春秋時代 黄池の会と呉の滅亡(5)

黄池の会から呉の滅亡までを書いています。
 
今回は『史記』からです。
まずは『呉太伯世家』です。
呉王・夫差十四年東周敬王三十八年・前482年)春、夫差が北上して黄池で諸侯と会しました。中国(中原)で霸を称えて周王室を安定させようとします。
六月丙子(十一日)、越王・句践が呉を攻めました。
乙酉(二十日)、越の兵五千が呉軍と戦います。
丙戌(二十一日)、呉の太子・友が捕えられました。
丁亥(二十二日)、越軍が呉に入りました。
呉人が夫差に敗戦の報告をします。夫差は諸侯に知られるのを恐れました。ところが誰かが情報を漏らしたため、夫差は怒って幕下で七人を殺しました。
 
七月辛丑(初六日)、呉王・夫差が晋定公と長(盟主)を争いました。
呉王が言いました「周室においては私が長だ。」
晋定公が言いました「姫姓においては私が伯(覇者)だ。」
晋の趙鞅が怒って呉を討伐しようとしたため、呉は晋定公に盟主の地位を譲りました。
会盟が終わってから呉王は晋に別れを告げ、宋を攻めようとしました。しかし太宰嚭が「勝てますが長居はできません」と言ったため、兵を還しました。
呉の国内は太子を失い、空虚になっています。また、呉王が国外に長くいたため、士卒が疲弊していました。そこで呉王は厚幣を越に贈って講和しました。
 
夫差十五年東周敬王三十九年・前481年)、斉の田常が簡公を殺しました。
夫差十八年東周敬王四十二年・前478年)越がますます強盛になりました。
越王・句践が兵を率いて再び呉を攻め、笠沢で破ります。
同年、楚が陳を滅ぼしました。
夫差二十年東周敬王四十四年・前476年)越王・句践が呉を攻めました(『春秋左氏伝』では越が楚を攻めています。呉攻撃には触れていません)
夫差二十一年東周元王元年・前475年)、越が呉を包囲しました
夫差二十三年東周元王三年・前473年)十一月丁卯(二十七日)、越が呉を破りました。
越王・句践は呉王・夫差を甬東(越東部)に移して百家を与えようとしましたが、呉王・夫差は「孤は既に年老いたので、君王に仕えることができない。子胥の言を用いずこういう事態に陥ってしまった事を後悔している」と言って自刎しました。
越は太宰嚭を不忠の罪で誅殺し、兵を還しました。
 
 
『越王句践世家』からです。
呉王・夫差が黄池で諸侯と会しました。呉国の精兵が王に従い、老弱の者だけが太子と共に呉を守っています。
越王・句践が范蠡に出兵について問うと、范蠡は「問題ありません」と答えました。
越は習流(水軍。訓練を受けた囚人という説もありますが、水軍の方が正しいようです)二千人、教士(教練を受けた士)四万人、君子(教育を受けた禁衛)六千人、諸御(各種の事務を処理する軍官)千人を動員して呉を討伐します。
呉軍は敗れて太子が殺されました。
この情報は呉王に知らされました。呉王は黄池で諸侯と会したばかりだったため、本国の敗戦を天下に知られることを恐れて情報を隠しました。
黄池の会盟が終わってから、呉王は人を派遣して越に厚礼を贈り、講和を求めました。越もまだ呉を滅ぼす力がなかったため、呉と講和しました。
 
四年後、越が再び呉を攻撃しました。呉の士民は疲弊しており、精鋭も斉や晋との戦いで失っています。
越が呉に大勝し、呉都を三年にわたって包囲しました。
呉軍は敗れ、夫差は姑蘇の山にこもります。
呉王・夫差は大夫・公孫雄を派遣して講和を求めました。公孫雄が肉袒膝行(上半身を裸にして膝で歩くこと。降伏の礼です)して前に進み、越王・句践に夫差の言葉を伝えました「孤臣(孤立して助けがない臣)・夫差が敢えて心中を述べます。かつて会稽で罪を得た時、夫差は命(越王の命)に逆らわず、君王と講和して兵を還しました。今、君王は自ら玉趾(帝王の足)を挙げて(親征して)孤臣を誅しました。孤臣は君王の命に従うだけですが、会稽のように孤臣の罪を赦していただけることを心中で願います。」
句践は憐れみを感じて講和に同意しようとしました。
しかし范蠡が言いました「会稽の事は天が越を呉に与えたのです。しかし呉はそれを受け取りませんでした。今、天が呉を越に与えようとしているのに、越も天に逆らっていいのですか?そもそも君王が朝から夜まで政務に励んだのは、呉に報復するためだったのではありませんか?二十二年間にわたる謀を一朝にして棄てるのはなぜですか?天が与えた物を受け取らなかったら咎を受けます。『斧で木を伐って斧の柄を作る時、参考になる斧は遠くない(伐柯者其則不遠)』と言います。君王は会稽の厄(苦難)を忘れたのですか?」
句践が言いました「わしは子(汝)の言に従いたい。しかし使者が憐れだ。」
范蠡は自ら戦鼓を叩いて兵を進め、こう言いました「王は既に政治を執事(政治を行う者。范蠡に委ねた。使者は去れ。逆らえば罪を得ることになる(原文「不者且得罪」。主語がはっきりしません。「逆らえばあなたが越の罪を得ることになる」「あなたが越に対して罪を犯すことになる」という解釈でも、「逆らえば越があなたの罪を得ることになる」「越があなたを侵す(害す)ことになる」という解釈でも通じます。後者なら『国語・越語下』の内容と一致します)。」
公孫雄は泣いて引き返しました、
句践は呉王を憐れみ、人を送ってこう伝えました「王を甬東に置き、百家の主にしよう。」
しかし夫差は拝謝して「私は年老いた。君王に仕えることはできない」と言うと自殺しました。
死ぬ前に夫差は布で自分の顔を覆い、こう言いました「わしには子胥に会わせる顔がない。」
越王・句践は呉王・夫差を埋葬し、太宰嚭を誅殺しました。