春秋時代294 東周敬王(六十三) 東周敬王の死 前477~476年

今回は東周敬王四十三年と四十四年です。
 
敬王四十三年
477年 甲子
 
[] 春、宋が皇瑗を殺しました。
『春秋左氏伝(哀公十八年)』は皇瑗が殺された場所を書いていませんが、『竹書紀年(今本・古本)』には「宋が大夫・皇瑗を丹水の辺で殺した」とあります。
 
また、この頃(詳しい月は不明)、宋で大水(洪水)がありました。丹水が塞がって流れなくなったことが原因のようです(『竹書紀年』の原文は「宋大水,丹水壅不流」です。「宋で大水があり、丹水が塞がって流れなくなった」と読めますが、洪水で川が流れなくなるのは不自然なので、「丹水が塞がった」のが洪水の原因だと思われます)
 
『春秋左氏伝』に戻ります。
宋景公は後に皇瑗と麇の冤罪を知り、皇氏の家系を回復させて皇緩(皇瑗の従子、または従孫)を右師に任命しました。
 
[] 巴が楚を攻撃してを包囲しました
 
以前、楚の子国(令尹・公孫寧)が令尹になる前に、右司馬に任命することを卜いました。観瞻が「志(希望)にかなっています」と言ったので、楚は子国を右司馬に任命しました。
巴軍が楚を攻めた時、誰を将帥にするか卜おうとしましたが、恵王が言いました「寧が既に志にかなっている。何を卜うというのだ。」
恵王は子国に兵を率いさせることにしました(この時は令尹になっています)。子国が補佐の将を任命するように求めると、恵王は「寝尹(呉由于)と工尹固)は先君によく勤めた」と言いました。
寝尹は柏挙の役(東周敬王十四年・前506年)の後に昭王を助けて負傷した王孫由于です。工尹は象の尾に火をつけて昭王を逃がした鍼尹・固です。この時は工尹になっていました。
 
三月、楚の公孫寧と呉由于、(まったは「屈固」)で巴軍を破りました。
恵王は子国を析に封じました。
 
[] 夏、衛の石圃(または「石曼尃」)が国君・起を駆逐しました。衛君・起は斉に出奔します。
衛侯・輒(出公)が斉から戻って復位し、石圃を追放しました。荘公に廃されて出奔していた石魋と太叔遺が呼び戻され、元の官職が与えられました。
 
[] この年、秦悼公が死にました。『春秋左氏伝』では在位年数十五年、『史記』では十四年になります。子の厲共公(または「厲公」)が即位しました。
 
[] 『資治通鑑外紀』はこの年に「晋の妊婦が七年も子を産まず、西山の女子が丈夫()になった」と書いています。恐らく『竹書紀年』の記述が元になっています(東周敬王三十三年参照)
 
[] 『資治通鑑前篇』がここで『史記・田敬仲完世家』の記述を紹介しています東周敬王三十九年・前481年に書いた内容です)
この頃、斉で実権を握った田常は鮑氏、晏氏および監止(監止は既に殺されているので、その一族を指すと思われます)や公族で権勢を握る者をことごとく滅ぼし、安平以東から琅邪に至る地を自分の邑にしました。田氏の封邑は平公が直轄する領地よりも広くなります。
 
 
 
翌年は春秋時代最後の一年です。
 
敬王四十四年
476年 乙丑
 
[] 『史記・十二諸侯年表』によると、この年が衛出公後元年になります。出公は前年帰国しました。改めて即位し、改元したようです。
『衛康叔世家』は出公後元年に、出公の亡命に従った者を賞したとしています。
 
[] 春、越が楚を攻撃しました。攻撃の矛先を楚に向けて呉を油断させるためです。
これは『春秋左氏伝(哀公二十年)』の記述です。『史記・呉太伯世家』では、この年も越が呉を攻めたとしています。
 
[] 夏、楚の公子慶、公孫寬が越軍を撃退するために冥(越地)まで来ましたが、越軍は既に撤退しており、追いつかなかったため楚軍も引き上げました。
 
[] 秋、楚の葉公・沈諸梁が東夷を攻撃しました。越の進攻に対する報復です。
三夷(越に従っていた夷のうち三つの族)の男女が敖(東夷の地)で楚と盟を結びました。
 
[] 冬、魯の叔青(「僖仲」または「僖伯」。叔還の子)が京師(周都)に入りました。周敬王が死んだためです。
 
これは『春秋左氏伝』の記述で、東周敬王四十四年(本年)に敬王が死んだと分かります。
しかし『史記・周本紀』は敬王の在位年数を四十二年とし、『十二諸侯年表』では四十三年になっています。
恐らく『史記』より先に編纂された『春秋左氏伝』が正しいと思われます。『帝王世紀』『竹書紀年(今本)』も『春秋左氏伝』と同じ四十四年としています。
但し、『帝王世家』には「敬王の在位年数は四十四年。元年は己卯(前522年。東周景王二十三年のはずです)崩御は壬戌(前479年。敬王四十一年のはずです)」とあります。実際は、敬王元年は壬午、末年(四十四年)は乙丑になるはずです。
 
尚、『資治通鑑外紀』は敬王の在位年数を四十三年とし、『資治通鑑前編』は四十四年としています。
 
史記・周本紀』は敬王が死んで、子の元王・仁が立ったとしています。元王は在位八年で死に、子の定王・介が継ぎます。
しかし『世本(張澍稡集補注本等)』を見ると、敬王が死んで貞王・介が立ち、貞王が死んで元王・赤(『史記』では元王の名は仁です)が立ったとあります。
また、『帝王世紀』には「敬王が死んで子の貞定王が立ち、貞定王が十年で死んでその子・元王が継いだ」という記述があります(この他にも二種類の説が書かれています。東周元王七年・469年に再述します)
これに関して『史記・周本紀』の注(索隠)に解説があります。「定王」は東周時代に既に存在した諡号なので、再び同じ諡号が使われるとは思えません。恐らく『史記』が誤りです。『帝王世紀』は『史記』と『世紀』のどちらの説が正しいか判断できなかったため、王の諡号は「定王」と「貞王」を合わせて「貞定王」とし、順序は『世紀』に従ったようです。
 
 
 
次回から戦国時代に入ります。