春秋時代 孔子の晩年(1)

東周敬王三十六年(484)孔子魯に帰国しました。
その後の孔子に関して、『韓非子』『孔叢子』『史記』等の記述を紹介します。
 
まずは『韓非子・内儲説上七術(第三十)』からです。
哀公が孔子に問いました「諺にはこうある『衆の意見がなければ迷う莫衆而迷)』。しかし今、寡人は事を行うのに群臣と相談しているが、国はますます乱れている。これはなぜだ?」
孔子が答えました「明主が臣下に質問した時、一人はそれを知っており、一人は知らないとします(意見が異なるという意味です)。このような状況なら、明主が上にいれば群臣が下で実直に議論をすることができます。ところが今は、群臣の中で一人も季孫と異なる意見を言う者がなく、魯国を挙げて一つになっています。このようでは国君が国境内の全ての人に意見を求めても、乱から逃れることはできません。」
 
韓非子』は同じような話を続けて紹介しています。但し、孔子ではなく晏子の話です。
斉の晏嬰晏子が魯を聘問した時、哀公が問いました「『三人いなければ迷う莫三人而迷)』と言いますが、今の寡人は一国(国中)の民と相談しても乱から免れることができません。それは何故でしょう。」
晏子が言いました「古の『莫三人而迷』というのは、一人が間違った事を言っても二人が正しければ、三人の意見をまとめて衆(大衆の意見)とすることができるという意味です。ところが今の魯国は、群臣が数百数千を数えても、季氏の私利に意見が統一されています。人が多くても衆とはいえず、発言しているのは一人と同じです。どうして三人の意見を得ることができるでしょう。」
 
 
次は『孔叢子・記問(第五)』からです。
哀公は幣物を使って衛から孔子を迎え入れましたが、重用することができませんでした。
そこで孔子は『丘陵之歌』を作りました。
「登彼丘陵,峛崺其阪。仁道在邇,求之若遠。遂迷不復,自嬰屯蹇。喟然迴慮,題彼泰山。鬱確其高,梁甫迴連。枳棘充路,渉之無縁。将伐無柯,患茲蔓延。惟以永歎,涕霣潺湲」という詩で、自分の不遇を嘆いています。
要訳します「丘陵を登り、坂道が続く。仁道は近いのに、求めたら遠いようだ。迷って帰ることなく、自ら苦難を巡る。嘆息して振り返り、泰山(魯)を顧みる。山は高くそびえ立ち、梁甫(泰山周辺の小山)が周りに連なる。枳棘(棘がある植物)が路を満たし、渡ることができない。刈り取るにも斧がなく、蔓延を憂いる。ただ永く嘆息し、さめざめと涙を流す。」
 
 
史記孔子世家』からです。
魯で用いられることが無かった孔子は、自らも出仕を求めず、学問を修めて弟子達の教育に力を注ぐようになりました。
当時は周王室が衰退して礼楽の制度が廃れ、『詩詩経』『書書経尚書』も欠けが生じていました。そこで孔子は三代(夏・商・西周の礼を追跡し、『書伝書経に関しての典籍)』を整理しました。上は唐虞(堯舜)から下は秦繆公(穆公)に至るまでの出来事を編集します。孔子が言いました「夏の礼については、私も語ることができる。しかし杞夏王朝の子孫の国)にはそれらを証明するものが残されていない。殷(商)の礼についても語ることができる。しかし宋商王朝の子孫の国)にもそれらを証明するものが残されていない。もしそれらが充分に残されていたら、私が語る内容を証明することができた(または「私によって夏・殷の制度を明らかにすることができた。」原文「足,則吾能徴之矣」)。」
孔子周王朝が殷(商)王朝と夏王朝の制度を引き継いでから増減させた内容を確認し、こう言いました「今後、百世経ったとしても、何が増減されたかが分かるだろう。一方(周)は文(文徳)を重視し、一方(夏・商)は質(実質。朴実)を重視している。周は二代を鑑みて文を豊富にした。私は周の礼に則ろう。」
こうして『書伝書経』と『礼記』が孔子によって編纂されました。
 
孔子が魯の大師(太師。楽官)に言いました「楽(音楽)は精通することができる。始めは翕如(勢いがある様子。五音による演奏が始まります)、その後に純如(調和している様子。五音が出そろって調和します)、皦如(音が明らかになること)、繹如(絶えることなく続くこと)と続いて終わりを迎える(翕如から始まって純如・皦如・繹如によって完成します)。」
また、孔子はこう言いました「私は衛から魯に帰った後、(廃れていた)(音楽)を正し、『雅頌(『詩経』の大雅・小雅と頌)』が元々もっていた曲を復元させた。」
 
古の詩は三千余篇ありました。孔子はその中で重複したものを除き、礼義の教化に役立つものを選び、上は契商王朝の祖)・后稷周王朝の祖)から中は殷・周の隆盛、終わりは西周幽王や厲王の失政に至るまでの詩を整理しました。まとめた詩の最初は衽席(寝床。男女の事)から始まります。そのため、「『関雎』の乱(乱は末章の意味。もしくは意訳して「男女が親密に結びついた様子」)を『風詩経・国風)』の始めとし、『鹿鳴』が『小雅』の始めに、『文王』が『大雅』の始めに、『清廟』が『頌』の始めになった」といわれています。
孔子は『韶』『武』『雅』『頌』(全て古代の舞楽の種類)の音を求め、『詩経』三百五篇に全て曲をつけて歌えるようにしました。
こうして礼楽が復活し、王道(聖王の制度)が整えられ、六芸が完成しました。
 
六芸は二つの意味があります。一つは「礼・楽・射・御・書・数」で、古代の貴族が身につける必要があった教養です。もう一つは『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』の六経です。
ここではどちらの意味も通じますが、後者の方がふさわしいようです。但し『易』は次に述べます。
 
孔子は晩年になって『易周易』にも興味を持ち、解釈を行いました。
『易』の書を何回も繰り返して熟読したため、書簡を結ぶ紐が三回も切れたといいます。この故事を「韋編三絶」といい、努力して読書することの喩えとして使われます。
それでも孔子はこう言いました「わしにあと数年が与えられれば、易を充分理解することができるのだが。」
史記孔子世家』には『易』に関する解説がありますが、難しいので省略します。
 
孔子は『詩』『書』『礼』『楽』によって弟子を教育しました。弟子の数は三千人にのぼり、中でも六芸に精通した者は七十二人いました。また、顔濁鄒のように孔子の教えを受けながら弟子には数えられなかった者も多数いました。
 
資治通鑑外紀』は『孔子家語・七十二弟子解(巻三十八)』と『史記・仲尼弟子列伝』を元に孔子の弟子の名を列記していますが省略します。
 
孔子は多くの優秀な人物に対して敬意をはらいました。『史記・仲尼弟子列伝』に記述があります。
孔子が厳事(厳しい態度で仕えること。敬意を払うこと。尊敬すること)した人物には、周においては老子、衛においては蘧伯玉、斉においては晏平仲(晏嬰。晏子、楚においては老萊子老子と同一人物という説もあります)、鄭においては子産、魯においては孟公綽がいました。
また、臧文仲、柳下恵、銅鞮伯華、介山子然もしばしば称賛していました。
このうち老子に関しては別の場所で述べました。老莱子にも触れています。
 
資治通鑑外紀』は『説苑』等から孔子に関する故事を紹介しています。次回紹介します。