆(子行)は徒に含玉(死者の口に入れる玉)を準備させました。
公孫揮がその徒に言いました「皆、尋約(尋は八尺。約は縄。八尺の縄)を持て。呉兵の髪は短い。」
呉兵の首を取っても髪が短く縛ることができないため、縄を用意させました。
 
東郭書が言いました「三戦したら必ず死ぬ。これが三戦目だ(これ以前の二回の戦いがどれを指すのかは不明です。一回は恐らく東周敬王十九年・前501年の夷儀の戦いです)
東郭書は人を送って魯の弦多弦施。東周敬王三十一年・前489年、魯に出奔しました)に琴を譲り、「二度と子(あなた)に会うことはない」と伝えました。
 
陳書が言いました「この戦いで、私は戦鼓の音を聞くだけだ。金の音は聞けない。」
鼓声は進軍の音、金音は撤退の音です。
 
甲戌(二十七日)、呉と斉が艾陵で戦いました。展如が率いる呉の右軍が斉の上軍・高無●を破りましたが、斉の中軍・国書も呉の上軍・胥門巣を破ります。
しかし呉王・闔閭の兵が胥門巣を援けたため、斉軍は大敗しました。
国書、公孫夏、閭丘明、陳書、東郭書が捕えられます。『史記・越王句践世家』は高子(高無●)も捕えられたとしていますが、『春秋左氏伝(哀公十一年)』には書かれていません。『春秋』経文では東周敬王四十年(前480年)高無●は北燕に出奔します。
国書等は捕えられてから処刑されたようです。
革車(兵車)八百乗、甲首三千(国書等の首も含まれます)が呉軍に従った魯哀公に贈られました。
 
戦いが始まる前、呉王・夫差が魯の叔孫州仇に問いました「汝は何に従事しているのだ(汝の職は何だ)?」
叔孫州仇が答えました「司馬を勤めています。」
夫差は甲冑と剣鈹(剣の一種)を下賜して言いました「汝の国君の事(任務)を奉じ、その命を廃すな。」
叔孫州仇が応えられないでいると、衛賜(子貢。孔子の弟子)が進み出て言いました「州仇は甲(甲冑)を受け入れて国君に従います。」
古代で剣を下賜するというのは死を命じたことを意味します。そのため、叔孫州仇はどう答えればいいかわかりませんでした。それを見た子貢は甲冑だけを受け取ると答えました。
叔孫州仇は拝礼して甲冑を受け取りました。
 
魯哀公が大史・固を送って国書の首を斉に送り返しました。首は新しい篋(箱)に入れられ、玄纁(黒と赤の絹)を敷き、帯で装飾されています。書信がその上に置かれました「天がもし不衷(不正。斉が正しくないこと)を知らなかったら、どうして下国(魯)が勝てたであろうか」と書かれています。
国書が死んだのは国書自身の非ではなく、斉の国君に非があると言っています。
 
『国語・呉語』には斉に勝った呉王・夫差の言葉が書かれています。魯哀公の書信の言葉に似ています。
王・夫差が行人・奚斯(呉の大夫)を派遣して斉に伝えました「寡人は豊富ではない呉国の兵を率い、汶水に沿って北上したが、斉の民に略奪暴行を加えないのは恩好(友好)のためである。(斉の)大夫・国子(国書)がその衆庶(兵)を率いて呉国の師徒(軍)を侵したが、天が斉に罪があることを知らなかったら、どうして下国(ここでは呉。上国は中原諸国を指します)が勝つことができただろう。」
 
 
 
次回に続きます。