春秋時代293 東周敬王(六十二) 衛の内乱 前478年(2)

今回は東周敬王四十二年の続きです。
 
[] 楚恵王と葉公が子良(恵王の弟)を令尹にすることを枚卜で卜いました。牧卜というのは卜いの内容を語らずに亀の甲羅で卜うことです。
沈尹・朱(子朱)が言いました「吉です。志を越えています(原文「過於其志」。恐らく、「充分任せられる」という意味です)。」
しかし葉公が反対して言いました「王子でありながら相国になったら(王を補佐する令尹になったら)、その後は何になるというのだ(国王になるしかありません)。」
後日、子国(公孫寧。子西の子)を卜って令尹に任命しました(前年参照)
 
[] 衛荘公が北宮で夢を見ました。ある人が昆吾の観(北宮の南にある楼台)に登り、髪を乱して北を向き、こう叫んでいます「この昆吾の墟(昆吾氏の廃墟)に登ると、瓜が緜緜(限りなく続く様子)と生っているのが見える(衛の家系が断続することなく続いているという比喩です。衛侯を助けて国君の位を継承させたのは自分の功績であると言っています)。余は渾良夫だ。天に無辜を叫ぼう(太子・疾に陥れられたことを怨んでいるようです。あるいは、三罪までは死罪を免れられるという盟を結んだのに、三罪で殺されたことを怨んでいるのかもしれません)。」
荘公は目が覚めてから自ら筮を行いました。筮師・胥彌赦が占って言いました「害にはなりません。」
荘公は胥彌赦に邑を与えましたが、胥彌赦は辞退して逃走しました。荘公が無道だったため、本当の事を言えなかったようです。
荘王が再び卜うと、その繇(卜辞)はこう出ました「淡い赤色の尾をもった魚(尾が赤いのは魚が泳ぎ疲れているためのようです。荘公が暴政を行って自分を衰弱させていることの喩えです)、流れを横切って不安でいる。大国に近接し、滅ぼされ、亡命する。門を閉ざして洞を塞ぎ、後ろの壁を飛び越える(如魚尾,衡流而方羊。裔焉大国,滅之,将亡。闔門塞竇,乃自後踰)
 
[] 冬十月、晋が再び衛を攻撃し、郛(外城)に入りました。
内城に入ろうとした時、趙鞅が言いました「止めよう。叔向がかつてこう言った『乱につけこんで国を滅ぼしたら、後代が途絶える(怙乱滅国者無後)。』」
 
衛人は荘公を駆逐して晋と講和しました。荘公は斉に奔ります。
晋は衛襄公の孫・般師を衛君に立てて兵を還しました。
 
[] 十一月、衛荘公が鄄(斉の邑)から衛都・帝丘に帰りました。般師が出奔します。
 
以前、荘公は城壁に登って遠くを眺め、戎州(戎族の邑)を見つけました。荘公が近臣にその場所が何かと問うと、近臣は戎州の説明をします。
荘公が言いました「わしは姫姓だ。なぜ戎が居るのだ。」
荘公は戎州を滅ぼしました。
 
荘公は工匠に休みを与えず働かせました。
また、荘公は卿・石圃(石悪の従子)を放逐しようとしました。しかし実行する前に乱が起きます。
 
辛巳(十二日)、石圃が工匠と結んで荘公を攻めました。荘公が門を閉じて命乞いをしましたが、石圃は赦しません。荘公は北の壁(南が表、北が裏になります)を飛び越えましたが、転落して股の骨を折りました。
そこに戎州の人々も襲いかかります。太子・疾、公子・青(太子の弟)も公宮の壁を越えて荘公に続きましたが、戎州人に殺されました。
 
荘公は戎州の己氏の家に逃げ入りました。
かつて荘公は城壁の上から己氏の妻を眺め、その髪が美しかったため剃り落として夫人・呂姜の髢(かつら)にしました。
己氏の家に入った荘公は璧玉を見せて言いました「わしを生かすことができたら、汝に璧を与えよう。」
己氏が言いました「汝を殺しても、璧はどこにも行かない。」
荘公は殺され、璧も奪われました。荘公の在位年数はわずか二年です。
 
衛人は再び公孫・般師を立てました。
 
十二月、斉が衛を討伐しました。衛は和平を請います。
斉軍は公子・起(霊公の子)を衛君に立て、般師を捕えて引き上げました。般師は潞(斉都郊外)に住むことになりました。
 
以上は『春秋左氏伝哀公十七年)』の記述です。『史記・衛康叔世家』は少し異なります。
この年、衛荘が城壁に登って戎州を眺めました
荘公が言いました「戎虜がなぜ邑を造るのだ。」
この言葉を知った戎州は荘公を警戒しました
十月戎州の人々が晋の趙簡子趙鞅)に告げました(原文は「戎州告趙簡子」。何を告げたのかはっきりしません。衛荘公の暴虐を訴えたと思われます)
簡子が衛を包囲しました。
十一月、衛荘が出奔しました。
公子斑師般師)を衛に立てました
しかし斉が衛を攻めて斑師を捕え、公子を衛に立てました
 
少しややこしいので衛君の家系を整理します。襄公の代に遡ります。
襄公の子が霊公で、霊公の子が荘公・蒯聵になります。
荘公の子が出奔中の出公・輒です。
公子・般師は襄公の孫なので、荘公とは従兄弟の関係になります。
公子・起は霊公の子なので、荘公とは兄弟になります。
 
[] 魯哀公が斉平公と蒙で盟を結びました。魯の仲孫彘(孟武伯)が相(国君の補佐)を勤めます。
斉平公が稽首した時、魯哀公は拝礼を返しました。稽首は跪いて頭を下げますが、拝礼は腰を曲げて頭を下げるだけです。斉人が怒ると仲孫彘が言いました「天子でなければ寡君は稽首しません。」
 
仲孫彘が高柴(子羔。季羔)に問いました「諸侯の盟では誰が牛耳を執る(執牛耳)べきだ?」
高柴が答えました「衍の役(東周敬王三十二年・前477年に触れましたが、会盟の詳細はわかりません)では呉の公子・姑曹が牛耳を執り、発陽の役(鄖の会盟。東周敬王三十七年・前483年)では衛の石魋(卿)が牛耳を執りました。」
仲孫彘が言いました「それなら今回は彘(私)だ。」
会盟で犠牲の牛耳を執るというのは、会盟を主宰するという意味ですが、実際に牛耳を切るのは盟主ではなく小国の役目です。小国の卿大夫が盟主を補佐して牛耳を切りとることになっていました。
衍では魯と呉が盟を結びましたが、大国の呉が牛耳を執ったというのは、礼から外れたことです。
発陽では魯・衛・宋が盟を結びました。衛の卿が牛耳を執ったので、衛は盟主ではなかったようです。仲孫彘は魯が小国なので、今回の会盟では自分が牛耳を執ると言いました。
 
[] 宋の右師・皇瑗の子・麇には田丙という友がいました。麇は自分の兄・(または「劖般」。般が名で、は宋の邑名。般は封じられたため、般といいます)の邑を奪って田丙に与えました。
怒った般は桓司馬(向魋)の臣・子儀克に話しました。子儀克は向魋の乱に参加せず、宋の郊外に留まっていたようです。
子儀克は宋都に入り、夫人(景公の母)に言いました「麇が桓氏(向魋)を国に入れようとしています。」
これを聞いた景公は皇野(子仲)に意見を求めました。
以前、皇野は杞姒(皇野の妻)が産んだ子・非我を嫡子に立てようとしましたが、麇が「伯(年長者。非我の兄)を立てるべきです。彼は良材です」と言って反対しました。皇野は麇の忠告を無視し、自分に反対した麇を憎むようになりました。
そのため、景公に意見を求められた皇野はこう答えました「右師は既に年老いていますが、麇は分かりません(右師は老齢なので乱を起こすことはできませんが、麇にはその恐れがあります)。」
景公は麇を捕えました。
皇瑗は恐れて晋に奔りましたが、景公に呼び戻されました。
 
 
 
次回に続きます。