春秋時代 黄池の会と呉の滅亡(4)

黄池の会から呉の滅亡までを書いています。
 
今回は『国語・越語上』からです。
越軍は呉を囿(笠沢)で破り、また没(地名)で破り、更に呉の郊外で破りました。
呉王・夫差が講和を求めて言いました「寡人の師徒(軍)は貴君を煩わせる価値もありません。金玉・子女によって貴君の労に償わせてください。」
越王・句践が答えて言いました「昔、天が越を呉に与えた時、呉は天命を受け入れなかった。今、天が呉を越に与えたが、越が天命を聞かずに貴君の令を聞いていいはずがない。(呉国は滅ぼすが)王を甬句東越の東境)に置いて、国君として遇しよう。」
夫差が言いました「寡人はかつて礼において一飯を与えた(「一飯」は小さな恩の意味。以前、呉が越を赦したことを指します)。貴君が周室を忘れず、弊邑に宸宇(軒下の小さな場所)を残すのなら、それは寡人の願いだ。しかし貴君が『汝の社稷を取り壊し、宗廟を滅ぼす』と言うのなら、寡人は死を請う。天下に対して面目がないから、越君が呉に住め。」
越は呉を滅ぼしました。
 
 
『国語・越語下』からです。
玄月(九月)、越王・句践が范蠡に問いました「こういう諺がある『贅沢な御馳走は質素な食事に及ばない(觥飯不及壺飧)。』今年ももう終わろうとしている。(汝)はどうするつもりだ?」
諺は、飢餓に苦しんでいる時は、豪華な御馳走ができるのを待つのではなく、質素で少量でも手に入った物を食べるべきだ、という意味で、「速く呉を攻める決断をするべきだ。余力を持つ必要はない」という句践の希望を述べています。
范蠡が言いました「君王の言がなくても、臣は出兵を請おうと思っていました。時に従うというのは、火事を収めたり、逃亡者を追いかけるのと同じだといいます。急いで駆けてもまだ間に合わないことを心配するものです。」
越王は賛同し、呉を討伐する兵を起こして五湖に至りました。
 
越軍の出兵を聞いた呉人は兵を出して越軍を挑発し、一日に五回も往復しました。越王・句践が呉軍の挑発に我慢できず、交戦しようとします。
しかし范蠡が諫めて言いました「廊廟(朝廷)で謀ったことを中原(戦場)で簡単に失っていいのですか?挑発に乗ってはなりません。時を得たら怠ってはならないといいます。時(好機)は二度と訪れません。天が与えた物を受け取らなかったら禍を受け、贏縮(進退)の形成が変わって後悔することになります。天節(天道)とはそのように決まっているので(変化するものなので)、一度決めた方針を簡単に変えてはなりません(挑発に乗って軽率に動くのではなく、勝機を待つべきです)。」
句践は同意しました。
 
范蠡が言いました「古の善く兵を用いた者は、贏縮(上述の「贏縮」は「進退」の意味ですが、ここでは歳星の運行を意味します。歳星が太陽の位置にあることを贏、太陽と異なる位置にあることを縮といい、または歳星が早く出ることを贏、遅く出ることを縮といいました。歳星は太白金星を指し、兵器を象徴します)を常とし、四時(四季)を紀とし(歳星の運行と四季の秩序を用兵の法則・基準とし)、天極(天の限度)を越えることなく(天に逆らうことなく)、数が窮したら(天数・天意が尽きたら。限界を超えたら)行動を止めたものでした。天道は明るく、日月には常規があります。日月が明るい時を法とし、暗くなったら行います(原文「明者以為法,微者則是行。」理解が困難ですが、日月の運行を用兵の根拠にするという意味のようです)。陽が極まったら陰となり、陰が極まったら陽となります。日が窮したら還り(日が落ちたらまた昇り)、月が満ちたら欠けていきます。古の用兵を善くした者は、天地の常(法則)と共に行動しました。後(受身)の時は陰を用い、先(主導)の時は陽を用います。敵が近ければ柔(陰)を用い(敢えて弱い姿を見せ)、遠ければ剛(陽)を用います(強い姿を見せます)。後(陰)でも陰蔽(過度に委縮した状態)にならず、先(陽)でも陽察(過度に姿を顕わにすること)にならず、用兵には一定の決まりがなく、その場所や状況に応じて変化しなければなりません。敵が剛強によって守っている時は、その陽節(陽気。気勢)が尽きていないので、(敢えて戦いを挑まず)無駄な犠牲を出さないものです。そのような敵が戦いを求めてきたら、堅く守って戦いに応じてはなりません。敵と戦う場合は、天地の災に乗じ、敵の民の飢飽労逸の状況を観察して戦いの参考にしなければなりません。敵の陽節が尽き、味方の陰節(内在の力)が満たされたら、敵を奪うことができます。用兵が剛強迅速である方が人客(敵を攻める側)として相応しいものです。人客の陽節が尽きていない時は、たとえ攻撃が容易に見えても攻めてはなりません。平然としていて重厚堅固な者は人主(防御する側)に相応しいものです。人主の陰節が尽きていない時は、たとえ柔弱に見えても攻めてはなりません。布陣の道は、右を牝(陰)、左を牡(陽)とします(左右の陣が呼応しあうこと。もしくは本来主力となる右翼を空虚にし、左翼を充実させて敵の裏をかくこと。その場合、牝は虚、牡は実の意味になります)。朝から晩までこれらを疎かにすることなく、必ず天道に従い、進退往復は無窮でなければなりません(日月のように極まっても窮することがありません)。今の敵は剛強かつ迅速なので(陽節が尽きていないので)、王は暫く待つべきです。」
越王は納得しました。
 
越が呉を包囲して三年後に呉が崩壊しました。
呉王・夫差は賢良(近臣)を従え、宝物を持って姑蘇にこもります。そこで大夫・王孫雒(王孫が氏)を越に派遣して講和を請いました。
王孫雒が越王・句践に言いました「かつて上天が禍を呉に降して会稽で罪を得ました。今、君王が不穀(国君の自称)を図りましたが(報復しましたが)、不穀は改めて会稽の和を請います。」
越王は憐れに思って同意しようとしました。しかし范蠡が諫めて言いました「聖人が功を立てられるのは、天の時をうまく使えるからだといいます。時を得ても完成させなければ、天は逆に刑を与えます。天節(天の時が変わる期間)は遠くなく、五年で変化するものです。小凶は近く(訪れるのが早く)、大凶は遠くなります(ゆっくり訪れます)。先人はこう言いました『斧で木を伐って斧の柄を作る時、参考になる斧は遠くない(伐柯者其則不遠)』今、君王は決断できないようですが、会稽の事を忘れたのですか?」
越王は「わかった」と言いました。
 
呉の王孫雒は一度去りましたが、再び訪れ、ますます辞を低くして越王を尊重しました。
句践はまた講和に同意しようとしましたが、范蠡が言いました「我々が朝早くから夜遅くまで政務に励んだのは、呉に報復するためだったのではありませんか?我々と三江五湖の利を争ったのは、呉ではありませんか?十年の謀を一朝にして棄てていいのですか?同意してはなりません。(呉を滅ぼす)希望はすぐにかないます。」
越王が言いました「わしも同意したくないが、使者に答えるのが難しい。子が対応してくれ。」
そこで范蠡は左手に戦鼓を、右手に枹(ばち)を持って使者に会い、こう言いました「かつて上天が越に禍を下し、呉に越を制させたが、呉はこれを受け取らなかった。今、我々はその義(呉の選択)を逆にして禍に報いようとしている。我が王が天の命を聞かず、君王の命を聞くと思うか?」
王孫雒が言いました「子范子(尊敬する范氏)、先人はこう言いました『天が行う虐(悪事)を助けるな。天を助けて虐を行う者には不祥(不吉)が訪れる(無助天為虐,助天為虐者不祥)。』今、呉は稻も蟹も食べ尽くしました。子(あなた)は天を助けて虐を行おうとしていますが、不祥を恐れないのですか?」
范蠡が言いました「王孫子よ、昔、我が先君は周室の子爵にもなれず、東海の崖に隣接して黿鼉魚鱉(亀や鰐、魚)と共に住み、鼃黽(蛙)と共に水辺にいた。我々の容貌は人の姿と同じだが、(本質は)まだ禽獣と同じである(だから礼を知らない)。どうしてあなたの巧妙な話が理解できるだろう(何を言っても無駄だ)。」
王孫雒が言いました「子范子は天を助けて虐を行おうとしていますが、天を助けて虐を行えば不祥になります。王に直接話を伝えさせてください。」
范蠡が言いました「君王は既に執事の人范蠡。私)に全てを委ねた。子は去れ。執事の人に子の罪を得させるな(「无使執事之人得罪于子」。あなたが帰らなければ私があなたの罪を得ることになる。あなたを害すことになる)。」
王孫雒は帰って呉王に報告しました。
 
范蠡は越王に報告せず、戦鼓を叩いて兵を進め、王孫雒を追って姑蘇の宮に至りました。
越軍は損害を出すことなく、容易に呉を滅ぼしました。
 
 
 
次回に続きます。