春秋時代 白公の乱(前)

東周敬王四十一年479年)に楚で白公の乱が起きました。
二回に分けて『国語』等の記述を紹介します。
 
まずは『国語・楚語下』からです。
楚の令尹・子西が人を送って王孫勝(平王の太子だった建の子)を招きました。
それを聞いた沈諸梁(葉公・子高。楚の左司馬・沈尹戌の子)子西に会って言いました「王孫勝を招いたと聞きましたが、本当ですか?」
子西が「そうだ」と答えると、子高が問いました「どのように用いるつもりですか?」
子西が言いました「勝は実直で剛強だと聞いた。辺境に置いて呉の守りにしようと思う。」
子高が言いました「いけません。彼の人となりは展(誠実)に見えますが実際は信がなく(展而不信)、人を愛しているように見えますが実際は仁がなく(愛而不仁)、詐(謀略)を行いますが実際は智がなく(詐而不智)、毅(剛毅)のようですが実際は勇がなく(毅而不勇)、直(実直)ですが衷(適切なこと。または正しい中身)がなく(直而不衷)、言葉は周(周密・周到)ですが淑(善。清美)がありません(周而不淑)。約束(または誓い。自分が決めた事)を守るために自身の利害を考慮できないことを展といいます。人を愛しながら遠い先を考慮できないことを不仁といいます(人を愛しているように見えても、相手の将来を考えることができなければ不仁です)。謀(謀略)が人を覆う(謀略にのめり込む)ことを詐(奸詐)といいます。強引で義(道理)に背くことを毅といいます。実直でも避けるべきことを顧みる力がなければ不衷といいます。言葉が周密でも徳を棄てたら不淑といいます。この六徳(展・愛・詐・毅・直・周)は、一見立派に見えますが、実際は中身がありません。どうしてこれを用いることができるでしょう。
彼は父が楚に殺されたので、心は狷固執すること。自分の考えを変えることができないこと)であり、行動は不絜(不純)です。狷によって旧怨を忘れず、純潔な心で徳を改められなければ、彼は怨に報いることしか考えることができません。愛によって人を得て、展(約束を破らないこと)によって誓いを守り、詐によって充分な謀略を行い、直(実直)によって衆を率い、周(周到な言葉)によって悪を隠し、不絜(不純な心)によって行動を起こし、更に不仁が加わり、不義を奉じたら、報復が失敗するはずがありません(必ず乱を起こします)
勝の怨みとなっている者(太子・建を讒言した費無極や処刑した平王等)は、既に皆存在しません。彼を招いても寵用しなかったら、彼の怨怒を速めることになります(復讐する相手がいないので、国に対する怨みが大きくなり、乱を速めることになります)。しかし寵用したとしても、彼の貪欲には際限がなくなり、人心を得るように動き始め、大利を示して人々を誘い、不仁によって自分の欲を増長させ、旧怨を思って復讐の心を育てさせるでしょう。いったん国に隙が生まれたら、静かにしているはずがありません。その時の禍が、子(あなた)の責任ではなくて誰の責任だというのでしょう。彼は旧怨を思って大寵(国に重用されること。令尹、司馬等の高位)を求め、動いたら人を得ることができ、怨みに報いるには術(方法。謀略)を使うことができます。彼を用いたら害を待つことになります。私は子と司馬(子西の弟・子期)を愛すので、敢えて言わせていただきます。」
子西が言いました「徳は怨みを忘れさせることができるだろう。わしが厚遇すれば、彼に安寧を与えられるはずだ。」
子高が言いました「それは違います。仁者だけが好悪・高下(高低)を受け入れることができると言います。仁者は厚遇されても他者を虐げず、冷遇されても怨まず、地位が高くなっても驕らず、地位が低くても不安になりません。しかし不仁の者は異なります。不仁の者は、人が彼に善く接したら相手を凌駕しようとし、悪く接したら怨みを抱き、地位が高くなれば驕慢になり、地位が低くなれば恐れて不安になります。驕ったら貪欲になり(野心を抱き)、恐れて不安になったら怨みを抱くようになります。欲(貪欲。野心)・悪(怨恨)・怨(悪とほぼ同義。怨恨)・偪(人を凌駕し虐げようとすること)は詐謀が生まれる原因です。子はどうするつもりでしょう。彼を招いて下に置いたら、彼は悲観して不安になるでしょう。しかし彼を上に置いたら、怒(父を殺された怒り)によって怨みを持つようになるでしょう(権力を握ったら報復の野心を抑えられなくなるでしょう)。これでは詐謀の心が収まることはありません。一つの不義でも国家に敗亡をもたらすことがあるのに、今、彼一人の身に五六の不義が存在しています。それを用いようとするのは、難しいことではありませんか?国家が敗亡する時は、必ず姦人を用いるものだといいます。敢えて疾味(人に害を及ぼす美味)を好んで食べるというのは、子(あなた)のことを指すのではありませんか?
誰にでも疾眚(災害)が起きる恐れはあります。しかし能力がある人は、それを早くから除くことができるものです。旧怨によって宗族を滅ぼすのは、国にとっての疾眚です。それを防ぐために関籥(関所の鍵)や蕃籬(垣根)を設けて遠くに備えを作ったとしても、まだ恐れを抱いて日々警戒しなければならないのに、自ら傍に招いたら、死が訪れるまで数日もなくなります。こういう言葉があります『狼の野心とは、怨みを抱いて人を害そうとする者の心だ(狼子野心,怨賊之人也)。』彼にどのような善があるのでしょうか。もし私の言葉を信用しないのなら、なぜ若敖氏や子干、子皙の一族を近くに置かず、勝だけを用いるのでしょうか(若敖氏は楚荘王に滅ぼされ、子干と子皙は平王に殺されました。「なぜ王孫勝だけ招いて他に怨みがある者は用いないのですか」という意味です)。危険は近くに迫っています。
昔、斉の騶馬繻が胡公を殺して具水(または「貝水」)に棄て、邴閻職が懿公を囿竹(竹林)で殺し、晋の長魚矯が三郤(郤錡・郤至・郤犨)を榭(楼台)で殺し、魯の圉人(馬の飼育係)・犖が子般(魯荘公の太子)を次(舎。党氏の家)で殺しました。これらはなぜ起きたのでしょうか?全て旧怨が原因ではありませんか?これらの故事は子も全て聞いたことがあるはずです。人は善敗(善悪成敗)の教訓をたくさん聞いて自分の戒めにするものです。しかし今、子は教訓を聞いても用いません。耳を塞いでいるのと同じです。私がこれ以上語っても益はありません。私は乱を避ける方法を知っているだけです(私が知っていてもあなたが聞く耳を持たなければ、役に立ちません)。」
子西が笑って言いました「子は勝を買いかぶり過ぎている。」
子西は王孫勝を招いて白県の長に任命しました。王孫勝は白公とよばれるようになります。
子高は病と称して旧蔡国の地にこもりました。
 
後に白公が乱を起こし、子西と子期が殺されました。
それを聞いた葉公・子高が言いました「私は令尹が私の言を用いなかったことを怨んでいるが、彼が楚国を治めた功績には感謝している。楚国が安定して先王の業を回復できたのは、夫子(彼)のおかげだ。小怨によって大徳を忘れたら、私が不義になる。国都に入って白公を倒そう。」
子高は方城外の兵を率いて国都に入り、白公を殺して楚王室を安定させ、乱に遭った二子(子西と子期)の族人を埋葬しました。
 
 
 
次回に続きます。