春秋時代281 東周敬王(五十) 伍子胥の死 前484年(2)

今回は東周敬王三十六年の続きです。
 
[] 呉が斉を攻撃しようとした時、呉に帰順していた越王・句践がその衆を率いて呉に入朝しました。呉王・夫差とその列士(臣下)に礼物が贈られます。
呉人が喜んで句践を歓迎する中、伍子胥だけは恐れて「これは呉(の驕慢)を養っているのだ」と言いました。
そこで伍子胥は夫差を諫めて言いました「越が我が国に居るのは、心腹の疾(病)と同じです。同じ場所に住み、我が国を欲しています(呉を得ようとしています)。彼等が柔服しているのは、その欲を満足させるためです。早く手を打つべきです。斉で志を得ても石の田を得るようなもので、役に立ちません(石の田は耕せないので収穫もありません)。越が沼にならなければ(廃墟にならなければ。滅亡しなければ)、呉が滅びます。医者に病を除かせながら『病原を残せ』と言う者はいません。『盤庚の誥尚書』にこうあります『命に従わない者がいたら、徹底して滅ぼして後を断ち、この地に子孫を残してはならない(其有顛越不共,則劓殄無遺育,無俾易種于茲邑)。』これこそ商が興隆した理由です。今、国君はこれに逆らって大(大業。覇業)を求めていますが、それは困難な事でしょう。」
夫差は諫言を聞かず、伍子胥を使者として斉に派遣しました。当時は戦を始める前に相手の国に伝えることが礼とされました。
伍子胥は自分の子を斉の鮑氏に託しました。後に王孫氏となります。
艾陵の役が終わると、夫差は伍子胥が子を斉に託したと知り、属鏤(剣名)を下賜しました。自殺を命じたことになります。
伍子胥は死ぬ前にこう言いました「私の墓に檟(棺を造る木)を植えよ。檟は木材になる。呉は亡ぶだろう。三年で衰弱が始まる。盈(満ちること。越を服従させ、斉に勝った事)となったら必ず毀(欠けること。崩壊)を招くのが、天の道だ。」
 
以上は『春秋左氏伝(哀公十一年)』の記述です。
史記・呉太伯世家』は伍子胥が使者として斉に赴き、帰国してからの死を命じられ、その後に斉と呉が戦ったとしています。
越王・句践が衆を率いて呉を朝見し、厚い貢物を献上しました。呉王は喜びましたが、伍子胥だけは心配して「これは(天が)呉を棄てたのだ(原文「弃呉」。『春秋左氏伝』では「豢呉」となっており、呉の驕慢を養うという意味)」と言い、呉王に諫言しました「越は腹心にあります。今、斉で志を得たとしても石の田と同じなので役に立ちません。『盤庚の誥』には『無道の者は子孫を残させない(顛越勿遺)』とあります。これが商が興隆した理由です。」
呉王は諫言を聞きませんでした。
伍子胥が使者として斉に派遣されました。伍子胥は自分の子を斉の鮑氏に託してから。帰国して呉王に報告します。それを聞いた呉王は激怒し、子胥に屬鏤の剣を与えて自殺を命じました。
伍子胥は死ぬ前にこう言いました「わしの墓の上に(『春秋左氏伝』の「」と同類)を植えて(棺)にせよ。わしの眼をくりぬいて呉の東門におけ。越が呉を滅ぼす様子を観るためだ。」
やがて斉の鮑氏が斉悼公を殺したため、それを聞いた呉・夫差は軍門三日間哀哭してから、海上に兵を進めて斉を攻撃しました。哀哭は諸侯が死んだ時の礼です。
しかし斉が呉軍を破ったため、呉を率いて還りました
 
これが『呉太伯世家』の記述です。しかし斉悼公が死んだのは前年のことなので、『呉太伯世家』の記述は時系列が合いません。
 
伍子胥の死に関しては『国語』等にも記述がありますが、別の場所で書きます。
 
伍子胥自殺の情報は越にも入りました。
『国語・越語下』からです。
越王・句践が范蠡を招いて言いました「わしが子(汝)と呉について謀った時(前年と前々年)子は『まだその時ではない』と言った。今、申胥がしばしば王を諫めたため、王は怒って彼を殺した。もういいのではないか?」
范蠡が言いました「節に逆らって忠正を殺したこと)兆しが生まれましたが、天地がまだ形(兆)を見せていません。先に征伐しても成功できず、逆に害を受けるでしょう。まだ暫く待つべきです。」
越王は「わかった(諾)」と言いました。
 
[] 秋、魯の季孫肥が防備を固めさせてこう言いました「小国が大国に勝つというのは禍である。斉はすぐ攻めて来るだろう。」
 
[] 七月辛酉(十五日)、滕子・虞毋(隠公)が死にました。
冬十一月、滕が隱公を埋葬しました。
 
[] 以前、衛の大叔(太叔)(または「世叔・斉」。悼子)は宋の子朝宋朝の娘を娶りましたが、その妹を寵愛しました。
子朝が衛国を出ると(東周敬王二十四年・前496年に宋朝は衛霊公に招かれました。この時から衛に住むようになったようですが、その後、いつ衛を出たのかは分かりません)、衛の卿・孔圉孔文子)が大叔疾に妻と媵(新婦と共に嫁ぐ女性。妹も含みます)を追い出させ、自分の娘・孔姞を娶らせました。
しかし大叔疾は侍人を送って前妻の妹を誘い出し、犁(衛の邑)に一宮(部屋)を設けて住ませました。それを知った孔圉は大叔疾を攻撃しようとしましたが、仲尼孔子が諫めて止めさせました(孔圉と孔子の会話は後述しますが、孔子は諫めてはいないようです)
孔圉は娘の孔姞を奪い返します。
大叔疾は外州(衛の地)でも他の女性と姦通しました。外州人は怒って大叔疾の軒(車)を出公に献上します。
大叔疾は妻と車を奪われたことを恥と思い、衛を出て宋に出奔しました。
衛は大叔疾の弟・遺に後を継がせ、改めて孔姞を娶らせました。
 
大叔疾は宋の向魋に仕え、美珠を献上しました。向魋は大叔疾に城鉏(宋の邑)を与えます。
宋景公が美珠を求めましたが、向魋が譲らなかったため、景公に怨まれるようになりました。
三年後に桓氏(向魋)が出奔すると、城鉏人が大叔疾を攻撃しました。恐らく、向魋の党とみなされたからです。
後に衛荘公(元年は東周敬王四十一年・前479年)が大叔疾を呼び戻し、巣(衛の地名)に住ませました。大叔疾はそこで死に、鄖で殯(葬儀)が行われ少禘に埋葬されました。
 
以前、晋悼公の子・憖が衛に亡命しました(いつの事かは分かりません)
憖が自分の娘を僕(御者)にして狩りをした時、大叔(太叔)懿子(太叔儀の孫)が憖を留めて酒を勧め、娘を娶ることにしました。これが大叔疾の母です。
大叔疾が家を継ぐと、夏戊(字は丁。大叔疾の同母姉妹の子)が大夫になりました。しかし大叔疾が出奔したため、衛人は夏戊の爵邑を削り、家財を奪いました。
 
孔圉が大叔疾を攻撃しようとした時(前述)、仲尼孔子に意見を聞きました。しかし仲尼はこう言いました「胡簋の事(祭祀。胡簋は食器、礼器)はかつて学んだことがありますが、甲兵の事(戦争。甲兵は甲冑と武器)は聞いたことがありません。」
仲尼は退出すると車の準備をさせてこう言いました「鳥は自分が棲む木を選ぶことができるが、木は鳥を選ぶことができない(「鳥則択木,木豈能択鳥」。自分を鳥に喩えています。衛に居るべきではないという意味です)。」
孔圉が慌てて仲尼を止めて言いました「圉(私)は自分のために謀っているのではない。衛国の難を防ぎたいのだ。」
上述の内容では孔圉が大叔疾を攻めようとした時、孔子が諫めて止めさせたとあります。孔子が出て行こうとしたため、攻撃を止めたのかもしれません。
仲尼は衛に留まろうとしましたが、ちょうど魯から使者が到着し、仲尼に厚い幣礼を贈って帰国を促したため、仲尼は魯に帰りました。
 
孔子の帰国に関して『孔子家語・儒行(第五)』に記述があります。
孔子が衛にいた時、冉求が魯の季孫(季康子・肥)に言いました「国に聖人がいるのに用いることができず、それでも国を善く治めようとするのは、後ろに向かって歩きながら前を進む人に追いつこうとするようなもので、達成できるはずがありません。今、孔子が衛におり、衛が用いようとしています。自国に才能ある者がいるのに隣国を助けさせるようでは、智とはいえません。重幣を用いて迎え入れるべきです。」
季孫がこれを哀公に話し、哀公は同意して孔子を迎え入れました。
 
孔子は魯を出てから衛・曹・宋・鄭・陳・蔡・楚等の諸国を転々としました。帰国した時の年を『資治通鑑外紀』は六十九歳と書いています。
孔子の周遊に関しては既にまとめて書きました。
 
史記』等に晩年の孔子の姿が書かれています。別の場所で紹介します。

[] 魯の季孫肥が田賦を設けようとしました。
田賦というのは農地の面積によって設けた税役の制度だと思いますが、詳細は不明です。魯は宣公十五年(東周定王十三年・前594年)に田畝の税を課し(初税畝)、井田制を廃止しました。また、成公元年(定王十七年・前590年)には丘甲の制度を作り(作丘甲)、兵役の制度も改めました。今回の「田賦」が税制の改革に当たるのか、軍賦(車馬の供出)の改革に当たるのかは諸説があります。楊伯峻の『春秋左伝注』も複数の説を紹介していますが(省略します)、断定はしていません。
 
季孫肥は冉求孔子の弟子。季氏の宰)を送って仲尼の意見を聞きました。しかし仲尼は「丘(私。丘は孔子の名)の知ることではない」と答えます。
三回意見を求めてから、冉求が言いました「子(あなた)は国老です。子の言葉を待って実行しようとしているのに、なぜ発言しないのですか?」
仲尼は私人として冉求に言いました「君子の行いとは、礼によって量るものだ。施しは厚く、事を行ったら適切で、斂(徴収。賦税)は薄くしなければならない。このように考えると、丘(私)が思うには現状の賦税で既に足りている(または「丘」は井田の十六井の意味で、常法とされた十六井から馬一頭、牛三頭を供出するという制度。「丘の制度で既に足りている」という意味になります。但し、当時は井田制が既に廃止されているため、この説には疑問があります。原文「則以丘亦足矣」)。もしも礼によって量らず、貪冒無厭(貪婪に際限がない)であれば、田賦を行っても将来やはり不足するだろう。そもそも、季孫が法度に則って行動したいのなら、周公の典(法典)があるではないか。逆に、勝手に行動したいのなら他者の意見を求める必要もない。」
季孫肥は反対意見を聞き入れませんでした。
 
以上は『春秋左氏伝(哀公十一年)』の記述です。『国語・魯語下』にも書かれています。
季康子(季孫肥)が田賦を設けようとし、冉有を派遣して仲尼に意見を求めました。しかし仲尼は回答せず、個人的に冉有に言いました「求よ、来なさい。汝は聞いたことがないか?先王は土地の質によって分配し、労働力によって税を設け、遠近によって差を作った(都から遠いほど税が軽くなりました)。商人の税はその収入によって決め、また財産の多寡も計算して税額を調整した。労役は一家の人数によって決め、老幼に対しては別に考慮された。鰥(妻を失った男)・寡寡婦・孤(孤児)・疾(病人や障害者)にも税制が決められ、軍旅が出征する時は税を集め、それ以外の時は徴収しなかった。軍旅の歳は、田一井につき稯禾(六百四十斛の粟)、秉芻(百六十斗の飼料)、缶米(十六斗の米)を提出させたが、それを越えることはなかった。先王はこれで充分だと思っていたのだ。もし季孫が法に則りたいのなら、周公の籍籍田の法。西周の税制)がある。もし法を変えたいのなら、勝手に賦税を集めればよい。わざわざ意見を求める必要などないではないか。」
 
[] 『竹書紀年(今本・古本)』によると、この年(東周敬王三十六年。晋定公二十八年。一説では「晋定公十八年」)、淇水が旧(恐らく朝歌)で途絶えました。
資治通鑑外紀』は洛水も周で途絶えたとしています。
 
 
 
次回に続きます。