春秋時代 孔子の晩年(2)

資治通鑑外紀』が東周敬王三十六年484年)『説苑』等から孔子に関する故事を紹介しています。

以下、列記します。
 
まず『説苑・敬慎(巻十)』からです。
孔子が『詩』を論じ、『正月(小雅)』の第六章まできた時、厳しい面持ちで言いました「時にめぐり会うことができなかった君子は、危いものではないか。上に従って世に流されたら道を廃すことになる。上に背いて俗から離れたら身に危険が及ぶ。世が善に向かうことなく、自分だけが善に向かっていたら、妖か孽(悪)といわれるだろう。だから桀が関龍逢を殺し、紂が王子比干を殺したのだ。賢者が時に巡り合えなかったら、しばしば良い終わりを迎えることができない。詩(正月)にはこうある『天があれほど高いのに、腰を曲げなければならない。地があれほど厚いのに、歩幅を狭くして慎重に歩かなければならない(謂天蓋高,不敢不跼。謂地蓋厚,不敢不蹐)。』詩はこのような状態を言っているのだ。」
 
 
『韓詩外伝(巻第二)』からです。
子夏(卜商)が『書書経』を読み終えた時、孔子が問いました「汝は『書』について語ることができるか?」
子夏が答えました「『書』と物事の関係は、日月の光明のように物事を明るく照らし、星辰(星々)が行き交うように煌々と輝いています。上は堯舜の道から下は三王夏王朝の大禹。商王朝の成湯。周王朝の文王・武王)の義に達しています。弟子(私)が夫子(先生。孔子の『書』から学んだことは、心に記憶して忘れることがありません。たとえ蓬戸(貧しい家)で暮らしていても、琴を弾いて先生の風(道)を歌えば、人が一緒にいれば愉快になり、人がいなくても楽しむことができ、学業に発奮して食(飢え。貧困)を忘れることもできます。『詩(国風・陳風・衡門)』にはこうあります『衡門(横木だけの門。貧しい家の意味)の下でもゆっくり休み、泌水が滔々と流れて飢えをいやすことができる(衡門之下,可以棲遲。泌之洋洋,可以療飢)(これと同じ境地です)。」
孔子が突然顔色を変えて言いました「吾子(汝)も『書』について語ることができるようになった。しかし子(汝)はその表を見ているが、裏(中)を見るには至っていない。」
それを聞いた顔淵が問いました「既に表を見たのに、裏にも何かがあるのでしょうか?」
孔子が言いました「門の中を窺っても、その中に入らなければ奥に隠されている物を知ることはできない。但し、隠されている物事を理解するのも難しいことではない。丘孔子の名)は全心を尽くしてその中に入った。前に高い崖があり、後ろに深い谷があったとしても、平然と立っているだけだ(どんなに困難があっても心を尽くせば奥に秘められた物を理解することができる)。」
 
『孔叢子・論書(第二)』からです。
子夏が『書』の大義について質問しました。
孔子が言いました「私は『帝典(『堯典』と『舜典』。『尚書』の篇名。以下も同じです)』によって堯・舜の聖を明らかにした。『大禹謨』『皋陶謨』『益稷』によって禹、稷、皋陶の忠勤功勲を明らかにした。『洛誥』によって周公の徳を明らかにした。このようであるから、『帝典』は美を観ることができ、『大禹謨』『禹貢』は事を観ることができ、『皋陶謨』『益稷』は政を観ることができ、『洪範』は度(準則。道理)を観ることができ、『秦誓』は義を観ることができ、『五誥(大誥・康誥・酒誥・召誥・洛誥)』は仁を観ることができ、『甫刑』は誡を観ることができる。この七者に通じたら、『書』の大義を理解したことになる。」
また、孔子はこうとも言いました「『書』と物事の関係は、遠くても粗略にならず、近くても圧迫せず、志(意思)を尽くして怨むことなく(または「怨まれることなく」)、言葉が従順になっても媚びることがない(遠而不闊,近而不迫,志尽而不怨,辞順而不謟)。私は『高宗肜日』によって徳があれば報いが速いことを明らかにした。道に則れば仁に至り、遠方が志に帰して(遠方が帰服して)敬意を表す。私は『洪範』によって君子が人の悪を語ったり人の美をけなすのを嫌うことを明らかにした。」
 
 
『説苑・雑言(巻十七)』からです。
ある日、東郭子恵が子貢に聞きました「夫子(あなたの先生。孔子の門はなぜ雑(雑乱。統一していないこと)なのですか?」
子貢が答えました「隠(隠栝。矯正する器具)の近くには枉木(曲がった木)が多く、良医の門には疾人(病人)が多く、砥砺(研ぎ石)の近くには頑鈍(切れ味が悪い刃物)が多いものです。夫子は道を修めて天下の人を待っているので、来る者が絶えません。だから雑なのです。『詩(小雅・小弁)』には「柳が密集し、蝉が鳴き続ける。深い淵が広がり、葦が生い茂る菀彼柳斯,鳴蜩嘒嘒,有漼者渊,萑葦淠淠)」とありますが、大きな者は周りの全てを許容できるのです。」
 
 
『説苑・尊賢(巻八)』からです。
孔子が閑居(人を避けて生活すること。隠居)していた時、嘆息して言いました「銅鞮伯華が生きていたら天下は安定しただろう。」
子路が問いました「それはどのような人物ですか?」
孔子が言いました「彼は幼い頃から聡明で学問を好み、壮年になってからは勇敢で屈することがなく、年老いてからは道に通じて人の下になることができた。」
子路が問いました「幼い頃から聡明で学問を好んだというのは理解できます。壮年になってから勇敢で屈することがなかったというのも理解できます。しかし道に通じながらなぜ人の下になるのですか?」
孔子が言いました「由子路の名)には分からないだろう。多数によって少数を攻めたら消滅できないはずがなく、高貴な者が卑賎な者より下になったら(謙虚になったら)得られない物はないという。昔、周公旦が天下の政治を行った時、七十人の士にへりくだって接したが、周公は道に通じていなかったのか?そうではなく、士を得たいと思ったからだ。道に通じており、しかも天下の士にへりくだることができる人物こそ、君子というものだ。」
 
『説苑・敬慎(巻十)』からです。
成回が子路に三年学びました。成回は老齢でしたが、その態度はとても恭敬です。子路がその理由を聞くと、成回はこう答えました「行者(行人。活きている人)は鳥と同じだといいます。上は鷹鸇(凶暴な鳥)を恐れ、下は網羅(狩猟の網)を畏れます。人というのは善が少なく、讒言が多いものですが、生きている限り、禍罪が迫っていることに気がつきません。私は既に七十歳になりましたが、常に自分の行節(行動。節度)に欠陥がないかと恐れています。だから恭敬によって大命(天命)を待っているのです。」
子路は稽首して「あなたは君子です」と言いました。
 
 
次回は『史記』の記述を紹介します。