春秋時代 伍子胥の死

東周敬王三十六年484年)伍子胥が殺されました。

本編は『春秋左氏伝(哀公十一年)』を元にしました。ここでは『史記』『国語』等の記述を紹介します。
 
まずは『史記・越王句践世家』です。
呉王・夫差が斉を討伐しようとした時、伍子胥が諫めて言いました「いけません。句践は質素な食事をして百姓と苦楽を共にしているといいます。このような人物が死なない限り、必ず我が国の患いとなります。呉にとって越は腹心の疾(病)ですが、斉は疥癬(皮膚病)に過ぎません。王は斉を赦して越を優先するべきです。」
しかし呉王は諫言を聞かず、斉を討伐して艾陵で破りました。斉の高子高無●。●は「不」の下に「十」)と国子(国夏。恵子)が捕えられます。
帰国した夫差が伍子胥を譴責すると、伍子胥は「王は喜ぶべきではありません」と言いました。
それを聞いた夫差が激怒したため、伍子胥は自殺しようとします。夫差は伍子胥の自殺を止めさせました。
 
その頃、越の大夫・種が句践に言いました「呉王の政治は驕っています。粟(食糧)を借りることを口実にして試してみましょう。」
そこで越は呉に食糧を求めました。
呉王は同意しようとしましたが、伍子胥が反対しました。しかし呉は越に食糧を贈り、越は内心喜びます。
 
伍子胥が言いました「王は諫言を聞こうとしない。今後、三年で呉は廃墟になるだろう。」
この発言を太宰嚭が聞きました。太宰嚭は越との関係についてしばしば伍子胥と対立してきたため、伍子胥を讒言して言いました「伍員伍子胥の外貌は忠臣のようですが、実際は残忍です。自分の父兄も顧みなかったのに、王を顧みることがあるでしょうか?王が斉を攻めようとした時、員は強く諫めました。しかし王が功績を立てたため、彼は逆に王を怨んでいます。王が伍員に備えなければ、員は必ず乱を興します。」
太宰嚭は越の逢同とも共謀して讒言を繰り返しました。
王・夫差は始めのうちは讒言を信じなかったため、伍子胥を斉に派遣しました。ところが伍子胥は自分の子を斉の鮑氏に託します。それを知った夫差は激怒して言いました「伍員はやはり寡人を騙していた!」
伍子胥が帰国すると、夫差は人を派遣して伍子胥に属鏤剣(名剣の名)を与え、自殺を命じました。
伍子胥が大笑して言いました「わしは汝の父(闔廬)に霸を称えさせた。汝もわしによって擁立された。当初、汝はわしに呉国の半分を与えようとしたが、わしは受け取らなかった。今、汝は逆に讒言によってわしを誅殺するのか。汝一人で国を存続させることはできない。」
伍子胥は使者に「わしの眼をくりぬいて呉の東門に置け。越兵が入城するのを見届けるためだ」と命じてから自殺しました。
呉の政治は太宰嚭が行うことになりました。
 
次は『呂氏春秋・貴直論』からです。『春秋左氏伝』『史記』の記述と若干異なります。
王・夫差が斉を攻撃しようとした時、伍子胥が諫めて言いました「いけません。斉と呉の関係は、習俗が異なり、言語も通じないので、我々がその地を得ても住むことができず、その民を得ても用いることができません。呉と越の関係は、国境を隣接させ、土地が交わり路が通じています。習俗は同じで言語も通じるので、我々がその地を得たら住むことができ、その民を得たら使うことができます。逆に越にとっての我々も同じ存在です。呉と越は両立することができません。越は呉にとって心腹の疾です。たとえ何もしなくても、その傷は深く中にあります。斉は呉にとって疥癬の病に過ぎません。それを悩む必要はなく、大きな害もありません。越を赦して斉を討つのは、虎を恐れて。猪)を撃つのと同じで、たとえ勝っても後患はなくなりません。」
太宰嚭が言いました「それは違います。君王の政令が上国(中原諸国)に行きとどかないのは、斉と晋があるからです。君王が斉を討って勝ったら、その兵を率いて晋に臨むべきです。晋は必ず君王の命に従います。君王は一挙によって二国を服従させることができ、君王の政令が必ず上国に行き届くようになります。」
夫差はこれに賛成し、伍子胥の言を聞かず、太宰嚭の策謀に従うことにしました。
伍子胥が夫差に言いました「天が呉を亡ぼそうとしているのなら、君王を戦いに勝たせるでしょう。天が呉を亡ぼさないつもりなら、君王が戦っても勝たせないでしょう。」
夫差はやはり聞こうとしません。伍子胥は両腕の袖を振り払い、大股で朝廷を出ると、「ああ、呉の朝廷には荊棘が生えることになる(廃墟と化す)」と言いました。
 
夫差は兵を起こして斉を攻撃し、艾陵で大勝しました。
帰国した夫差は伍子胥を殺そうとします。
伍子胥は「一目を残して越人が呉に入る様子を見ることができないものか」と言って自殺しました。
夫差は伍子胥の死体を長江に棄て、目をえぐり取って東門に掛け、こう言いました「越人が我が国に入る様子を汝が見ることができるか?」
 
数年後、越が呉に報復して国都を破壊し、呉王の後嗣を途絶えさせました。社稷が滅び、宗廟が取り壊されます。夫差も越の捕虜になりました。
夫差は「死者に知覚があるのなら、わしは地下で子胥に会わせる顔が無い」と言い、布で顔を隠して死にました。
 
 
呂氏春秋・孝行覧・長攻』には呉が越に食糧を贈った時の話が詳しく書かれています。
越国を大飢饉が襲ったため、句践が恐れて范蠡を招きました。
すると范蠡はこう言いました「王は何を心配しているのですか。今回の飢饉は越の福であり、呉の禍となります。呉国は大いに富んでおり、その財には余りがあります。しかし呉王は若く、智謀は少なく能力も足りず、目先の虚名を好むだけで後患を考えることができません。王が重弊を贈り、辞を低くして呉に食糧を請えば、我々は食糧を得ることができます。食糧を得たら、最後は越が呉を有することができます。王が心配する必要はありません。」
越王は「善し」と言って使者を呉に送りました。
呉王・夫差が食糧を越に贈ろうとしましたが、伍子胥が諫めて言いました「与えてはなりません。呉と越は国境を接しており、道は平坦で人が往来している仇讎敵戦の国です。呉が越を滅ぼさなければ必ず越が呉を滅ぼすことになります。燕・秦・斉・晋は山地に陸居しているので、五湖九江を渡り、十七の険所を越えなければ呉に攻めて来ることはできません。だから呉が越を滅ぼさなければ、越が呉を滅ぼすことになるのです(呉を滅ぼすことができるのは越だけです)。今、もしも彼等に食糧を与えたら、我々の讎を増長させ、我々の仇を養うことになります。財が窮乏したら民の怨みを招き、後悔しても間に合いません。食糧を与えるのではなく、攻撃することこそ本来の道理であり、かつて先王(闔廬)が霸を称えることができた理由でもあります。そもそも飢饉とは代わる代わる訪れるものであり、淵があれば阪(山)もあるようなものです。どこの国に関係が無いといえるのでしょうか。」
しかし呉王はこう言いました「それは違う。義兵とは戦わずに相手を帰順させ、仁者は飢餓に苦しむ者に食べさせるものだという。今、越が服従しているのに攻撃したら、義兵とはいえない。相手が飢えているのに食糧を与えなかったら仁徳とはいえない。不仁不義なことは、たとえ十の越を得ることができたとしても、わしにはできない。」
呉は越に食糧を贈りました。
ところが三年も経たずに呉が飢饉で苦しみます。呉は越に食糧を求めましたが、越王・句践は拒否して呉を攻撃し、夫差を捕えました
 
 
『国語・呉語』から伍子胥の死です。
呉王・夫差は斉討伐から帰ると申胥伍子胥を譴責して言いました「かつて我が先王(闔廬)は徳を体現して明聖があり、上帝の意に達することができた。農夫が並んで農耕を行うように先王は汝と協力しあい、四方の蓬蒿(雑草)を除いて荊(楚)において威名を立てた。これは大夫伍子胥の力によるものだ。しかし今、大夫は既に年老いたのに安静な生活に甘んじることなく、呉国に居て悪を想い、出征したら我が衆(軍)に罪があると言い、百度(法度)を乱し、妖言で国を惑わしている。今回、天が呉に福を降したから斉師が服従した。孤(国君の自称)はそれを自慢するつもりはない。全て先王の鍾鼓(進軍時の楽器。ここでは軍隊)のおかげであり、霊(神霊)に守られたおかげである。あえてこれを大夫に伝える。」
申胥は剣をはずすと夫差にこう言いました「かつて我が先王には代々輔弼の臣(補佐する賢臣)がおり、躊躇した時には共に決断したり善悪を考慮したので、大難に陥ることがありませんでした。しかし今、王は黎老(老人)を棄てて孩童(幼児・若者)と策謀し、こう言っています『余の命令に背いてはならない。』王の命令に背かなかったら、道に背くことになります。王の命令に背かないことは滅亡の階段を登ることになります。天が(国を)棄てようとする時には、必ず近くで小喜(小さな成功。喜び)を集め、遠くに大憂を設けるものです。王がもしも斉で志を得ることが無かったら、王は目を覚まし、呉国も世に継承させることができたでしょう。我が先君(闔閭)が成功を得たのは、成功する条件はあったからです(闔廬は政治に励んで民を慈しんだので楚に大勝しました)。そして成功の条件を失ったら、自らそれを棄てることができました(楚都を一時占領しましたが、維持する力がないと判断して兵を引きました)。だから能力がある人材を用いて盈(隆盛)を保ったまま終わりを迎え、時を失うことなく危機から国を救うこともできたのです。今、王には成功の条件が無いのに(徳政を行っていません)天禄(福)が頻繁に訪れています。これは呉の命を短くすることです。員は病と称して引退し、王が越の擒になる姿を見るのは忍びないので、死ぬことをお許しください。」
伍子胥は自殺しました。
死ぬ前に伍子胥はこう言いました「私の目をくりぬいて東門に掛けてください。越が国都に入り、呉国が亡ぶ様子を見届けるためです。」
呉王は怒って「孤は大夫に何も見せるつもりが無い」と言うと、死体を鴟夷(革袋)に入れて長江に投げ捨てました。
 
史記伍子胥列伝』にも詳しい記述があります。既に紹介したので、下記を参照ください。