春秋時代285 東周敬王(五十四) 斉の内乱 前481年(2)

今回は東周敬王三十九年の続きです。
 
[] 小邾の大夫・射が句繹を挙げて魯に降りました。
射が魯に言いました「季路子路孔子の弟子)と約束をさせていただければ、盟を結ぶ必要はありません。」
子路は誠実で裏切らないことで知られていたため、大夫・射は魯に帰順する際の盟約を結ぶよりも、子路との口頭の約束を求めました。
魯が子路を派遣することにしましたが、子路は辞退しました。
季孫肥(康子)が冉求冉有を送って子路にこう伝えました「千乗の国(魯)の盟を信じず、子(汝)の言を信じるというのに、子はなぜそれを恥辱とするのだ?」
子路が言いました「魯と小邾の間に事(戦争)が起きても、私にはその理由を問うことができず、城下で死ねれば充分です(今後、戦争が起きたとしたら、魯が射を受け入れたことが原因なので、小邾の曲直を正すことができません。射を受け入れて戦争を招くという罪を犯したので、国のために死ねるだけでもましです。小邾を非難できません)。彼は不臣(臣としての道を尽くさないこと)でありながら、その言を実現させようとしています(射が子路に魯への帰順を約束すれば、射も子路に要求を出すはずです。射を受け入れたら要求を満足させなければなりません)。これでは彼を義(正義)としてしまいます。そのようなことは、私にはできません。」
 
[] 夏四月庚戌(二十日)、魯の叔還が死にました。
 
[] 五月庚申朔、日食がありました。
 
[] 『資治通鑑外紀』はここで『韓非子・説林上(第二十二)』から斉の陳恒(田恒。田常。成子)に関する故事を紹介しています。
陳恒は陳乞の子です。西漢文帝の名が劉恒だったため、皇帝の名「恒」を避けて漢代は「常」に置き換えられました。西漢時代に書かれた『史記』は「田常」としています。
 
隰斯彌が田成子に会いに行き、田成子と一緒に台に上って四方を見渡しました。三面は何もなく遠くまで眺めることができましたが、南面は隰子の家の樹木が茂って視界を遮っています。田成子は何も言いませんでしたが、不快になったと察した隰子は、家に帰ると家人に命じて樹木を伐らせました。
ところが樹木に数回斧が入れられたばかりの時、隰子は中止を命じます。相室(家を管理する者)が問いました「なぜすぐに指示を変えたのですか?」
隰子が言いました「古にこういう諺がある『深い淵の中に魚がいることを知った者は不祥(不吉。不幸)になる(知淵中之魚者不祥)』。田子は大事を行おうとしている。わしが彼の内心を察したと知ったら、わしが危険になる。木を伐らなくても罪にはならないが、人が話していないことを知ったら、大きな罪(禍)になる。」
こうして中止されました。
 
[] 『史記・田敬仲完世家』から当時の斉の様子です。
(田常)監止闞止。子我。『史記・田敬仲完世家』は「子我監止宗人」としていますが誤りです。子我と監止は同一人物ですと共に政事を行っていました。
しかし、斉簡公(悼公の子・壬)魯にいた頃(東周敬王三十一年・前489年)から闞止(子我)を寵信していたため、田恒が憂いました。
そこで恒は田釐子(田乞)の政治を再び行い、大斗(大きな容器)穀物を貸し出して小斗で徴収することにしました
は民衆が田氏に帰心する様子を描いて老婦が野菜を採り、田成子に贈る嫗乎采芑,乎田成子と歌いました。
 
以下、『田敬仲完世家』と『春秋左氏伝哀公十四年)』からです。
闞止に対して安心できない陳恒(田恒)は過剰に反応し、朝廷で何度も振り返って闞止を見るほどでした。
そのような姿は他の者にも異変が近いことを伝えました。
御者・鞅(『史記・田敬仲完世家』の注によると鞅は名で田氏の一族)が簡公に言いました「陳氏(田氏)と闞氏が並存することはできません。主公はどちらかを選ぶべきです。」
簡公は忠告を聞きませんでした。
 
ある日の夕方、闞止が簡公を謁見しました。
この頃、陳逆(字は子行。陳氏の宗族)が人を殺しました。闞止が簡公に会いに行く途中、ちょうど陳逆に遭ったため、捕えて公宮に入りました。
陳氏(田氏)は親族間の関係が深かったため、陳逆に病だと偽らせ、潘沐(米汁。髪を洗うのに使います。病人なので清潔にする必要があったのかもしれません)を送りました。あわせて酒肉を用意し、囚人を監視する役人にふるまいます。暫くして陳氏の人々は酔った役人を殺し、陳逆を逃走させました。
闞止は陳逆に逃げられたため、陳氏の報復を恐れます。そこで陳氏と和解するために、陳氏の宗主の家で盟を結びました。
 
以前、陳豹(字は子皮。陳恒の一族)が闞止の家臣になろうとして公孫(斉の大夫)に自分を推挙させました。しかし陳氏に喪事があったため、一時中断します。
喪が明けてから、公孫が闞止に言いました「陳豹という者がおり、背が高く上僂(猫背)で、いつも上を視ています。君子に仕えたら必ず君子の志を得ることができます(君子の意を汲むことができます。君子を満足させることができます)。彼は子(あなた)の臣になりたいと思っていますが、その為人(人となり。行為)が気に入らないことを恐れて今まで報告しませんでした。」
闞止が言いました「汝が心配することはない。(汝が紹介すれば用いるかどうかは)私が決める。」
陳豹は闞止に仕えることになりました。
 
後日、闞止が陳豹と政治について語り、とても満足しました。闞止は陳豹を寵信してこう言いました「わしは陳氏を全て駆逐して汝を立てようと思うがどうだ?」
陳豹が言いました「私は陳氏の遠支です(主に立つ資格はありません)。また、違者(闞止に逆らう者)は数人に過ぎません。なぜ全てを駆逐する必要があるのでしょう。」
陳豹はこのことを陳氏に告げました。
陳逆が陳恒に言いました「彼(闞止)は国君を得ています。先に動かなければ子(あなた)に禍が及びます(『史記・田敬仲完世家』は陳豹が田氏に言った言葉としています。田氏は陳恒を指します)。」
陳逆は陳恒が事を起こした時に内応するため、公宮に住むことにしました。
 
夏五月壬申(十三日)、陳恒兄弟四人が車に乗り(または「四乗の車に兄弟が二人ずつ乗り」。陳恒は八人兄弟です。成子・陳恒の他に昭子・荘、簡子・歯、宣子・夷、穆子・安、丘子・意茲、芒子・盈、恵子・得がいました。車に乗ったのが八人ならこの八人になります。車に乗ったのが四人だとしたら陳恒以外の三人が誰かは分かりません。『春秋左氏伝』の原文は「成子兄弟四乗如公」。『史記・田敬仲完世家』は「田常兄弟四人」としています)、簡公に会いに行きました。
 
(聴政する場所)にいた闞止が陳恒兄弟を迎え入れるために門を出ました。すると陳恒兄弟が中に入って門を閉めました。闞止は中に入れなくなります(『史記・田敬仲完世家』は「田常兄弟四人公宮に入って子我を殺そうとしたため、子我を閉じた」としています。公宮から出ていません)
簡公の侍人が変事を覚って陳恒一行の防ごうとしましたが、公宮に住んでいた陳逆が内応して侍人を斬りました。
簡公は婦人と檀台で酒を飲んでいました。陳恒は簡公に寝室へ移るように要求します。簡公が戈を持って陳恒を撃とうとすると、大史(太史)・子餘(陳氏の党)が言いました「主公の不利になることを行うのではありません。害を除こうとしているのです。」
 
陳恒は府庫に住むことにしましたが、簡公が怒っていると聞いて(『史記・田敬仲完世家』は「田常は公宮を出てから簡公の怒りを知った」としています)出奔を考え、「どこなら国君がいないだろう?」と言いました。
どこの国にも国君はいます。斉の国君の影響が及ばない場所に行きたいという意味でしょうか。あるいは、国君が存在しない全く異なる地に行きたいという意味かもしれません。
陳逆が剣を抜いて言いました「需(躊躇)は事の賊です(躊躇していたら大事が失敗します)。誰が陳宗(陳氏の宗族)ではないでしょう(陳氏の宗族は多いので、力は充分足りています)。子を殺さなかったら(陳恒を逃走させたら)、陳宗(陳氏の歴代宗主)の咎を受けることを誓います(陳恒が逃げるのなら殺すしかないという意味です)!」
陳恒は出奔をあきらめました。
 
闞止は公宮に入れなくなったため、自分の家に帰って私卒を集めてから公宮の闈(小門)と大門を攻めました。しかし勝てなかったため逃走します(『史記・田敬仲完世家』では、闞止は公宮内にいます。田常が公宮から帰ってから改めて子我を攻撃したため、子我も徒卒を率いて田氏を攻めましたが、破れて逃走しました)
 
陳氏が闞止を追撃しました。
闞止は弇中(臨淄西南の地名)で道に迷い、豊丘に至りました。豊丘は陳氏の邑です。
豊丘人が闞止を捕えて報告し、陳恒は郭関(斉の郭門。外城の門)で闞止を処刑しました。
 
陳恒が闞止の党に属す大陸子方(東郭賈。姜姓で陸郷を食邑にしたため大陸を氏にしました)を殺そうとしましたが、陳逆が命乞いをしたため釈放しました。
大陸子方は斉から出奔するため、簡公の名義を使って道中で車を手に入れ、耏に至りました。耏は斉都の西に位置し、魯との国境付近にあります。
耏の人々(恐らく陳氏に属します)は大陸子方が簡公の命を偽って西に来たと知り、車を奪って東に帰らせました。
一度戻った大陸子方が雍門(斉の城門)を出た時、陳豹が大陸子方を援けて車を与えようとしました。しかし大陸子方は断ってこう言いました「陳逆が私のために命乞いをし、陳豹が私に車を送ったら、私と陳氏の間に個人的なつながりができます。しかし子我(闞止)に仕えながら讎人と個人的に交わったら、魯や衛の士に会わせる顔がありません。」
大陸子方は再び西に向かって衛に奔りました。
 
庚辰(二十一日。『春秋』経文は「夏四月」としていますが、『春秋左氏伝』では「五月」です)、陳恒が簡公を舒州(または「俆州」「徐州」)に幽閉しました。
簡公は「早く鞅の言に従っていれば、このような事にはならなかった」と言いました。
 
[] 陳の宗豎が楚に出奔しました。
これは『春秋』経文の記述です。『春秋左氏伝』には書かれていないため、詳細は分かりません。
 
 
 
次回に続きます。