春秋時代 西施

越が呉に美女・西施を献上しました。
西施は中国史における四大美女の一人に数えられています。しかし西施の名は『春秋左氏伝』にも『史記』にも出てきません。
戦国時代の『墨子』『荘子』『韓非子』等、諸子百家の書物には美女としての説話が断片的に登場します。
以下、諸子百家に見られる西施像をいくつか紹介します。
 
まずは『韓非子顕学(第五十)』からです。
「毛嗇や西施の美貌を称賛しても、自分の顔を美しくすることはできない。脂沢粉黛(化粧品)を使うから、最初の姿より何倍も美しくなれるのである。先王の仁義を語るだけでは、政治に対して益はない。自国の法度(法律)を明らかにし、自国の賞罰を必ず行うのは、国にとっての脂沢粉黛である。」
毛嗇というのは西施と並ぶ美女の名ですが、詳細は伝わっていません。
 
荘子外篇天運巻五下第十四)』には「顰に倣う」という言葉の元になった故事があります。
昔、西施は心(心臓)に病があったため、里(村)で矉(顰。眉間に皺を寄せること)の姿をよく見せました。
同じ里に醜人がおり、西施の姿を見て美しいと思いました。そこで醜人も矉を真似します。
するとその姿を見た富人は門を堅く閉じて外に出なくなり、貧人は妻子を連れて逃げ去りました。
醜人はの美しい姿を知っているだけで、の姿がなぜ美しく見えたのか(美しい西施だったから更に美しく見えたということ)は理解できませんでした。
 
この故事から生まれた「顰に倣う」は「善し悪しを考えず、むやみに人の真似をする」という意味で使われます。
 
韓非子』も『荘子』も戦国時代の書なので、戦国時代には西施という美女の名が既に知られていたことがわかります。しかし明確な西施像が作られたのは漢代の『越絶書』や『呉越春秋』によるものだと思われます(『呉越春秋』の内容は既に紹介しました。『越絶書・越絶内経九術第十四(巻第十二)』にも越が西施と鄭旦を美しく飾って呉王に献上したことが書かれています
 
西施の死に関しては、『墨子士・第(巻一)』にこのような記述があります。
五つの錐があったとして、一つがとても(鋭利)だったら、の錐が先に折れることになります。つのがあったとして、一つがとても(磨かれていること)だったら、の刀が先に損なわれることになります。よってい井戸は水が尽きやすく、高い木は伐られやすく、霊亀(霊験のある亀)は焼かれやすく(卜に使われやすく)神蛇(神聖な蛇。雨乞いに使います)は曝されやすくなります(雨乞いの犠牲に使われやすくなります)。比干(死)はその(剛直不屈)が原因であり、(殺されること)はそのが原因であり、西施(沈められること。溺死)はそのが原因であり、呉(処刑)はその(大功)が原因です。このような者(優れた長所を持つ者)で、自分の長所によって死ななかった者はほとんどいません。太盛(盛んになりすぎたもの。大きな長所があるもの)が長久であるのは難しいのです
 
墨子』のこの記述を見ると、西施は殺されたようです。
しかし唐代の『呉地記』は『越絶書』からの引用として「呉国が滅んでから、西施は再び范蠡に帰し、共に五湖を舟で去った」と書いています。西施は范蠡に嫁いで姿を消したことになります。
但し、現行の『越絶書』を探しましたが、この記述を見つけることができませんでした。
 
西施は中国史を代表する美女として語り継がれていますが、虚構だったとも言われており、実態がはっきりしない人物です。
 
 
尚、中国史における四大美女は春秋時代の西施、西漢王昭君東漢貂蝉、唐代の楊貴妃といわれています(日本では王昭君ではなく、虞美人が入ることが多いようです)