春秋時代 楚の出来事(前)

東周敬王十三年507年)に『資治通鑑外紀』が『国語』を元に楚の出来事を書いています。
二回に分けて紹介します。
 
まずは『国語・楚語下』からです。
楚の大夫・王孫圉が晋に聘問しました。晋定公が宴を開いて王孫圉をもてなします。趙簡子(趙鞅)が鳴玉(ぶつかり合うときれいな音がする佩玉)を帯びて(国君の補佐)となり、王孫圉に問いました「楚の白珩(楚の有名な玉)はまだありますか?」
王孫圉は「あります」と答えました。
趙簡子が問いました「あれは宝です。何代になりますか?」
王孫圉はこう答えました「我々はあれを宝とはみなしていません。楚にとって宝とは、まず観射父(楚の大夫)のような人材を指します。彼は訓辞に優れ、諸侯と交わることができので、寡君が諸侯に貶められることがありません。また、左史の倚相は訓典(典籍)に精通し、百物について語ることができ、朝から晩まで寡君に事の得失を説いているので、寡君は先王の業を忘れることがなく、天地の鬼神に喜ばれ、鬼神の欲悪(好悪)に従っています。そのおかげで楚国が鬼神に怨まれることはありません。さらに雲連徒洲(雲夢沢)という藪があり、金(金属)・木・竹箭(竹矢)を産出しています。亀(卜に使う亀)・珠(珠玉は火災を防ぐといわれていました)・角(動物の角。弓弩になります)・歯象牙。弓の装飾に使います)・皮虎豹の皮)(犀の皮。甲冑を作ります)・羽毛(鳥の羽と牛の尾。どちらも旗に使います)は兵賦(軍事物資)の備えとなり、不虞(不測)の禍を防ぐことができます。それらは幣帛(礼物)ともなり、諸侯をもてなす時にも使えます。諸侯が幣具(礼物)を過度に求めても、訓辞によって諸侯を導き、不虞の備えがあって皇神(大神)の助けも得ているので、寡君は諸侯の罪を得ることがなく、国民も安定しています。これらこそ楚国の宝です。白珩のような物は先王の玩具に過ぎず、宝とはいえません。
国の宝は六種類しかないといいます。明王・聖人が礼法を制定し、百物を議して国家を補佐することができるようなら、それは宝です。玉(祭祀で使う宝玉)が嘉穀(豊作)を守り、水旱の災を招かないようなら、それは宝です。亀が臧否(吉凶)を明らかにすることができるのなら、それは宝です。珠玉が火災を防ぐことができるのなら、それは宝です。金(金属。兵器)が兵乱を防ぐことができるのなら、それは宝です。山林や藪沢が財用の備えとなるのなら、それは宝です。音を響かせて外観が美しいだけの物は、蛮夷の楚といえども宝とみなすことはありません。」
 
 
『国語・楚語上』からです。
左史(史官)・倚相が元老の申公・子亹に進言しようとしましたが、子亹は会おうとしませんでした。倚相が子亹を非難します。大夫・挙伯がそれを子亹に告げたため、子亹が怒って言いました「わしを老耄(老いて耄碌していること。八十歳を耄といいます)とみなして軽視し、謗っているのか!」
すると倚相が子亹にこう伝えました「子(あなた)が老耄だからこそ、お会いして子に忠告したいのです。子がまだ壮年で百事を経営できるようなら、倚相(私)は命を受けて奔走し、それでも満足に任務を果たせないことを恐れるので、子に会っている暇などないでしょう。昔、衛武公は九十五歳になっても国人に命じて自分に警告を与えさせ、こう言いました『卿以下で師長(大夫)・士に至り、朝廷にいる者は、わしが老耄だからといって忠告を止めてはならない。朝廷においては恭しく政務を行い、朝夕、わしに戒めの言葉を与えよ。たとえ一二の言でも、(訓戒の言葉を)聞いたら必ず思えて書きとどめ、報告してわしを訓導せよ。』武公が輿(車)に乗れば旅賁の規(勇士の諫言)があり、朝廷にいれば官師の典(各官の長による法典・制度)があり、几(肘掛け)に寄りかかっている時は誦訓(官名)の諫言があり、寝室に居る時は褻御(近臣)の箴(戒め)があり、事(祭祀や戦事)に臨んだら瞽史(盲目の楽師と太史)の導きがあり、宴居(政務が終わって休んでいる時)には師工(盲目の楽師)の誦(教訓の歌)がありました。史(史官)は書(記録)を失わず、矇(盲目の楽師)は誦(教訓の歌)を失わず、常に訓戒を献上しました。また、『懿戒(『詩経・大雅・抑』を指すようです。武公が自戒のために作った詩といわれています)』を作って自らを戒めたため、彼の死後は睿聖(明聖)な武公と称されることになったのです諡号法によると「武」は「威彊睿徳」の意味とされます)。子(あなた)が睿聖でなくても、倚相にとって害はありません。しかし『周書(おそらく佚書)』にはこうあります『文王は日が傾くまで食事をする暇もなく、小民に恩恵を与えて恭しく政務に励んだ(文王至於日中昃,不皇暇食。恵於小民,唯政之恭)。』文王でも驕慢怠惰になることを戒めたのです。今、子は楚国の元老という立場に頼って安逸を求め、諫言を拒絶していますが、(臣下がこのような状態なら)王はどうなるでしょう。もしもこのような状況が続くようなら、楚を治めるのが難しくなります。」
子亹は恐れて「老(恐らく子亹の名)の過ちであった」と言い、すぐ倚相に会いました。
 
 
次も『国語・楚語上』からです。
司馬・子期が妾を内(正妻)に立てようと思い、左史・倚相に意見を求めて言いました「わしには妾がおる。善良なので笄(正妻がつける衡笄。横長の簪)を与えたいと思うが、如何だろう?」
倚相が言いました「かつて先大夫の子囊が王の命に逆らって謚号を贈り(楚恭王は自分の諡号を「霊」か「厲」にするように遺言しましたが、当時の令尹・子囊はそれに逆らって「恭」という諡号を選びました)、子夕(屈到)は芰が好きだったのに、子木(子夕の子)は祭祀で羊だけを使い、芰を用いませんでした。しかし君子はこれらのことを『遺言に逆らったが道に順じている(違而道)』と評価しました。穀陽豎(豎穀陽)は子反の辛労を想って酒を献上し、その結果、子反は鄢で倒れました(鄢の戦いで敗戦した楚恭王は再戦しようとしましたが、子反が穀陽豎の献上した酒を飲んで酔い潰れてしまったため、再戦の機会を失いました。酔いから醒めた子反は自殺しました)。芋尹・申亥は霊王の欲に従順であり、その結果、霊王は乾谿で倒れました。君子はこれらのことを『主人に従順でも道に逆らっている(従而逆)』と言って批判しました。君子の行いとは、道に順じようとするものです。だから進退周旋が全て道に従っているのです。子木は若敖(子夕)の欲に逆らい、道に従って芰を用いませんでした。吾子(あなた)は楚国を経営しているのに、芰を用いて道を犯そうとしています(妾を正妻に立てることの比喩です)。これが相応しいことでしょうか?」
子期はあきらめました。
 
 

『国語・楚語下』からです。
昭王が大夫・観射父に問いました「『周書尚書・呂刑)』には『重と黎に命じて天地を通じなくした(乃命重黎,絶地天通とあるが、これはどういう意味だ?もしそうしなかったら、民(人)が天に登ることができたのか?」

観射父が答えました「そういう意味ではありません。古は民と神が混合していませんでした(民を掌る官と神を掌る官は別れていました)。民の中でも精明で、精神を統一でき、恭敬かつ中正の者は、その智によって上下(天の神と地の人)の居場所を定め、その聖によって遥か遠くを明るくし、その明(目)によって全てを洞察し、その聡(耳)によって全てを聞きとることができました。そのような者の身に明神が降り、男は覡、女は巫とよばれるようになったのです。彼等は神の居場所と祭位、尊卑の秩序を定め、牲(犠牲の色や大小)・器(祭器)・時服(祭祀の服飾)を規定しました。その後、先聖の後代で光烈(功績・品徳)があり、山川の号(名称)や高祖の主(祖廟の主)、宗廟の事、昭穆の世(先祖の序列)を把握しており、斉敬の勤(壮厳かつ恭敬で勤勉なこと)、礼節の宜(礼節にかなっていること)、威儀の則(威厳・儀容に準則があること)、容貌の崇(容貌が優れていること)、忠信の質(忠信誠実であること)、禋絜の服(祭服が清潔であること)を備えており、明神に対して恭敬である者が祝(太祝)になりました。名姓の後(旧族。先祖の姓名が残されている者)の中でも四時(四季)の生穀物や動物の成長)、犧牲の物、玉帛の類、采服の儀(祭服の決まり)、彝器の量(祭器の数)、次主の度(祖廟の尊卑・遠近の秩序)、屏攝の位(祭祀の場所)、壇場の所(祭壇の場所)、上下の神(天地の神々)、氏姓の出(姓氏の由来)を理解し、旧典に則って専心している者が宗(宗伯)になりました。これらが元になって天・地・神・民・類物(各種の器物を管理すること)の官が生まれました。これを五官といい、各司(各官)には秩序があって、互いに侵すことはありませんでした。そのおかげで民は忠信を語り、神は明徳を明らかにすることができたのです。民と神の事を区別し、それぞれが自分の事業に対して恭敬で怠けることがなかったから、神は嘉生(善物)を降し、民は物を享受し、禍災が至らず、物資が窮乏することもありませんでした。
しかし少皞が衰えると九黎が徳を乱し、民と神の事が分けられなくなりました。人々が勝手に祭祀を行い、家に巫史を設け、誠信を失ったため、民が祭祀に使う物資が欠乏し、神の福を得ることができなくなったのです。その結果、烝享(祭祀)に度(制度。決まり)がなくなり、民と神が同じ位に立つようになりました。民は神との盟誓を疎かにし、神に対する恭敬な態度も恐れる態度も失います。神もそのような人々のやり方に慣れてしまい、清潔を求めなくなりました。そのため、嘉生は降りず、祭祀に献上する物が無くなり、禍災が頻繁に起こり、人々は気(生気)を失いました。
そこで、顓頊は即位すると南正・重に天を主管させて神に属させ、火正・黎に地を主管させて民に属させました。重と黎のおかげで旧常が回復して互いに侵すことがなくなり、天と地を通じる道が途絶えられたのです。更に後になって、三苗が九黎の凶徳を復活させましたが、堯が重・黎の後代を育て、旧人の功績を忘れさせず、再び天地の官に任命しました。夏代と商代に至るまで、重氏と黎氏は代々天地を主管し、それぞれの位置を分けてきたのです。
ところが、周代の程伯(程国の主。伯爵)・休父は、彼等の子孫に当たるのに宣王の時代に官守(天地の官としての職責)を失い、司馬氏(大司馬。軍官)になりました。休父の子孫はその祖を崇め、威信を立てるため、民にこう言いました『重は天を上に揚げ、黎は地を下に抑えた(重寔上天,黎寔下地)。』その頃ちょうど世が乱れたため(幽王時代以降)、彼等の説(重と黎によって天地が分けられたという説)を否定する者はいませんでした。しかし天と地が形成されてから変わったことはありません(元々天は上にあり、地は下にあります)。どうして天と地が近づくことがあるでしょうか(人が天に登ることなどできません。休父の子孫が先祖の重と黎の威信を高めるために『重と黎が天と地を分けた』と言ったのであり、事実ではありません)。」
 
 
 
次回に続きます。