春秋時代 黄池の会と呉の滅亡(1)

黄池の会から越の反撃、呉の滅亡に関して、本編は『春秋左氏伝』の記述を元にしました。
ここでは『国語』『史記』の記述を紹介します。
 
まずは『国語・呉語』からです。
王・夫差が申胥伍子胥を殺してから一年足らずで北征の兵を興しました東周敬王三十七年・前483年)
深溝を穿って商(宋)と魯の間を繋げ、北は沂水、西は済水に通じさせます。
呉王・夫差は魯哀公と会し、翌年には晋と黄池で会盟しました。
 
呉の出兵を知った越王・句践が范蠡と舌庸(大夫)に呉討伐を命じました。越軍は海に沿って淮水に入り、呉軍の退路を断ちます。
姑熊夷(呉都の郊外)で越軍が呉の王子・友(夫差の太子)を破りました。
越王・句践も中軍を率いて呉江をさかのぼり、呉都の郛(外城)に入りました。呉都・姑蘇が焼かれ、大舟(呉王の舟)が奪われます。
 
その頃、呉は晋と黄池で会していましたが、盟主の地位を争って決着がつきませんでした。そこに呉の辺遽(国境の早馬)が到着し、越の乱が告げられます。驚き恐れた呉王は大夫を集めて言いました「越は不道(無道)によって斎盟(同盟)に背いた。我が国への道は遠い。晋との会を中止して帰るべきか、会に参加して晋に盟主の地位を譲るべきか。どちらに利があるだろう?」
若い大夫・王孫雒が言いました「危機に面したら年齢は関係ないものなので、敢えて雒(私)が最初にお答えします。二者はどちらにも利がありません。会を中止して帰ったら越の威名が大きくなり、民が恐れて逃走してしまうので、我々が遠くに帰っても戻る場所はありません。斉・宋・徐・夷も『呉は既に敗れた』と宣言し、溝(水路)を挟んで我が軍を襲ってくるでしょう。そうなったら我々の命がなくなります。また、会に参加しながら晋に譲ったら、晋が諸侯の柄(指揮権)を握って我々に臨み、志を成して(晋が覇者として諸侯を率いて)天子に朝見することになります。我々には天子への朝見が終わるのを待つ余裕はなく、盟主の座をあきらめるのも忍びないことです。もし越の威名がますます大きくなったら、我が国の民が叛す恐れもあります。まずは会に参加し、しかも先に歃血(会盟で犠牲の血をすすったり顔に塗ること。盟主になること)するべきです。」
夫差は歩いて王孫雒の前まで進み、「先に歃血するにはどうすればいいか」と問いました。
王孫雒が言いました「王は躊躇してはなりません。我々が帰国する道は遥か遠いので、二命(別の選択肢)はありません。決断さえすれば成功できます。」
王孫雒は進み出ると諸大夫の方を向き、揖礼してから言いました「危事(危険)を安(平安)に変えることができず、死事を生に変えることができなかったら、貴智(優れた智謀)とはいえません。民とは死を嫌い、富貴長寿を求めるものです。それは我々と同じです。晋は本国に近く、兵を退く余裕がありますが、我々は道が遠く、引き返すことができません。晋が我々と同じように危事(命をかけること)を行うことはないでしょう(帰ることができるのに敢えて命をかけて対抗することはないでしょう)。国君に仕えて勇謀があるのなら、まさに今それを使うべきです。今晩、晋に戦いを挑んで(恐れていない姿を示して)民心を安定させましょう。王は士を励まし、朋勢(群衆の気勢。戦意)を奮わせてください。高位重畜(高い地位と財宝)によって努力する者を鼓舞し、刑戮(刑罰)によって努力しない者を懲らしめ、全軍が死を畏れないようにしてください。そうすれば彼等は戦うことなく我々に歃血を譲るはずです。諸侯の柄を握ったら、連年の不作を理由に諸侯の貢物を免除し、諸侯を先に帰国させましょう。諸侯は必ず喜びます。諸侯が自分の国に帰ってから、王は安心して兵を還し、行軍に緩急をつけて(慌てて帰るのではなく必要に応じて行軍を速くしたり遅くしたりして)王の志を実現させるべきです。尽力した民には江・淮(長江と淮水)の間の地を封じると約束すれば、安全に呉に帰ることができます。」
夫差は同意しました。
 
夕暮れ、呉王・夫差は士卒に食事をとらせ、馬に飼料を与えさせました。
夜中、兵達が武器を持ち、甲冑を着て、馬の口を縛り(声を出さないためです)、灶(かまど)の火を松明にして陣を出ました。士卒百人が一列になり、百列(一万人)方陣が編制されます。
各列の頭には官師(士)が立ち、鐸(大鈴)を抱え(鈴の音を立てないために抱えています)、稽(戟)を持ち、横に肥胡(旗)と文犀の渠(模様が描かれた犀の皮の盾)を立てています。
十列(千人)ごとに一人の嬖大夫(下大夫)が指揮し、旌(旗)を立てて戦鼓を持ち、兵書を抱え持って枹(戦鼓のばち)を手にしています。
十旌(一旌は千人。十旌で一万人)は一人の将軍が指揮し、常(日月の旗)を立てて戦鼓を置き、兵書を抱え持って枹を手にしています。
一万人の方陣は皆、白裳(裳は腰から下の衣服)、白旂(白い交龍の旗)、素甲(白い甲冑)、白羽の矰(白い矢羽)で統一されており、遠くから見たら茅(すすき)が一面を埋めているようです。
呉王が自ら鉞を持ち、白旗(白い熊虎の虎)を立てて方陣の中央に立ちました。
左軍も同じように一万人で編成され、皆、赤裳、赤旟(赤い隼の旗)、丹甲(赤い甲冑)、朱羽の矰で統一されており、遠くから見たら火炎のようです。
右軍も同じで、皆、玄裳(玄は黒)、玄旗、黒甲、烏羽の矰で統一されており、遠くから見たら墨が地を染めているようです。
左は陽、右は陰とされたため、それぞれ赤と黒になりました。
総数三万の甲兵が士気を高くして進軍を開始し、鶏が鳴く頃、晋軍から一里の場所で陣形が整いました。
未明、呉王が枹を持って自ら鐘鼓・丁寧(令丁。鉦)錞于(打楽器の一種)を叩きました。三軍の戦鼓も鳴り響き、喚声が轟いて天地を震わせます。
晋軍は驚いて陣に籠もり、周りの防備を固め、董褐(大夫・司馬寅。または「司馬演」)を派遣して呉に出兵の理由を問いました。
 
董褐が呉王・夫差に言いました「両君が兵を収めて友好を結び、日中(正午)を会盟の時と約束したのに、今、大国が規定を破って弊邑の軍塁に迫りました。よって敢えて乱の理由を問います。」
呉王が自ら答えました「天子(周王)の命を受けたのだ。周室は衰退し、貢献(貢物)を納める諸侯がなくなったため、上帝鬼神の祭祀も行うことができない。しかし姫姓諸侯は王室を援けようともしない。よって徒遽(徒歩と早馬)によって呉に命が伝えられた。孤(国君の自称)は日夜を継ぎ、匍匐して(ここでの「匍匐」は尽力すること)晋君に会いに来た。ところが晋君は王室が平安ではないことを憂いとせず、晋の衆庶(大衆。大軍)を擁しながら諸戎狄や楚、秦(周王室に服従しない者)を討伐しようとせず、長幼の序列を無視して諸兄弟の国を攻撃している(魯や衛は周・晋と同じ姫姓の国で、魯の始祖・周公と衛の始祖・康叔は文王の子、晋の始祖・唐叔は武王の子なので、魯と衛は年長の国になります)。孤は我が先君の班爵(地位。序列)を守りたいだけであり、それを越えるつもりはなく、それより退くつもりもない(呉の始祖・太伯は文王の祖父・古公亶父の長男にあたるため、晋より序列が上になります)。今、会盟の時が迫っているが、事が成功せず諸侯の笑い者になることを心配している。孤が晋君に仕えるか仕えないかは今日にかかっている(決戦して負ければ晋に盟主を譲るが、勝てば呉が盟主になる)。晋の使者が近くまで来たので、孤は自ら藩籬(営塁)の外で命(晋の意見)を聞こう。」
董褐が引き返そうとした時、夫差が左畸(軍の左部の吏)に命じました「少司馬(官名)・茲と王士五人を捕まえて王の前に座らせよ。」
呉の少司馬・茲と王士五人は夫差の前に来ると、自ら首を斬り、呉軍には決死の覚悟があることを董褐に見せました。
 
董褐が復命してから趙鞅に言いました「呉王の顔色を見たところ、大憂があるようでした。小さな事件が起きたとしたら、嬖妾(愛妾)か嫡子が死んだのでしょう。そうでなければ国に大難(謀反)が起きたのかもしれません。大きな事件だとしたら、越が呉に侵攻したと考えられます。このような相手は強暴になります。戦うべきではありません。主(趙鞅)は呉が先に歃血することを許し、危険を避けるべきです。ただし何も条件をつけずに許してはなりません。」
趙鞅は同意しました。
 
晋の董褐が再び呉王・夫差に会って伝えました「寡君は敢えて軍威を見せるつもりがなく、また自ら姿を現すつもりもないので(または「敢えて自ら貴国の軍威を観るつもりはないので。」原文「未敢観兵身見」)、褐(私)にこう伝えさせました『貴君の言によると、周室は衰退して諸侯が天子に対する礼を失ったため、貴国が陽卜(亀の卜い。国外の事に対する卜いは陽卜。国内の事は陰卜)に問い、文王・武王の諸侯を恢復させようとしている(文王・武王の時代のように諸侯に貢物を納めさせようとしている)とのことだった。しかし孤は天子の傍におり、罪から逃れることはできず、譴責の言葉は日々届いている。天子はこう言っている『昔、呉の伯父は礼を失うことなく、春秋(四季)に必ず諸侯を率いて余一人(天子の自称)に朝見した。しかし今、伯父には蛮・荊の脅威があるため、朝聘の礼を受け継ぐことができなくなった。』そこで天子は孤(晋君)に命じ、礼によって周公(周の太宰)を補佐し、諸兄弟の国と会見することで(諸侯の国と共に周王を朝見することで)天子の憂いを除かせた。今、貴君は王として東海を覆い、その淫名(僭号。王名)は天子に聞こえている。貴君には短垣(礼の限度)があるのに、自らそれを越えてしまった。これでどうして蛮・荊に周室の礼を用いさせることができるというのだ。命圭(天子が諸侯を封じる時に与える玉)には命(天子の命)がある。貴君は呉伯と呼ぶべきであって呉王ではない。だから諸侯も呉に仕えようとしないのだ。諸侯に二君(二人の盟主)はなく、周にも二王はいない。貴君が天子を卑しめず、不祥(天譴)を侵すこともなく、呉公を称すのなら、孤は君命(呉君の命)を聞いて序列に従おう。』」
呉王は晋の要求に同意し、兵を退いて帳幕に入ってから会盟を行いました。
夫差が先に歃血し、晋侯が続きます。
夫差は越の威声が大きくなることを恐れ、また斉や宋が呉を襲うことを心配し、王孫雒と勇獲(大夫)に命じて先に徒師(歩兵)を率いて帰らせました。途中、宋を訪問するという名目で国境に入り、北郛(北の外城)を焼いて去りました。宋を威嚇して追撃を防ぐためです。
 
 
 
次回に続きます。