春秋時代283 東周敬王(五十二) 黄池の会 前482年

今回は東周敬王三十八年です。
 
敬王三十八年
482年 己未
 
[] 春、鄭軍に包囲された宋軍を救うため、向魋が救援に向かいました。
鄭の子賸が軍中に宣言しました「桓魋(向魋)を捕えた者には賞を与える。」
それを知った向魋は逃走しました。
 
鄭軍はの地で宋軍を全滅させて成讙と郜延(どちらも宋の大夫)を捕えました。六邑は再び空白地にしました。
 
[] 夏、許男・成(または「戌」。元公。悼公の孫)が死にました。子の結が跡を継ぎます。結は諡号が伝わっていません。
 
[] 呉王・夫差が周の卿士・単平公(単武子の子)、晋定公、魯哀公と黄池で会しました。単公が参加したのは、斉桓公や晋文公のように尊王によって覇権を確立するためです。
この時が呉の最盛期で、『史記・秦本紀』には「呉が強くなり、中原を虐げる(呉彊,陵中国)」とあります。しかしすぐに越の反撃が始まります。
 
[] 楚の公子・申が陳を攻撃しました。
 
[] 越王・句践が呉の隙を突いて挙兵しました。『国語:越語上』からです。
越は倹約に勤めて国力を蓄え、十年間税を徴収せず、民は三年の食糧をもつようになりました。
越国の父兄(年長者)が句践に請いました「かつて夫差が我が君を諸侯の国(諸侯の面前)において辱めました。今、越国には節(節度。正しい状態。正常な国力)があります。怨みに報いさせてください。」
句践が言いました「以前の戦いは、二三子(汝等)の罪ではない。寡人の罪だ。寡人のような者が、汝等と恥を共にする資格はない。戦の事は言うな。」
父兄が言いました「越の四封の内(国境内)では、人々は我が君を父母のように慕っています。子は父母の仇に報いたいと思い、臣下は国君の讎に報いたいと思うものです。力を尽くさない者はいません。再戦の機会をください。」
句践は人々の要求に応じ、民衆を集めて誓いました「古の賢君は、衆(兵)の不足を憂いず、その志行(徳行)が少ないことを恥じたという。今、夫差は水犀の甲を着る者が億有三千(十万三千)もいるのに、志行が少ないことを恥じず、衆が不足していることを憂いている。よって寡人は天を助けてこれを滅ぼすつもりだ。わしは匹夫の勇(功を求めて軽率な者)を必要とせず、共に進み、共に退くことを要求する。進めば賞を思い、退いたら刑を思うような者に常賞(通常の褒賞)を与えよう。命に従わずに進んだり退くことを恥としない者には常刑を与えよう。」
越軍が動き出すと、国人は皆奮起し、父は子を、兄は弟を、婦人は夫を励まし、こう言いました「どこにこのような国君がいるだろう。国君のために死ななくていいのか。」
 
以下、『春秋左氏伝(哀公十三年)』からです。
六月丙子(十一日)、越王・句践が二路から呉を攻撃しました。疇無餘と謳陽(二人とも大夫)が南方から進み、先に呉の郊外に至ります。
呉の太子・友、王子・地、王孫彌庸と寿於姚が泓水呉地の辺で越軍の動きを観察しました。
彌庸が姑蔑(越の地名)に立っている旗を見て言いました「あれは我が父の旗だ(彌庸の父は越に捕えられ、その旗が姑蔑人に奪われたようです)。讎を見ながら殺さないわけにはいかない。」
太子・友が言いました「戦って勝てなかったら亡国を招く。暫く待て。」
しかし彌庸は同意せず、徒(兵)五千を集めました。王子・地が彌庸を援けます。
乙酉(二十日)、呉越両軍が戦いました。彌庸は疇無餘を捕え、王子・地も謳陽を捕えます。
その後、越王・句践の本隊が到着したため、王子・地は守りを固めました。
 
丙戌(二十一日)、両軍が再戦し、呉軍が大敗しました。太子・友、王孫彌庸、寿於姚が捕えられます。『史記・越王句践世家』によると、太子・友は殺されたようです。
王子・地は守りを固めていたため、捕虜になりませんでした。
 
丁亥(二十二日)、越軍が呉境内に入りました。
人が黄池にいる夫差に敗報を届けます。夫差は諸侯に聞かれることを恐れ、報告に来た七人を自ら幕下で斬りました。
 
秋七月辛丑(初六日)、黄池で盟を結ぶことになりました。呉と晋が歃血(犠牲の血をすするか口の傍に塗る儀式)の順番を争います。
呉人が言いました「周室においては我々が長だ。」
呉の祖は太伯で、太伯は古公亶父の長子、季歴の兄、文王の伯父に当たります。晋の祖・虞は武王の子で成王の弟です。
晋人が言い返しました「姫姓においては、我々が伯だ。」
伯は覇者の意味です。晋は文公以来、中原の覇者として諸侯に君臨しています。
 
晋の趙鞅が司馬寅に言いました「日が晩くなったのに大事が成らないのは二臣(趙鞅と司馬寅)の罪だ。戦鼓を立てて隊列を整え、二臣が死ねば(死力を尽くして呉軍と戦えば)、長幼(歃血の序列)も決まるだろう。」
司馬寅が言いました「私に様子を探らせてください。」
暫くして戻った司馬寅が言いました「(呉の陣営は)肉を食べる者(大夫以上の者)に墨(暗気。意気消沈した様子)がないのに、呉王には墨があります。本国が敗れたのでしょうか。太子が死んだのでしょうか。夷の徳(本性)は軽率なので、長く我慢することはできないはずです。もう少し待ちましょう。」
国内で異変があった呉は早急に会盟を済ませて帰国しなければならないため、晋に先を譲りました。
 
以上は『春秋左氏伝(哀公十三年)』の記述です。
『国語・呉語』は呉が先に歃血を行ったとしています。『史記』では、『秦本紀』『晋世家』『趙世家』は呉が先、『呉太伯世家』は晋が先となっています。
 
人が魯哀公を連れて晋定公に会見しようとしました。
子服何(景伯)が呉の使者に言いました「王(天子)が諸侯を集めたら伯(諸侯の長。覇者)が侯牧(諸侯)を率いて王に会見し、伯が諸侯を集めたら侯が子男を率いて伯に会見するものです。王を始めとして、朝聘に用いる玉帛は異なります。敝邑(魯)の呉に対する職貢(貢物)が晋よりも豊富なのは、呉を伯としているからです(晋の覇権が衰えてから魯は呉に附いています)。今、諸侯が会しましたが、貴君は寡君を連れて晋君に会いに行こうとしています。これでは晋が伯になってしまうので、敝邑も職貢を改めなければなりません。魯は八百乗の国として(当時の魯の兵力は戦車八百乗です)貴国に(貢物)を納めていますが、子男の国になったら(呉が魯を連れて晋と会見したら、晋が伯、呉が侯、魯は子男になります)、邾国(六百乗の国)の半分(三百乗の国の貢物)を呉に納め、邾の数(六百乗の国の貢物)を晋に納めて仕えることになります。執事(呉の執政者。呉王・夫差)は伯として諸侯を集めたのに、侯として終わるのでは、何の利があるというのでしょうか?」
呉人は中止しました。
しかし暫くして後悔したため、子服何を捕えようとしました。子服何が言いました「何(私)は魯で自分の後継者を立ててからここに来ました(魯に跡継ぎを残しているので、自分が呉に行っても家は潰れません)。二乗の車と六人の従者を連れて(呉に)従うつもりです。すぐ(呉に)行くかゆっくり行くかは命に従うだけです。」
呉は子服何を捕えて帰還しました。
戸牖(地名)まで来ると、子服何が伯嚭に言いました「魯は十月上辛(上旬の辛日)に上帝と先王(魯が実際に祭るのは先公です。先王は開国時の周王にあたり、呉の先祖とも共通するため、敢えて先王と言ったようです)を祀り、季辛(下旬の辛日)に終わります。何(私)は代々祭祀の職を勤めてきました。それは襄公以来、変わりありません。もしも私が参加しなかったら、祝宗が『これは呉のせいである』と言うでしょう(魯の祝宗は呉の罪を上帝や先王に報告するでしょう)。また、貴国は魯が恭敬ではないと譴責していますが、賎者七人(子服何と六人の従者)を捕えただけで、魯に何の損失があるでしょう(魯を罰したことにはなりません)。」
太宰・嚭が呉王・夫差に言いました「魯に損失はなく、悪名を成すだけです。帰すべきです。」
子服何は釈放されました
 
呉の大夫・申叔儀が魯の大夫・公孫有山氏(有山は魯の大夫の邑。邑名を氏にしたようです)に食糧を求めると、有山氏が言いました「佩玉を持っているのに縛るところがない。旨い酒が一杯あるが、私と貧しい老人はそれを眺めるしかない(佩玉兮,余無所繋之。旨酒一盛兮,余與褐之父睨之)。」
有山氏が貧困な状態にあるという意味です。
申叔儀が言いました「梁(細糧)は既に尽きたが、麤(粗糧)ならまだある。首山に登って『庚癸』と叫べば提供しよう。」
軍中の食糧は勝手に持ち出しができないため、隠語を使っています。『庚癸』の『庚』は穀物、『癸』は水を指すようです。または、甲乙が上等な貨物、庚は中等、癸は下等を指すともいいます。
 
宋が黄池の会に参加しなかったため、呉王・夫差が宋を討伐し、男を殺して女を捕まえようとしました。しかし太宰・伯嚭が言いました「勝てるでしょう。しかし長く滞在することはできません。」
呉王は中止して帰国しました。
 
以上は『春秋左氏伝』の記述です。『史記・呉太伯世家』から呉の様子です。
呉王・夫差は会盟を済ませて晋と別れると、宋を攻撃しようとしました。しかし太宰嚭が「勝てますが住むことはできません」と言ったため、兵を率いて帰国しました。
呉は太子・友を失い、国内が空虚となっていました。夫差は遠征して長く国外におり、士兵が疲労しています。呉はやむなく厚幣を贈って越と講和することにしました。
 
黄池の会から越の反撃に関して、『国語』や『史記』にも記述がありますが、別の場所でまとめて書きます。
 
[] 秋、魯哀公が黄池の会から還りました。
 
[] 晋の魏曼多が衛を攻めました。
 
[] 許が元公を埋葬しました。
 
[] 九月、魯で螽の害がありました。
 
[] 冬、呉と越が講和しました
 
[十一] 十一月、孛星(彗星)が魯の東方に現れました。
 
[十二] 陳の夏区夫(または「夏彄夫」)が賊に殺されました。
これは『春秋』経文の記述です。『春秋左氏伝』には書かれていないため、詳細が分かりません。
 
[十三] 十二月、魯で螽の害がありました。前年と同じく、暦に問題があったのかもしれません。
 
 
 
続きは次回です。