春秋時代282 東周敬王(五十一) 呉と魯・衛の会 前483年

今回は東周敬王三十七年です。
 
敬王三十七年
483年 戊午
 
[] 春正月、魯が田賦の制度を定めました(前年参照)
 
[] 夏五月甲辰(初三日)、魯の昭夫人(昭公夫人。哀公の嫡母)孟子が死にました。孟子は呉の女性です。
当時の女性は通常、名称の後ろの一字を姓にしました。「孟子」の場合、呉は姫姓なので「孟姫」、または出身国を前において「呉姫」となるはずです。
しかし魯も呉と同じ姫姓です。名目上は同姓の婚姻が禁止されていたため、「孟姫」と称さず、「孟子」と称されました。
 
孔子が弔問に行きました。
季氏の家を訪問した時、季氏は絻をしていませんでした。絻というのは冠を脱いで頭巾で髪を束ねることで、葬礼の一つです。孔子は季氏が喪に服していないと判断し、絰を脱いで拝礼しました。絰とは麻葛で作った喪服です。楊伯峻の『春秋左伝注』によると、当時の葬礼では、主人が拝礼しても賓客は拝礼しなかったようです。孔子が季氏の家を訪ねたので、季氏が主人、孔子が賓客になります。その主人が喪に服していなかったため、孔子も葬礼を棄てて季氏に拝礼を返しました。婉曲に季氏の非礼を非難しています。
 
[] 呉が兵を北に進めました。『国語・呉語』からです。
王・夫差が申胥伍子胥を殺してから一年足らずで北征の兵を興しました。
深溝を穿って商(宋)と魯の間を繋げ、北は沂水、西は済水に通じさせます。
呉王・夫差は魯哀公と会し、翌年には晋と黄池で会盟します。
 
呉王・夫差と魯哀公による橐皋呉地の会を『春秋左氏伝(哀公十二年)』からです。
呉王・夫差が大宰(太宰)・嚭(伯嚭)を派遣し、魯哀公に過去の盟約を確認して新たな盟約を結ぶように要求しました。
しかし哀公は同意せず、子貢を送って答えました「盟とは信を固めるためにあります。だから心(誠心)によって制し、玉帛によって奉じ(玉帛を奉納し)、言によって結び、明神によって約束するのです。寡君は既に盟が結ばれていると考えています。それを改める必要はありません。もし改めるというのなら、毎日、盟を結んでも、何の益もありません。吾子(あなた)は『過去の盟を温めなければならない(原文「必尋盟」。この「尋」は「温める」「改めて確認する」の意味)』と言っていますが、もし温めることができるのなら、冷ますこともできるでしょう(若可尋也,亦可寒也)。」
新たな盟は結ばれませんでした。
 
呉が衛を会に招きました。
以前、衛は呉の行人(外交官。使者)・且姚を殺したことがあったため、出公は呉を恐れて行人(外交官。ここでは国君が外出した時に補佐する官)の子羽(大夫)に相談しました。子羽が言いました「呉は無道なので、我が君を辱めるでしょう。行くべきではありません。」
子木(大夫)が言いました「呉は無道です。国が無道なら、必ず人に害を与えます。但し、呉は無道ですが、衛の憂患となる力は充分あります。行くべきです。長木(大木)が倒れたら必ず打撃を受け、国狗(比類ない犬)が狂ったら必ず人にかみつきます。相手が大国ならなおさら危険です。」
 
秋、衛出公が(または「運」。詳細位置は不明。恐らく魯の近く)で呉と会しました
魯公(哀公)と衛侯(出公)および宋の皇瑗が盟を結びます。呉の参加を避けるため、秘かに行われました。
 
呉人が衛出公の館舍を包囲しました。
それを知った魯の子服何子服景伯)が子貢に言いました「諸侯が会して既に事は終わった。侯伯(盟主。呉)が致礼(賓客をもてなすこと)し、地主(会を開いた土地の主)が帰餼(食物を贈ること)して互いに別れを告げた。しかし今、呉が衛に対して礼を行わず、その君の館舍を包囲して難を与えた。子(汝)は大宰(伯嚭)に会うべきではないか?」
子貢は束錦(五匹の錦)を子服何に請い、伯嚭に会いに行きました。
子貢が伯嚭に衛の事を話すと、伯嚭が言いました「寡君は衛君に仕えたい(同盟を結びたい)と思っているが、衛君が来るのが遅かったため、寡君は(衛が背くことを)恐れて留めたのだ。」
子貢が言いました「衛君はここに来る前に衆(臣下)と相談したはずです。一部の衆は賛成し、一部の衆は反対したから、来るのが遅くなったのです。賛成した者は子(あなた)の党(味方)です。反対した者は子の讎(敵)です。もし衛君を捕えたら、自分の党を潰して讎をあがめることになります。それでは子を倒そうとしている者が志を得ることになります。また、諸侯を集めながら衛君を捕えたら、誰が恐れないでしょうか。党を潰し、讎をあがめ、諸侯を恐れさせたら、霸を称えるのが困難になります。」
伯嚭は諫言に喜び、衛出公を赦しました。
 
帰国した衛出公は夷言(夷の言葉。呉語)を真似しました。まだ若い子之(公孫彌牟。文子)が言いました「国君は禍から逃れることができず、夷の地で死ぬだろう。彼等に捕えられながらその言葉を真似するとは、夷に従う(夷の地に遷る)ことになって当然だ。」
 
衛と呉の事件は『淮南子』にも書かれています。上述の『春秋左氏伝』とは少し異なります。別の場所で紹介します。

[] 越の出来事を『史記・越王句践世家』からです。
句践が范蠡を召して「呉が既に子胥を殺した。残っているのは導諛(阿諛追従)ばかりだ。呉を討てるのではないか」と問いました。
しかし范蠡は「まだです」と答えました。
 
『国語・越語下』には二人の詳しい会話が紹介されています。『史記』とは内容が異なります。
越王・句践が范蠡に問いました「わしが子(汝)と呉について謀った時(前年)子は『まだその時ではありません』と言った。今、呉は稻も蟹も全て食べ尽くしたが(呉を飢饉が襲ったが)、まだ無理だろうか?」
范蠡が答えました「天応は至りましたが、人事がまだ尽きていません。暫く待つべきです。」
句践が怒って言いました「道(道理)とはそういうものなのか?それとも不穀(国君の自称)を欺いているのか?わしが子と人事について話した時は、子はわしに天の時に応じるように勧めた。しかし今、天応が既に至ったのに、子はわしに人事に応じる必要があるという。何故だ?」
范蠡が答えました「不思議なことはありません。人事とは必ず天地と合致しなければならず、合致してからやっと成功を得られるのです。今は呉の禍が起きたばかりなので、民が警戒しています。君臣上下が皆、資財(食糧・物資)が不足しているので長く堪える力がないことを知っています。(今、我々が攻撃したら)彼等は力を合わせて死力を尽くすので、我々が危険に陥ります。王は暫く弋猟(狩猟)に明け暮れてください。しかし本当に狩猟に没頭してはなりません。暫く宮中で楽しんでください。しかし本当に酒に浸ってはなりません。暫く大夫と宴を開いて遊んでください。しかし本当に国常(国の法。政治)を忘れてはなりません。そのようにすれば呉の上にいる者達は(警戒を解いて)その徳を薄くし、民は力を尽くして疲弊するようになります。民が上を怨んでも食糧を得ることができなくなった時、呉に天地の殛(誅)をもたらすことができます。王は暫く待つべきです。」
句践は納得しました。
 
[] 宋と鄭の間には隙地(空白地。未開の地)がありました。彌作、頃丘、玉暢、、戈、鍚といいます。
かつて鄭の子産が宋と講和した時、こう言いました「これらの地は必要ない。」
しかし東周敬王二十五年(前495年)鄭は宋から出奔した公子・地が住む場所を得るために、罕達に命じて宋を攻撃させました。恐らくこの頃、宋の平公と元公の一族も䔥から鄭に出奔しました。
鄭は宋から来た亡命者のために、、戈、鍚に城を築きました。
 
九月、宋の向巣が鄭を攻めて鍚を占領し、元公の孫を殺しました。
更にを包囲します。
 
冬十二月、鄭の罕達がを援けました
丙申(二十八日)、鄭軍が宋軍を包囲しました
 
[] 魯で螽(蝗)の害がありました。
蟲の害は通常、秋に起きるものです。そこで季孫肥が仲尼孔子に問いました。仲尼が言いました「火(大火星)が伏したら(天に見えなくなったら。通常、夏暦十月になったら見えなくなります。夏暦十月は周暦十二月に当たります)、虫は全て蟄(冬眠)するものです。しかし今はまだ火(大火星)が西に流れています(西方に見えます)。これは司暦(暦を担当する官)の過ちです。」
暦上は周暦十二月、夏暦十月になりましたが、まだ大火星が見えるので、暦が間違っているという意味です。
 
[] 『史記・楚世家』によると、この年、楚の白公・勝が令尹子西討伐を求めました。子西は同意しましたが、兵を発しませんでした東周敬王四十一年・前479年に再述します)
 
 
 
次回に続きます。