春秋時代289 東周敬王(五十八) 孔子の死 前479年(1)

今回は東周敬王四十一年です。三回に分けます。
 
敬王四十一年
479年 壬戌
 
[] 春正月己卯(二十七日)、衛世子(太子)・蒯聵が戚から衛に入り、衛侯・輒(出公)が魯に出奔しました。
これは『春秋』経文の記述で、『春秋左氏伝』は前年閏十二月の事としています。
『春秋』は魯の史書なので、魯に事件の報告があったのが本年正月だったのかもしれません。あるいは蒯聵が衛に帰ったのは昨年ですが、衛侯・輒が魯に入ったのが本年正月己卯だった可能性もあります。
 
[] 二月、衛の瞞成(子還成)と褚師比が宋に出奔しました(前年参照)
 
[] 衛荘公が大夫・鄢肸(武子)を派遣して周王室にこう報告しました「蒯聵(荘公)は君父と君母の罪を得て晋に逃げましたが、晋は王室の縁故によって兄弟を棄てず(周王室も晋、衛も姫姓です)、蒯聵を河上黄河の辺)に置きました。その後、天が恩を開き、跡を継いで国を守ることになりました(即位できました)。よって下臣・肸を送ってこの事を報告します。」
周敬王が卿士・単平公に言葉を伝えさせました「肸が嘉命(衛荘公の命)をもって余一人(天子)に報告した。肸は帰って叔父(衛荘公)に伝えよ。『余は汝が父の世を継ぐことを嘉し、汝の禄次(禄位。ここでは国君の地位)を回復させよう。恭敬であれ。そうすれば天が福を与えるであろう。恭敬でなければ福を得ることはできず、後悔しても及ばない。』」
 
[] 夏四月己丑(十一日)、孔丘孔子が死にました。七十二歳もしくは七十三歳です。
『春秋左氏伝』に書かれている『春秋』経文はここ(魯哀公十六年)で記述が終わります。『春秋左氏伝』自体は魯哀公二十七年(東周貞定王元年・前468年)まで続きます。
 
史記孔子世家』が死ぬ直前の孔子について書いています。
孔子にかかった時、子貢が見舞いに来ました。
孔子はちょうどをついて屋敷のの周りを歩いていました。
孔子「賜(子貢の名)よ、はなぜ来るのが遅くなったのだと言ってから嘆息し、を歌いました太山が崩れ、梁柱が倒れる。哲人が終わる太山梁柱摧乎哲人萎乎
孔子が涙を流して子貢に言いました「天下を失って久しく、私の考えに賛同する者もいない。夏人東階(東廂の階段)(埋葬前に霊柩を置いて葬儀を行うこと)周人西階で、殷人は両(堂の二本の柱)した昨晩、わしは両柱の間で(祭祀)を受ける夢を見た。私の先祖は殷人である(殷の葬礼に従え)。」
七日後に孔子は死にました
 
以下、『春秋左氏伝(哀公十六年)』からです。
魯哀公が誄(生前の徳を称える追悼文)を作って言いました「上天が不善のため、一人の国老も残すことなく、余一人(天子の自称)に位を守らせることになった。余は悲しみ憂いて病を生じた。哀しいことだ。尼父(「尼」は孔子の字・仲尼を指し、「父」は年長者に対する尊称です)よ。模範とする者がいなくなってしまった(旻天不弔,不憖遺一老,俾屏余一人以在位,煢煢余在疚。嗚呼哀哉。尼父。無自律)。」
これを聞いて子贛(子貢)が言いました「国君は魯で良い終わりを迎えることができないだろう。夫子(彼。孔子はかつてこう言った『礼を失ったら昏(暗愚)になり、名(名分・秩序)を失ったら愆(過失)となる(礼失則昏,名失則愆)。』志(意志。考え)を失うことを昏といい、所(身分。立場)を失うことを愆という。孔子が)生きている間は用いることができなかったのに、死んでから誄を与えるのは非礼だ(生前と死後で孔子に対する態度が違うことを「意志を失っている」と非難しています)。余一人というのは非名だ(「余一人」は天子の自称なので諸侯が使ったら名分を失うことになります)。国君は(礼と名の)両方を失ってしまった。」
 
史記孔子世家』によると、孔子魯城北泗上水沿岸)に埋葬されました。
孔子弟子三年の喪に服しました
三年後、それぞれ別れを告げます。ある者は泣いて去り、ある者は再び留まりました。
子貢(墓)の近くに盧(小屋)を立てて六年の喪に服してから去りました
百余家の弟子魯人孔子の周りに集まって村を形成し、孔里命名されました。
は代々孔子で歳祀を行い、学者も孔子を訪れて儀礼や儀式について語るようになりました。孔子一頃の大きさがあります
孔子故居弟子の部屋は後に孔子となり、孔子衣冠、書籍が収蔵されました。
それは二百年以上経った漢代(『史記』が編纂された時代)まで失われることなく、高皇帝西漢高祖・劉邦を通った時には太牢(牛・羊・豚の犠牲)を使って孔子を祀りました。
また、諸侯もまず孔子廟を訪れて参してから、政務に就くようになりました
 
『説苑・貴徳(巻五)』からです。
魯の季康子が子游(言偃)に問いました「仁者とは人を愛するものか?」
子游が「その通りです」と答えると、季康子は「人もそれ(仁者)を愛するものか?」と問いました。
子游はやはり「その通りです」と答えます。
そこで季康子が言いました「鄭の子産が死んだ時、鄭の丈夫(男)は玦佩をつけず、婦人(女)は珠珥(耳飾り)をつけず、夫婦が巷で哀哭し、三か月の間、竽琴の音(音楽。竽は管楽器の一種)がなくなった。しかし仲尼孔子が死んだ時、魯国の人々がそのように夫子を愛したとは聞いたことがない。それはなぜだ孔子は仁者ではなかったのか)?」
子游が答えました「子産と夫子(先生。孔子浸水(灌漑の水)と天雨のようなものです。浸水が至るところでは植物が育ち、至らないところでは死んでしまいます(浸水は至る場所と至らない場所があり、至った場所では感謝されます)。しかし民が生きるには必ず時に応じた雨が必要です(天雨は浸水と異なり、全ての民に必要です)。それなのに人々は既に生を与えられても、天雨に感謝することはありません。だから子産と夫子は浸水と天雨のようなものなのです。」
 
ほぼ同じ内容が『孔叢子・雑訓(第六)』にもあります。
懸子(『孔叢子』の注釈によると名は瑣。魯人。詳細不明)が子思孔子の孫)に問いました「同声の者(志向が同じ者)は互いに近づきあうという。子の先君孔子は子産に会って兄事したが、世は子産を仁愛の人と称し、夫子孔子を聖人と称した。これは聖道が仁愛に仕えたということか?私には彼等の前後がわからないから、子に質問するのだ。」
子思が答えました「子(あなた)の問いは、かつて季孫が子游に質問した内容と同じです。子游はこう答えました『子産の仁愛と夫子の関係は、浸水と膏雨(恵みの雨。天雨)のようなものです。』康子が言いました『子産が死んだ時、鄭人の丈夫は玦珮をつけず、婦女は珠瑱(耳飾り)をつけず、巷で三カ月も哀哭し、竽瑟を奏でることがなかった。しかし夫子が死んでから、魯人がそのようにしたという話は聞いたことがない。それはなぜだ?』子游が言いました『浸水が至るところは生き、至らないところは死にます。だから民は全てその存在を知っています。しかし膏雨が生を与えている場所はそれ以上ないほど広大で、民が受ける恩恵も行き届いているので、それがどこからもたらされているのか気がつきません。最上の徳とは敢えて徳を行おうとしないから、本当の徳が存在します。逆に下級の徳とは徳を失わないようにするから、徳があるように見えて本当の徳が存在しなくなるのです(本文は「上徳不徳,是以無徳」ですが、理解が困難なので老子の『道徳経』から「上徳不徳,是以有徳。下徳不失徳,是以無徳」を引用しました)。』子游の話を聞いた季孫は『素晴らしい(善)』と言いました。」
懸子も納得して「その通りだ(然)」と言いました。
 
孔子の子・伯魚(鯉)については東周敬王三十九年(前481年)に触れました。伯魚は五十歳の時、孔子よりも先に死にました。
伯魚以降の家系を『史記孔子世家』から紹介します。
伯魚は伋という子を産みました。字を子思といいます。子思は宋で窮乏したことがありました。
子思は『中庸』を編纂したといわれており、『中庸』は四書五経のひとつに数えられています。四書は『論語』『孟子』『大学』『中庸』、五経は『詩経』『書経尚書』『礼記経』『易経周易』『春秋経』を指します。
子思は六十二歳(一説では「八十二歳」の誤り)で死にました。
 
子思は白を産みました。字は子上といい、四十七歳で死にました。
子上は求を産みました。字は子家といい、四十五歳で死にました。
子家は箕を産みました。字は子京といい、四十六歳で死にました。
子京は穿を産みました。字は子高といい、五十一歳で死にました。
子高は子慎を産みました。子慎は魏国の相を勤め、五十七歳で死にました。
子慎は鮒を産みました。陳王・涉陳勝の博士となりましたが、五十七歳の時、陳下で死にました。
鮒の弟を子襄といい、西漢恵帝の博士を勤め、後に長沙太守(恐らく長沙王国の「太傅」の誤りです)に任命されました。身長は九尺六寸あったといいます。五十七歳で死にました。
子襄は忠を産みました。忠は五十七歳で死にました。
忠は武を産み、武は延年と安国を産みました。安国は西漢武帝の博士となり、臨淮太守を勤めましたが、早死しました。
安国は卬を産み、卬は驩を産みました。
史記』を書いた司馬遷西漢の歴史家なので孔子の家系はここまでしか紹介していませんが、実際はこの後も続きます。
 
 
 
次回に続きます。