春秋時代 楚の出来事(後)

『国語』から楚の出来事を紹介しています。
 
『国語・楚語下』からです。
子期が平王の祭祀を行い、牛俎(祭祀で使った牛肉)を昭王に贈りました。昭王が観射父に問いました「祭祀ではどのような牲(犠牲)を用いるのだ?」
観射父が答えました「祀(父兄の祭祀)は挙(毎月初一日と十五日の祭祀)よりも盛大になります。天子の挙は大牢(太牢。牛・羊・豚各一頭。牢は犠牲を置く食器で、その大きい物を太牢といいました。一つの太牢に牛・羊・豚各一頭が置かれます)を使い、祀では会(三太牢。牛・羊・豚各三頭)を使います。諸侯の挙では特牛(一頭の牛)を使い、祀では太牢を使います。卿の挙では少牢(羊と豚)を使い、祀では特牛を使います。大夫の挙では特牲(一匹の豚)を使い、祀では少牢を使います。士の挙では魚炙(焼き魚)を使い、祀では特牲を使います。庶人の挙では菜(野菜)を使い、祀では魚を使います。このように上下に秩序があるから、民(国民)は祭祀に対して怠慢にならないのです。」
昭王が問いました「その大きさはどうだ?」
観射父が答えました「郊禘(天の祭り)においては、犠牲の角は繭栗(繭や栗)ほどの大きさに過ぎず、烝嘗(烝は冬の祭祀。嘗は秋の祭祀)においては角が一握(四寸)を越えません(郊禘の犠牲よりは大きくなっています)。」
昭王が問いました「なぜそのように小さいのだ?」
観射父が答えました「神は精明によって民に臨むので、備物(礼に則って清潔な物)を求めるのです。豊大を求めるのではありません。だから先王の祭祀では、一純(純潔な心)、二精(玉と帛)、三牲(牛・羊・豚)、四時(四季の穀物、五色(青・黄・赤・白・黒)、六律(古代の音律)、七事(天・地・民と四季の事務)八種(八音。金・石・絲・竹・匏・土・革・木の八種類の楽器の音色)、九祭(九州の助祭。天下各地から集められた祭祀の供物)、十日十二辰(十干十二支によって吉日を選ぶこと)によって神が祀られたのです。百姓(百姓以下、後述します)、千品、万官、億醜、兆民が田地から得る収入を元に税を納め(原文「兆民経入畡数者」。後述します)、明徳によって孝敬を示し、和声を神に届け、それが遍く神に伝われば、吉慶を受けないことはありません。毛によって物(色)を表し、血によって殺(犠牲を殺したこと)を表し、誠心をもって毛を抜き血をとり、神に捧げるのは、斉敬(清潔かつ恭敬)を示すためです。しかし神を敬う儀式を久しく行ってはなりません。民力の負担が大きくなるからです。このようであるので、斉粛(清潔で厳粛)な態度で奉納するのです。」
昭王が問いました「芻豢(犠牲。芻は草を食べる動物。豢は穀物を食べる動物)はどれくらい養えばいいのだ?
観射父が答えました「遠い物(三牲。牛・馬・羊)は三カ月を過ぎず、近い物(鶏や魚)は浹日(十日)を過ぎないものです。」
昭王が問いました「祭祀を廃止することはできないのか?」
観射父が答えました「祭祀とは孝道を明らかにし、民を繁栄させ、国を安んじ、百姓(国民)を安定させるためにあります。廃止してはなりません。民の気(志気。風紀)が放縦になったら堕落し、堕落したら滞り、久しく滞ったら振るわず(または「神に恐れを抱かなくなり」。原文「滞久而不振」)、生(生物。万物)が育たなくなります(人々が堕落し、神が福を降さなくなるからです)。下の者が上に従わなくなり、生も育たなければ、土地を封じることもできません(国を建てることもできません)。だから古の先王は日祭(毎日の祭祀)、月享(月ごとの祭祀)、時類(四季の祭祀)、歳(一年に一回の祭祀)を行ったのです。但し、諸侯は日祭を行わず、卿・大夫は月享を行わず、士と庶人は時類を行いませんでした。天子は遍く群神品物(万物)を祀り、諸侯は天地・三辰(日・月・星)およびその地の山川を祀り、卿・大夫は礼によって定められた五祀(五つの神。門神・戸神・竃神・井神・中溜等を指すようですが、諸説あります)と祖先を祀り、士と庶人は自分の祖だけを祀ります。日月が龍●(龍尾。●は「豕」の右に「尨」)で会す時(太陽と月が東方蒼龍七宿の末で会う時。夏暦十月)、土気が収縮し、天が明るく盛んになり(「天明昌作」。天の気が昇ること)、百嘉(百穀)が収穫され、群神が動き出して食物を求めます。そこで国は蒸嘗(秋と冬の祭祀)を行い、家(卿・大夫)は嘗祀(秋の祭祀)を準備し、百姓夫婦は令辰(吉日)を選び、犧牲を捧げて粢盛穀物を供え、掃除をして清潔にし、厳かに采服(祭服)を身に着け、酒醴(祭祀の酒)を濾過し、自分の子姓(子弟や同族)を率いて時享(四季の祭祀)を行い、恭しく宗祝(宗は祭祀を主宰する者。祝は祝辞を述べる者)に従い、祝辞を述べて先祖を祀ります。その様子は厳粛で、恭敬な者が一堂に会し(粛粛済済)、神が降臨しているようです。そこには州郷の朋友や婚姻(姻戚)が集まり、兄弟・親戚が親しみあいます。こうして対立が無くなり、怨みが解消され、人々は和睦して関係を深め、上下が安定し、一族が固まることができるのです。上の者は祭祀によって民に虔誠を教え、下の者は祭祀によって上に従順であることを示します。天子の禘郊では、必ず天子が自ら牲(牛)を射て、王后が自ら粢穀物。粢は穀物入った器)を挽きます。諸侯の宗廟の祭祀では、諸侯が必ず自ら牛を射て、羊を刺し、豕(豚)を撃ちます。諸侯の夫人は自ら盛穀物。盛も穀物が入った器)を挽きます。それより下の者ならば、なおさら戦々恐々として慎重に神に仕えます。天子が自ら禘郊の盛を挽き、王后が自ら天子の祭服を織れば、公(公卿)から庶人に至るまで、神に対して斉粛(厳粛)恭敬な態度になり、力を尽くさない者はいなくなります。民は祭祀によって安定を保っているのです。祭祀を廃止するわけにはいきません。
昭王が問いました「先ほどの『一純』『二精』『七事』とは何だ?」
観射父が答えました「聖王が端冕(黒い祭服と大冠)を正し、心を違えることなく、群臣を率い、精物(清潔な供物)をもって祭祀に臨み、神に対してやましい心を持たないことを『一純』といいます。玉と帛を『二精』といいます。天・地・民および四時(四季)の事務を『七事』といいます。」
昭王が問いました「三事(天・地・民の事務)とは何だ?」
観射父が答えました「天の事は武といい、地の事は文といい、民の事は忠信といいます。」
昭王が問いました「百姓、千品、万官、億醜と『兆民経入畡数者』とは何だ?」
観射父が答えました「民の中で、官に達して姓名を授けられた者は百を数えます。王公の子弟の中で、能力があって職責を果たすことができる者は、職責によって姓を与えられ、その官を監督します。これらを百姓といいます。姓(百姓)には属僚がおり、その数は王の百官(王には十品がいます。十品は百官の意味です)の十倍に値します。よって千品といいます。五物(天・地・神・民・物)の官には、陪属(臣下の臣)が万います(千品の十倍です)。よって万官といいます。万官には十醜(「醜」は「類」の意味です)があります。よって億醜といいます(万官の下にはそれぞれ十種類の官がいます。合計十万になりますが、古代は十万を「億」と書きました)。天子の田は九畡(九州の田地)に分けられ、兆民(民衆)を養っています。王は通常の税を徴収して万官を養っています。これを『兆民経入畡数者』といいます。」
 
 
次も『国語・楚語下』からです。
楚の大夫・且が朝廷で令尹・子常に会った時、子常はどうすれば財貨を蓄えて馬を集めることができるか問いました。
家に帰った且は弟にこう話しました「楚は亡びるだろう。楚が亡びないとしても、令尹は禍から逃れることができない。私が令尹に会った時、令尹はどうすれば財を蓄えることができるかと質問したが、その様子は飢えた豺狼のようだった。亡ばないはずがない。
古の者は、財貨を集めても民の衣食の利を害すことがなく、馬を集めても民の財用を害すことがなかった。国馬(民から徴収した馬)は行軍を満足させることができれば充分で、公馬(公卿の戦馬)は賦(兵賦。軍事の需要)を満足させることができれば充分だったので、限度を超えなかった。公貨(公卿の財)は贈物や貢献の需要に足りればよく、家貨(大夫の財)は家用を満足できればよかったので、やはり限度を超えることはなかった。財貨や馬を過度に所有したら民を欠乏させ、民の欠乏が多くなったら離叛の心を生じさせる。そうなったら国を立てることができない。
昔、子文は令尹の職を三回辞退し、家には一日の食糧の蓄えもなかった。これは民を想ったからだ。成王(楚成王)は子文が朝食を食べたらその日の夕食がなくなると知り、毎朝、脯(乾肉)一束、糗(乾糧)一筐(一碗)を設けて子文に与えることにした。これは今の令尹に対しても常例となっている。成王が子文に禄を与えようとすると、いつも子文は逃走し、王があきらめてから職に戻った。ある人が子文に『人は富を得るために生きているのに、子(あなた)は逃げています。何故ですか?』と問うと、子文はこう答えた『政治を行う者は民を守るものだ。民の多くが窮乏しているのに私が富を得たら、民を疲弊させて自分を裕福にすることになり、死が間近にせまるだろう。私は死から逃げているのであって、富から逃げているのではない。』このようだったから、荘王の時代に若敖氏が滅ぼされたのに、子文の後代だけは今に至るまで鄖に住み(楚昭王時代の鄖公は子文の子孫です)、楚の良臣でいられるのだ。これは先に民を想い、その後、自分を富ませたからではないか。
今、子常は先大夫(子囊)の後でありながら、楚君の相となったのに四方に名声が聞こえず、民の羸餒(飢えて痩せること)は日々ひどくなっている。四境は堡塁で満たされ(外敵の進攻が多いことを意味します)、道殣(餓えのために道中で死んだ人を埋めた墳墓)が建ち並び、盗賊が目を光らせているため、民は頼るところがない。このように民を憐れんでいないのに、財を貯めても満足できないようでは、すぐに民から多くの怨みを招くことになるだろう。蓄積した財貨が多ければ、人々から得る怨みも深くなる。これでは滅亡を待つしかない。
民心の怒りとは大川の流れを塞ぐのと同じである。堤防が壊れたら損害は必ず大きなものになる。子常の最後は成王や霊王よりもましだろうか。成王は穆王(成王の子)に対して礼を用いなかったため、熊蹯(熊の掌)を食べたくても食べることができずに死んだ。霊王は民を顧みなかったため、全国の人々が遺迹のように霊王を棄てた(「遺迹」は歩いている人が足跡を残すことです。歩けば足跡ができますが、いちいち振り返ってそれを見ることはありません。ここでは霊王の存在を無視するかのように捨てたという意味です)。子常は政治を行っているのに礼を用いず、民を顧みない姿は成王や霊王よりもひどい。彼一人の力で禍を防ぐことはできないはずだ。」
一年後、柏挙の戦いで楚は呉に大敗し、子常は鄭に、昭王は隨に奔ることになりました。