春秋時代 子貢の外交

東周敬王三十六年・前484年、艾陵の戦いが始まる前に、孔子の弟子・子貢が外交家として諸国を回りました。
ここでは『史記・仲尼弟子列伝』の記述を紹介します。
 
斉の田常(田恒。成子。田乞の子)は斉を乗っ取ろうと考えていましたが、高氏、国氏、鮑氏、晏氏の反対を恐れました。そこで、彼等の兵を動かすため、魯を討伐することにしました。
本編(『春秋左氏伝』)では斉が国書(国夏の子)と高無●(●は「不」の下に「十」。高張の子)に魯を攻撃させたとしています。
 
魯の危機を知った孔子が弟子達を集めて言いました「魯は墳墓の所在地であり、父母の国でもある。国がこのような危機に陥ったのに、二三子(汝等)はなぜ援けに行かないのだ?」
子路が魯のために出て行こうとしましたが、孔子子路を止めました。子張と子石公孫龍が行こうとしても孔子は同意しませんでした。
子貢が名乗り出ると、孔子はやっと同意しました。
 
子貢は斉に入って田常に言いました「あなたは魯を討とうとしていますが、誤りです。魯は討伐が難しい国です。城壁は薄くて低く、濠は狭くて浅く、国君は愚かかつ不仁、大臣は偽りが多く無用、士民も甲兵の事(戦争)を嫌っています。このような国と戦ってはなりません。あなたは呉を討つべきです。呉は城壁が高くて厚く、濠は広くて深く、甲冑は堅くて新しく、士は選び抜かれて充足しており、重器(賢人)と精兵は全てその中におり、賢明な大夫に守られています。このような国は容易に攻撃できます。」
田常が怒って言いました「子(汝)が困難とすることは人が容易とすることだ。子が容易とすることは人が困難とすることだ。わしにそのような教えをするのはなぜだ?」
子貢が言いました「内を憂いる者は(強)を攻め、外を憂いる者は弱を攻めるといいます。今、あなたの憂いは国内にあります。斉君があなたに三回も食邑を封じようとしたのに、三回とも実行されなかったと聞きました。大臣の中に反対する者がいるからです。今、あなたが魯を破って斉の領土を広くしたら、戦勝が国君を驕らせ、国(魯国)を破ったら臣鮑氏や晏氏等の実際に兵を率いる者)が尊ばれることになります。しかしあなたの功はその中にありません。これではあなたと国君の関係が日々疎遠になります。あなたが上においては国君に驕心を生ませ、下においては群臣を放縦にさせるからです。このような状況で大事を成そうとしても困難です。上が驕慢になったらはばかることが無くなり、臣が驕慢になったら争いを招きます。あなたは上は主との間に対立が生まれ、下は大臣と争うことになります。その結果、あなたの斉での立場は危険になります。だから呉を討つべきだと言ったのです。呉を討って勝てなかったら、民人が国外で死に、国内の大臣が淘汰されます。あなたは上には強臣の敵がいなくなり、下では民人の過(非難)を受けることなく、国君を孤立させて一人で斉を制御できるようになります。」
田常が言いました「その通りだ。しかし既に兵を魯に加えてしまった。それを退かせて呉に向かわせたら、大臣がわしを怪しむだろう。どうするべきか?」
子貢が言いました「あなたは兵を動かさないでください。臣が呉に赴いて魯を援けさせます。呉が斉を討ったら、あなたは兵を率いて迎え討ってください。」
田常は同意し、子貢は南に向かいました。
 
子貢が呉王・夫差に言いました「王者は世を絶つことなく(諸侯の国を滅ぼすことがなく)、霸者には強敵がいないといいます。千鈞(重さの単位)の重さをもつ物でも、一銖一両を加えただけで動くことがあるものです。今、万乗の国である斉が単独で千乗の国である魯を併合し、呉と盛強を競おうとしています。これは王の危機になるでしょう。魯を援けたら名声が挙がり、斉を討てば大利を得ることができます。泗上(泗水以北)の諸侯を撫し、暴斉を討伐して強晋を服すことができれば、それ以上の利はありません。滅亡に瀕した魯を存続させるという名分によって、実は斉の強大化を防ぐというこの策は、智者なら躊躇せずに実行するはずです。」
呉王が言いました「その通りだ。しかしわしはかつて越と戦い、会稽に追いこんだ。越王は自分の身を削って士を養い、わしに報復しようとしている。越を討伐できたら子(汝)の言に従おう。」
子貢が言いました「越の強さは魯に及びませんが、呉の強さは斉に及びません。王が斉をおいて越を討ったら、斉が魯を平定してしまうでしょう。そもそも王は亡ぼうとした国を存続させ、絶たれた家系を継承させることを名分としています。小越を討伐して強斉を恐れるのは非勇です。勇者は難を避けず、仁者は人を困窮させず、智者は時を失わず、王者は世を絶たせず(国を滅ぼさず)、これらの事を通して義を立てるものです。越を存続させて諸侯に仁を示し、魯を救って斉を討つことで晋国に威を加えれば、諸侯が必ず相次いで呉に朝見するので、王の霸業が完成できます。王がそれでも越を警戒するというのなら、臣が東に向かって越王に会い、出兵して王に従わせます。諸侯に従って斉を討伐するという名目で越を空にすることができます。」
夫差は喜んで子貢を越に向かわせました。
 
越王・句践は道を清めて郊外で子貢を迎え入れ、自ら車を御して館舍を訪れ、子貢にこう問いました「ここは蛮夷の国です。大夫がわざわざ訪ねてきたのはなぜですか?」
子貢が言いました「私は呉王に魯を助けて斉を討つように勧めました。呉王は同意したいと思っていますが、心中で越を恐れているのでこう言いました『越を討伐してからなら問題ない。』これでは越が必ず敗れます。そもそも、人に対して報復するつもりが無いのに人に疑われたとしたら、(愚か)というものです。人に報復するつもりがあり、それを人に知られてしまったとしたら、殆(危険)というものです。事をまだ起こしていないのに、先に知られてしまうのは危(危険)というものです。この三者は事を起こす時の大患となります。」
句践が叩頭再拝して言いました「孤(私)はかつて自分の力を過信し、呉と戦って会稽に追いつめられました。その(恨み)は骨髄に達し、日夜、唇が焦げて舌が乾くほどで(「焦脣乾舌」。唇と舌が乾いて焦げるほど心が激しく燃えていること)、呉王と踵を接して死ぬこと(呉王と決戦すること)だけを願いとしています。」
更に句践が呉に対してどうするべきか聞くと、子貢はこう答えました「呉王は猛暴なので群臣が堪えられません。国家は頻繁な戦に疲弊しているので、士卒も堪えられません。百姓は上を怨み、大臣は国内で変事を企んでいます。子胥が諫死してから(実際はまだ死んでいません)、太宰嚭が政治を行っていますが、彼は国君の過ちに従う事で私利を満足させています。これは残国(亡国)の治です。王が士卒を動員して呉王を援け、その志に投合し、重宝を贈って歓心を求め、辞を低くして恭しく接すれば、呉は必ず斉を攻撃します。呉が勝てなかったら王の福となります。もし勝ったら兵を率いて晋に臨むはずです。臣は北に向かって晋君に会い、共に呉を攻めさせましょう。そうすれば呉を弱体化させることができます。呉の精鋭が斉におり、重甲(重兵)が晋で困窮すれば、王が疲弊した呉を制すことができます。呉の滅亡は間違いありません。」
越王は喜んで同意し、子貢に金百鎰と剣一本、良矛二本を与えましたが、子貢は受け取らず呉に戻りました。
 
子貢が呉王・夫差に言いました「臣が大王の言を厳かに越王に伝えたところ、越王は大いに恐れてこう言いました『孤(私)は不幸にして幼い時に先人を失い、自分の力を図ることができず呉の罪を得た。その結果、軍が敗れて身を辱め、会稽にこもって国を荒廃させることになった。しかし大王の恩恵のおかげで、俎豆(祭器)を奉じて祭祀を続けることができたのだ。その恩は死んでも忘れることがないのに、なぜ他の謀をすることがあるだろう。』」
五日後、越の大夫・種が使者として呉を訪れ、叩頭してから呉王・夫差に句践の言葉を伝えました「東海の役臣孤(「役臣」は「労役に従う臣」、「孤」は「私」の意味)・句践が臣種を使者にして(呉の)下吏と修好し、(呉王の)左右(近臣)に挨拶させることにしました。今回、大王が大義を興し、強を誅して弱を救い、暴斉を討伐して周室を安定させると聞きました。越境内の士卒三千人を全て動員し、孤自ら武器を持って敵の矢石を受けることをお許しください。越の賎臣・種に先人の藏器(宝物)と甲二十領、鈇(斧)および屈盧の矛屈盧は矛の名)、歩光の剣を奉じさせ、軍吏への賀礼とさせていただきます。」
喜んだ夫差が子貢に問いました「越王自ら寡人に従って斉を討ちたいと言っているが、如何だ?」
子貢が言いました「いけません。人の国を空にし、人の衆をことごとく動員させ、しかもその君を従わせるのは不義です。幣礼を受け取り、出兵を許可するだけで、その君の同行は辞するべきです。」
夫差は同意し、句践の従軍を丁重に断りました。
呉は九郡の兵を動員して斉を討ちました。
 
子貢は晋に行き、晋君(定公)に言いました「先の事を考慮しなければ緊急の事に対処できず、先に兵を整えておかなければ敵に勝つことはできないといいます。今、斉と呉が戦っていますが、呉が勝てなかったら越が必ず乱を起こすでしょう。逆に呉が斉に勝ったら、兵を率いて晋に臨むはずです。」
晋君が恐れてどうするべきか問うと、子貢は「兵(武器)を整えて卒(兵卒)を休ませ、待機するべきです」と言いました。
晋君は同意し、呉軍に備えました。
 
子貢は魯に帰りました。
呉王・夫差は艾陵で斉軍と戦って大勝し、七将軍の兵を得ます。
その後、呉軍は引き返すことなく、晋に向かいました。呉は晋と黄池で遭遇します。
両国が強盛を争った結果、戦の準備を整えてあった晋が呉に大勝しました(本編にはこの戦いについての記述がありません。両国は黄池で会見しています)
呉の大敗を聞いた越王・句践は長江を渡って呉を襲い、呉の都城から七里離れた場所に駐軍しました。
それを知った呉王は晋から帰国し、越と五湖で戦います。しかし三戦しても勝てず、城門も陥落しました。
越軍は呉の王宮を包囲し、夫差とその国相を殺します。
越は呉を滅ぼした三年後に東方で霸を称えました。
 
子貢が一度諸侯を巡遊しただけで、魯を存続させ、斉を乱し、呉を破り、晋を強大にして、越に覇を称えさせました。子貢の一使によって各国の形勢が変わり、十年の間で五国に変化が生まれたのです。