春秋時代 黄池の会と呉の滅亡(2)

黄池の会から呉の滅亡までを書いています。
 
『国語・呉語』の続きです。
呉王・夫差は黄池を退いてから、大夫・王孫苟を派遣して周王に功労を報告しました「かつて楚人が不道(無道)で王事(貢物の義務)を行わず、我々と兄弟の諸国(周と同姓の諸国)を疎遠にしました。我が先君の闔廬はそれを赦せず、忍ぶこともできなかったので、甲冑を身に着けて剣を帯び、鈹(長矛)を持って鐸(大鈴)を振るわせ、楚昭王と中原の柏挙で戦い、痛手を負わせて駆逐しました。天が衷(善。福)をもたらしたおかげで、楚師は大敗し、楚王はその国を去り、我が軍が郢(楚都)に入ったのです。王(呉王)は楚の百執事(百官)を集めて(楚の)社稷の祭りを奉じました(楚国を統治しました)。ところが父子兄弟が協力できず、夫概王(闔廬の弟)が乱を成したため、再び呉に帰りました(楚を平定できませんでした)。今、斉侯・壬(簡公)が楚を鑒(教訓)とせず、また王命に逆って我が兄弟の諸国と疎遠になりました。夫差(私)はそれを赦せず、忍ぶこともできないので、甲冑を身に着けて剣を帯び、鈹を持って鐸を振るわせ、汶水に沿って博(斉の別都)を討ち、簦笠(笠の一種。雨具)を準備して(夏の雨から逃げず)艾陵で交戦しました。その結果、天が衷を与えたので斉師は敗れて還りました。しかし夫差は功績を誇ろうとは思いません。文王・武王が衷(福)を与えたおかげだからです。その後、帰国しましたが、収穫の季節になる前に、余(私)はまた江(長江)に沿い、淮(淮水)をさかのぼり、長溝に深水を掘って商(宋)・魯の間に至り、兄弟の国を繋げました。夫差がついに事を成したので、ここに苟を派遣して、下執事(周王の官員)に報告することにしました。」
 
周敬王が答えて言いました「苟よ、伯父(同姓の諸侯。呉王)が汝を来させたから、先王の礼を継承して余一人(天子の自称)を擁戴しようという気持ちが明らかになった。余は呉を嘉しよう。かつて周室は天が降した禍に会い、民の不祥(成周の民が子朝に協力したこと)に遭遇したため、余の心は憂恤を忘れることなく、憂いは下土(諸侯)が安定しないことだけではなくなった(諸侯の事を憂いるだけでなく、周室内部の危険も憂いることになった)。今、伯父は『力を合わせて徳を同じくする(戮力同徳)』と言った。伯父がもしそれを実行できるのなら、余一人は大福を受けることになる。伯父が長寿を得て善い終わりを迎えることを願う。伯父が持つ徳は広大である。」
 
 
呉王・夫差は黄池から帰国しましたが、兵民を休めて警戒をしませんでした。
そこで越の大夫・種が謀って句践に言いました「私は呉王が我が地に進攻すると思っていましたが、師(軍)を休めて警戒もせず、我々を忘れているようです。しかし我々が怠ってはなりません。かつて臣は天を卜いました(天が呉を滅ぼす時には、民から食を奪って疲弊させると出ました)。今、呉民は既に疲弊し、連年の大荒が続き、市には赤米(質の悪い米。古くて変色した米)も無く、囷鹿(囷は円形の倉。鹿は方形の倉)が空になりました。その民は東海の浜に移り、蒲蠃(蒲は水辺の植物。蠃は蚌蛤等の貝類)を獲らなければ生活できないほどです。既に天の兆(天災)があり、人事にも兆しがあるので(民の怨嗟の声が止まないので)、もう卜筮の必要はありません。王は今、師を起こして交戦し、その利(時の利)を奪うべきです。彼等に改める機会を与えてはなりません。呉の遠い辺鄙(辺境)にいる者は、兵を解散して帰ったばかりなので、すぐには救援に駆けつけることができません。呉王は(攻撃を受けて)戦わないことを恥とするはずなので、遠方の兵を待たず国都の師だけで戦いを始めます。もし幸いにも私の言の通りになったら、我が軍はその地に入ることができます。呉の辺境から兵が来たとしても、国内の軍と合流できません。我々は禦児(越北境)の兵を使って呉辺境の軍に対抗させましょう。呉王が怒って再戦を望んでも、我々は機に乗じて撃退することができます。もしも呉王が戦おうとせず、講和を求めるようなら、王は過酷な条件を出して退ければいいでしょう(原文「王安厚取名而去之」。理解困難なので前文の内容に合わせて訳しました)。」
越王は同意して「善し」と言うと、全軍を戒め、呉討伐の準備をしました。
 
楚の大夫・申包胥(王孫包胥)が使者として越に来ました。
越王・句践が問いました「呉国は不道なので我が社稷・宗廟を滅ぼして平原にし、我が祖先に犠牲の血を捧げることができないようにした。わしは呉と共に天の衷(福)を求めるために(越と呉が共に天の裁きを求めるために。決戦してどちらが正しいかを決めるために)、車馬・兵甲・卒伍(士卒)を既に準備したが、それらを用いる条件がない。戦いになったら何によって兵を用いるべきだろうか(勝つ条件とは何だろうか)?」
包胥は「わかりません」と言って答えを避けましたが、越王が頑なに質問したため、こう答えました「呉は良国(強国)であり、諸侯から貢賦を得ることができます。これに対して、君王は何に頼って戦うつもりですか?」
越王が言いました「孤(国君の自称)は側近に対して、觴酒(觴は杯。一杯の酒)・豆肉(豆は食器。一皿の肉)・簞食(簞は椀。一碗の飯)を分け与えないことがなく、飲食は味を極めず(飲食で贅沢をせず)、音楽を聞いても声(音)を尽くさず(簡単な音楽しか聞かず。音楽にのめり込まず)、呉への報復を求めてきた。これら(質素倹約)によって勝ちを得たいと思う。」
包胥が言いました「それは善いことには違いありませんが(善則善矣)(王と身辺だけのことなので)まだ戦えません。」
越王が言いました「越国の中で疾者(病人・障害者)がいたらわし自ら慰問し、死者がいたらわし自ら埋葬し、老人を敬い、幼者を慈しみ、孤児を育て、民の疾苦を問い、呉への報復を求めてきた。これら(民を思うこと)によって勝ちを得たいと思う。」
包胥が言いました「それは善いことには違いありませんが、(小恵に過ぎないので)まだ戦えません。」
越王が言いました「越国において、わしは民に対して我が子のように寛容であり、忠恵(誠実と慈恵)によって彼等に接してきた。政令を正して刑罰を寛大にし、民が欲することを施し、民が嫌うことを除き、善を称え、悪を制御し、呉への報復を求めてきた。これら(民に寛大であること)によって勝ちを得たいと思う。」
包胥が言いました「それは善いことには違いありませんが、(やはり小恵に過ぎないので)まだ戦えません。」
越王が言いました「越国において、富者がいたら安定させ(富貴の者から財を奪わず)、貧者がいたら施しを与えて不足を補い、余剰を税として納めさせ、貧富の両者に利をもたらし、呉への報復を求めてきた。これら(貧富の差を減らして全ての民に利をもたらすこと)によって勝ちを得たいと思う。」
包胥が言いました「それは善いことには違いありませんが、(やはり小恵に過ぎないので)まだ戦えません。」
越王が言いました「越国の南には楚があり、西には晋があり、北には斉がある。私は春秋(一年。四季)に皮幣・玉帛・子女を献上して服従を示し、それを絶やすことなく、呉への報復を求めてきた。これら(諸国との友好関係)によって勝ちを得たいと思う。」
包胥が言いました「素晴らしいことです(善哉)。それ以上加えることはできません。しかしそれでもまだ戦えません。戦とは智が始めにあり、仁を次とし、勇が次にあります。不智では民の内心を知ることができず、天下の衆寡を測ることもできません。不仁では三軍と飢労の殃(痛苦)を共にできません。不勇では難疑に対して決断し、大計を発することができません。」
越王は「わかった(諾)」と言って納得しました。
 
越王・句践が五大夫(舌庸、苦成、種、范蠡、皋如)を招いて言いました「呉国は不道なので我が社稷・宗廟を滅ぼして平原にし、我が祖先に犠牲の血を捧げることができないようにした。わしは呉と共に天の衷(福)を求めるために(越と呉が共に天の裁きを求めるために。決戦してどちらが正しいかを決めるために)、車馬・兵甲・卒伍(士卒)を既に準備したが、それを用いる条件がなかった。そこで王孫包胥に意見を聞き、既に命(忠告)を受けることができた。諸大夫に問う。何によって戦うべきか?諸大夫の言を聞きたいと思うので、皆、誠実に話してくれ。孤におもねってはならない。孤は諸大夫の意見を元にして大事を行うつもりだ。」
大夫・舌庸が進み出て言いました「賞を明らかにすれば戦えます。」
越王が言いました「聖である(道理にかなっている)。」
大夫・苦成が進み出て言いました「罰を明らかにすれば戦えます。」
越王が言いました「猛である(刑罰によって兵が勇猛になる)。」
大夫・種が進み出て言いました「物(旗の色)を明らかにすれば戦えます。」
越王が言いました「辯である(識別によって将兵の行動が統一できる)。」
大夫・范蠡が進み出て言いました「備(防備)を明らかにすれば戦えます。」
越王が言いました「巧である(巧妙周到であれば攻め入られない)。」
大夫・皋如が進み出て言いました「声(戦鼓等の進退の音)を明らかにすれば戦えます。」
越王が言いました「(兵が混乱しなければ戦える。)よろしい(可矣)。」
句践はそれぞれの意見を採用しました。
 
越王・句践が有司(官員)を使って国中に命じました「戎を任せることができる者(従軍する者)は皆、国門都城の門)の外に集まれ。」
越王が集まった国人に言いました「国人で善い計策がある者は述べよ。但し報告に偽りがあったら刑を用いて罰する。五日の間、善く考えよ。五日を過ぎたら(出征しなければならないから)計策を述べても用いることはできない。」
 
 
 
次回に続きます。